渋沢喜作は渋沢栄一のいとこで、
幼いころから親しかった。
(渋沢喜作/パンフレットより)
このパンフレットによれば、
「渋沢喜作は彰義隊・振武軍のリーダー、
渋沢栄一の従兄であり、幼いころから親しかった。
幕臣となり、彰義隊の隊長を務め、官軍と戦い、
飯能戦争で敗れる。
その後、栄一の推薦で大蔵省に務めた。」とある。
写真右側の赤い丸の中が渋沢喜作のスタンプ。
次が板橋区の郷土資料館。
高島秋帆(たかしましゅうはん)は板橋区徳丸が原で、
西洋の砲術練習を初めて行った。
その関係で徳丸が原を高島平と呼ぼようになった。
ここに6万世帯に及ぶ大団地が出来て、
「高島平団地」が建設された。
(高島秋帆/パンフレットより)
「徳丸が原で日本初のオランダ式の洋式砲術調練を実施し、
幕府の軍政改革に関わった。後に岡部藩で幽閉された際に、
幼少期の渋沢栄一と出会ったと言われている。」パンフレットより。
「田端文士村記念館」へ
つづく
栄一と同様に、国の将来を真剣に考え抜き、そのまま実際に行動に移した素晴らしい人物でした。
高島秋帆が、板橋区で西洋砲術練習を初めて行い、その地を高島平と呼ぼようになり、これが「高島平」の地名の由来とは知りませんでした。
勉強になります。
板橋宿周辺は、渋沢栄一とその周囲にいた偉人達のゆかりの地なんですね。