寺町通を四条通から北へ歩いていくと、いろいろな商店が並んでいる中に、「誠心院」と書かれた表札のある小さなお寺の山門がある。
ここが、和泉式部の伝説で知られるお寺誠心院である。和泉式部と言えば、「あらざらむ此よの外の思出に今ひとたびのあふ事もがな」という百人一首に採録されている和歌で知られている。また、「十訓抄」などの説話集に収録されている、娘、小式部内侍との大江山の和歌のエピソードでも有名である。(古典の授業で習ったと思う。)
せっかくなので、もう少し人物について書いてみると、和泉式部は、平安時代の女性らしく、正確な生年、没年は伝わっていない。越前守、大江雅致の娘、和泉守橘道貞の妻となり、小式部内侍をもうけるも、別れて、冷泉天皇の皇子為尊親王、その弟敦道親王などと恋愛し、敦道親王の死後、中宮彰子に仕え、宮中に上がる。その後藤原保昌に嫁して、丹後へ下る。その後の消息は、不明。晩年は不遇であったと伝えられる。
そうした和泉式部の晩年の姿を伝えるのが、誠心院の和泉式部の説話である。
晩年、世の無常、来世に不安を感じた和泉式部は、女房達数人と姫路の書写山にいる性空上人に教えを請いたいと願い、書写山へ向かうことにしたが、性空上人は、和泉式部たちになかなか会おうとはしなかった。そこは、和歌で知られた和泉式部。いくつか和歌を歌い、上人の心を動かそうとする。
そして、和泉式部の詠んだ「くらきよりくらきみちにぞ入りぬべきはるかにてらせ山のはの月」という和歌に感じ入った性空上人に、和泉式部たちは対面することができたのである。
「女の身で西方浄土を遂げる道はないのか」と尋ねる和泉式部に対して、性空上人は、石清水八幡宮の阿弥陀如来に祈願するのが良いと教えをうけ、石清水八幡宮を参詣すると、八幡神が夢に現れ、今すぐ出家をすること、そして、京の誓願寺の阿弥陀仏にすがりなさいという言葉を伝えた。
そして、和泉式部は、誓願寺のそばに草庵をむずび、尼となって極楽往生を願い、往生を遂げたと伝わる。そして、和泉式部が建てた草庵が、誠心院となり、和泉式部が初代の住職と伝わっている。
この地で極楽往生を遂げたと伝えられる和泉式部のお墓と伝わる宝篋印塔が、本堂の裏手にある。門から見ると小さいお寺のように見えるが、意外と奥行きがあった。多くの石仏を従えるかのように、中央に和泉式部の墓がある。宝篋印塔には、正和二年と年号が刻まれているという。
また、本堂の前には、軒端の梅と和泉式部の歌碑がある。歌碑には、ほとんと消えかかって読み取れないが、「霞たつ 春きにけりと この花を 見るにぞ鳥の声も待たるる」と書かれているらしい。
和泉式部も、名は知られているが、紫式部同様に、というかこの時代の多くの女性が生年も没年も伝わっていない。何ともはかなき存在のように思える。たぶん、誓願寺にかかわる女性たち(誓願寺芸能ごとで知られたお寺である。)が、和泉式部の名をかりて、女性たちの心のよりどころとして語り伝えてきたのだろう。
誠心院に入る山門のところに、和泉式部の縁起を描いた絵が飾られていおり、また、本堂の斜め前には、和泉式部と小式部内侍の顔出し(?)もある。和泉式部、推しまくりであった。
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