奈良にある田原本町は、近頃桃太郎の誕生地として大々的に売り出している。桃太郎と言うと岡山県のイメージがあり、関西の方では、桃太郎、きび団子、岡山という形に結びついていくのではないかと思う。僕も、田原本町にそういう動きがあるとは全く知らず、近鉄田原本線但馬駅を降りて、黒田大塚古墳をめざしてとことこと歩いているときに偶然に見つけたのがこの説明板である。
もともと、桃太郎伝承については、崇神天皇の時代に各地に派遣された四道将軍の一人吉備津彦命がその伝説のもとになったと言われている。吉備津彦命は、孝霊天皇の皇子であり、四道将軍として西道の方面に派遣されて、吉備の国などの平定をしたと言われている。孝霊天皇の皇居「黒田盧戸宮(いろとのみや)」の伝承地がこの地にあり、吉備津彦命が、孝霊天皇の皇子であると伝わること、そして、田原本には川上から川を流れてきた男の子が神様になったという伝承があることなどを結び付けて、桃太郎の誕生地としている。
※柳田國男の「桃太郎の誕生」では、「昔、大和の国が洪水の時に、初瀬川が氾濫し、大きな甕が三輪大社の社殿の前に流れ着いた。中を見ると玉のような男の赤ちゃんがいた。この赤ちゃんが大きくなって、吉備津彦になったと記されている。
この説明板と孝霊天皇の黒田盧戸宮と記した石碑が、法楽寺というお寺にある。
法楽寺については、聖徳太子の創建と伝えられるが、中世戦火に遭い、現在は一堂を残すのみとなっている。
さて、目標の黒田大塚古墳であるが、法楽寺から東へ5分もかからないほどの所にある。もしかしたら、昔は、法楽寺の中にあったのかもしれないと思わせるほどの距離である。
少し古い民家が立ち並ぶ中に突然丸坊主の小さい丘が視界に入ってくる。シンゴジラの第1段階みたいな姿である。また、ナマズのようにも見える。
古墳自体は、6世紀の初頭に築造された古墳であり、二段築造、周濠を含めた全長は86mであり、墳丘の大きさは約70m、後円部径約40m、高さ約8m、前方部幅約45m、高さ約7mと考えられているが、後世にかなり墳丘等に改変が加えられており、前方部がかなり削られているため、写真のように頭でっかちのような形になっている。
前方部と後円部の接合部、くびれ部の所から階段があり、墳丘に登れるようになっている。
登ってみると、前方部の方がかなり後円部より低くなっているのがわかる。6世紀の初め頃だと前方部の方が同じくらいか高くなっているのがパターンのような気がするが、最前線の流行より少し遅れているのかもしれない。
反対側(南側)から取った写真。アスファルトの部分が周濠があったところである。もともとの墳丘があった場所には植栽がなされている。
内部構造は、調査がされていないので不明。横穴式石室があるのではないかとも言われている。将来の発掘調査に期待したいと思う。この日、雨模様だったので雨宿りをした東屋には、古墳の変遷を説明した図が掲示されている。
説明によると、古墳には、約8mの周濠があったが、8世紀奈良時代にはすでに埋め立てられている。その後鎌倉時代には、周濠部分に溝を掘り、さらに江戸時代になってその内側に、古墳の墳丘を削って、溝ができたらしい。こういう変遷図が掲示されているところって珍しいよね。
この黒田大塚古墳は、川西町、三宅町、田原本町にまたがる三宅古墳群の南限に築造されている。(ちなみに北限は島の山古墳)古墳群の中でも比較的新しい方だと思われる。あまり、中和と呼ばれる地域に足を踏み入れたことがなかったので、これから少しずついろいろなものを探索していきたいですね。
もともと、桃太郎伝承については、崇神天皇の時代に各地に派遣された四道将軍の一人吉備津彦命がその伝説のもとになったと言われている。吉備津彦命は、孝霊天皇の皇子であり、四道将軍として西道の方面に派遣されて、吉備の国などの平定をしたと言われている。孝霊天皇の皇居「黒田盧戸宮(いろとのみや)」の伝承地がこの地にあり、吉備津彦命が、孝霊天皇の皇子であると伝わること、そして、田原本には川上から川を流れてきた男の子が神様になったという伝承があることなどを結び付けて、桃太郎の誕生地としている。
※柳田國男の「桃太郎の誕生」では、「昔、大和の国が洪水の時に、初瀬川が氾濫し、大きな甕が三輪大社の社殿の前に流れ着いた。中を見ると玉のような男の赤ちゃんがいた。この赤ちゃんが大きくなって、吉備津彦になったと記されている。
この説明板と孝霊天皇の黒田盧戸宮と記した石碑が、法楽寺というお寺にある。
法楽寺については、聖徳太子の創建と伝えられるが、中世戦火に遭い、現在は一堂を残すのみとなっている。
さて、目標の黒田大塚古墳であるが、法楽寺から東へ5分もかからないほどの所にある。もしかしたら、昔は、法楽寺の中にあったのかもしれないと思わせるほどの距離である。
少し古い民家が立ち並ぶ中に突然丸坊主の小さい丘が視界に入ってくる。シンゴジラの第1段階みたいな姿である。また、ナマズのようにも見える。
古墳自体は、6世紀の初頭に築造された古墳であり、二段築造、周濠を含めた全長は86mであり、墳丘の大きさは約70m、後円部径約40m、高さ約8m、前方部幅約45m、高さ約7mと考えられているが、後世にかなり墳丘等に改変が加えられており、前方部がかなり削られているため、写真のように頭でっかちのような形になっている。
前方部と後円部の接合部、くびれ部の所から階段があり、墳丘に登れるようになっている。
登ってみると、前方部の方がかなり後円部より低くなっているのがわかる。6世紀の初め頃だと前方部の方が同じくらいか高くなっているのがパターンのような気がするが、最前線の流行より少し遅れているのかもしれない。
反対側(南側)から取った写真。アスファルトの部分が周濠があったところである。もともとの墳丘があった場所には植栽がなされている。
内部構造は、調査がされていないので不明。横穴式石室があるのではないかとも言われている。将来の発掘調査に期待したいと思う。この日、雨模様だったので雨宿りをした東屋には、古墳の変遷を説明した図が掲示されている。
説明によると、古墳には、約8mの周濠があったが、8世紀奈良時代にはすでに埋め立てられている。その後鎌倉時代には、周濠部分に溝を掘り、さらに江戸時代になってその内側に、古墳の墳丘を削って、溝ができたらしい。こういう変遷図が掲示されているところって珍しいよね。
この黒田大塚古墳は、川西町、三宅町、田原本町にまたがる三宅古墳群の南限に築造されている。(ちなみに北限は島の山古墳)古墳群の中でも比較的新しい方だと思われる。あまり、中和と呼ばれる地域に足を踏み入れたことがなかったので、これから少しずついろいろなものを探索していきたいですね。
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