京都の堀川北大路から南へ下っていくと、島津製作所の建物の間に、ひっそりと紫式部墓と書かれた石碑が置かれている。奥へ入っていく小さい道を入ると、すぐに行き止まりになり、左手に小野篁と紫式部墓とされる小さな土饅頭とのその上に小さな石塔が建っている。
小野篁と紫式部という取り合わせも不思議な感じである。小野篁は、9世紀の前半の人、紫式部は、10世紀後半から11世紀の初めにかけて実在していた人物である。生年も没年も全く重なり合うことはなく、共通点と言えば、どちらも百人一首に採録されるような当代一流の文人である。しかし、紫式部が、小野篁を意識して源氏物語を書いたという訳でもない。小野篁の少し生きた時代が重なる源融が、光源氏のモデルの一人と言われる程度である。
じゃあ、なぜ隣り合ってあるのかというと、次のような話がある。小野篁は、このブログでもいくつか紹介(千本ゑんま堂、六道山珍皇寺など)しているが、小野篁は、この世とあの世を行ったり来たりすることができる超能力を持っているとともに、あの世、冥府では、閻魔大王に使えてお仕事をしていると伝えられる人物である。そのため、小野篁は、閻魔さんとセットで祀られていることが多い。
紫式部は、源氏物語を書いて、人間の愛欲にまみれた姿を描いたために、地獄に落ちたという伝説が後世、まことしやかに伝えられている。そのため、地獄に落ちた紫式部を救い出してほしいという人々の願いが、紫式部の墓の横に小野篁の墓を作ったということなのであろう。
考えれば、人間の性、愛情、憎悪といった感情を冷徹に描き出そうとすれば、それはそれで修羅の世界に足を踏み入れたようなものかもしれない。
もともと、これらのお墓があった場所というのは、昔、雲林院というお寺があった場所だと考えられている。そして、この雲林院に、晩年の紫式部が生活していたと伝えられる。そのため、後世に、この辺りに紫式部が埋葬されているはずではないかということで紫式部と小野篁のお墓が伝承されるに至ったのではないだろうか。
ちなみにこの辺りは古来からの葬送の地であった蓮台野と呼ばれる場所の一角を占めている。また、紫式部の墓があるから、この辺り一帯を紫野という俗説がある。
とは言っても、実際のところ、これが本当に紫式部や小野篁の墓なのかどうかというのは、わからない。しかし、紫式部自身、どこで亡くなったのか、どこにお墓があるのかといったこと以上に、生年や没年、正式な名前すら伝わっていない。そうした中で、いろいろな詮索は必要のないことなんだろう。
むしろ、これらの二つの土饅頭が小野篁と紫式部のお墓であるとして、これまでまことしやかに、古くからの伝承として伝わってきたということを大切にしたい気がする。
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