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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

楊貴妃

2007-09-29 06:50:24 | 読書日記
 楊貴妃 ~大唐帝国の栄華と暗転~
 村山 吉廣著 中公新書

 中国の三大悪女と言われた楊貴妃である。しかし他の2人(則天武后と西太后)ほどの強烈な個性もなく、何をやったという訳でもない。ただ皇帝に寵愛をうけ、そのことをきっかけに安史の乱が起こり、結局その乱を鎮めるために、縊死させられた生涯である。
 楊貴妃は、もともとは玄宗皇帝の息子の後宮に入ったのを見初められ、いったんは道教の女道士として入信した後に、玄宗の後宮に入っている。玄宗皇帝は、日本でもよく知られた皇帝で、遣唐使の物語などにもよく出てくる。(例えば井上靖の天平の甍など)「天の原~」で知られる阿倍仲麻呂もこの皇帝に仕えている。この皇帝の治世の前半は、開元の治と呼ばれ、唐帝国は世界帝国として最盛期にあった時代である。
 楊貴妃は、本名楊玉環。26歳で玄宗の後宮に入り、玄宗の寵愛を一身に集めた。一族は栄華を極め、3人の姉をはじめとし、一族の楊国忠は顕官を極めた。
 楊貴妃は果物のライチが好物でわざわざ楊貴妃のためだけに南国から取り寄せたと言う逸話が残っている。
 私のイメージの中では柳腰のすらっとした女性であったのだが、どうやら違うようでけっこうぽっちゃりとした女性だったようである。(美女の基準も時代によって違うようです。)
 しかし、楊貴妃に溺れた玄宗が政治を省みなくなり、楊貴妃の養子となった軍閥安禄山と楊国忠の政権争いから安史の乱が勃発することになり、玄宗は一時長安を脱することになるほどの内乱状態となり、最後は馬嵬というところで、宦官高力士に縊り殺されことになる。
 世に「傾城」という言葉が美女を指すというのは、楊貴妃の生涯が元になっているようである。国を傾けるほどの美女と言うことであろうか。
 しかし考えてみると楊貴妃自身多少の贅沢はあったとしても、特段めちゃくちゃをしたということもないんだよね。まあ一族は権力を握ってむちゃをしたということはあるけれど、玄宗と楊貴妃は2人でド派手であったとしても、仲むつましく生活していたんだろうし、むしろちゃんと政治をしなかった玄宗がいい年こいて何やってんねんという話だろうし、そんな皇帝の下で権力争いばかりしていた官僚が良くなかったと思うけど、そういった一切合財が楊貴妃の所為になってしまったというのは哀れな話ではある。
 そういえばこの本を読んでもやっぱりあんまり楊貴妃の人物像は見えてこない。意外と個性がないのである。案外自己主張の少ない、周りに流される人だったのかもしれない。
 
 最後にこの本を読んで知ったのだが、日本にも楊貴妃のお墓がある。山口県の油谷町の二尊院というお寺にあるそうである。(しらべたらこの由来を書いたHPも見つけた。)安史の乱の後、日本に流れ着き、その地で亡くなったそうである。その後夢の中で楊貴妃が日本葬られていることを知った玄宗が、阿弥陀と釈迦の2体の仏様を造らせたという伝承に基づいているそうです。
 また楊貴妃は熱田神宮の神様の化身であったと言う伝承もあるそうです。

 そういえば私も小学生の時、京都の泉涌寺というお寺で楊貴妃観音という仏像を見た記憶があります。その時は幼かったんで何のことかわからなかったんですがね。近いうち見てみたい気もしますね。

 有名な杜甫の詩である、「国破れて山河あり、城春にして草木深し・・・」はこの乱の後、様子を歌ったものである。 

 楊貴妃の伝説(油谷町観光情報)
http://www2.ocn.ne.jp/~yuya-sci/kankou/youkihi.html

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