京都の北野天満宮を東門から出て、上七軒を過ぎ、七本松通りを越えていくと、千本釈迦堂と大きく書かれた石碑が立っている。正式な名称は大報恩寺というのだが、これまで紹介した千本ゑんま堂や釘抜地蔵と同様に、千本釈迦堂という通称名の方が通りがいいようだ。昔、学生時代、この辺りに友人の下宿があり、足繁く通った、懐かしい道でもある。
千本釈迦堂の山門をくぐり、境内に入ると正面に見えるのが、国宝の本堂である。洛中にある建造物では最古のものと言われ、鎌倉時代の建築である。このお寺の創建が、鎌倉時代初期の承久年間に求法上人義空なる人物が創建したと伝えられるので、創建間がない時に建てられたものなのかもしれない。
本堂に本尊として釈迦如来坐像が祀られているため、千本釈迦堂という名称の由来となっている。
本堂は、正面5間、側面6間であり、建物の中は、内陣と外陣に分かれている。内陣に須弥壇が設けられ、釈迦如来像を納めた厨子が安置されている。
内陣の柱には、応仁の乱の時につけられた刀傷の痕と言われるものが残っている。よく考えれば応仁の乱を生き抜いた数少ない建物である。高名な中国史学者の内藤湖南も「京都の歴史は応仁の乱の後にしかない」みたいなこと言うてましたね。
本堂の中には、多くのおかめさんの人形が飾られている。それはなぜかというと、この千本釈迦堂は、おかめさんの伝説で知られているお寺なのである。
おかめさんというとふっくらとした女性のお面が有名で、どちらかというとユーモラスなイメージがあるが、ここ千本釈迦堂に伝わる伝説は、それとはまったく違ったものになっている。
おかめさんは、大工の棟梁の妻であった。夫は、腕の立つ大工であったらしく釈迦堂の建築を任されていたのだが、代わりのない柱の寸法を短く切ってしまった。めでたい建築物を造るための、高価な材木をだめにしてしまったのだから大変。夫は頭を抱えこんでしまった。そこでおかめさんが一計を案じた。短くなった材木をそのまま使用して、その上に斗組を用いればよいのではないかというアイデアを出したところ、それを用いて無事、堂宇は完成。丸く収まったかに見えたが、完成の後、おかめさんは、夫は妻の助けをかりて成功したということを知られてはならじと上棟式の後、自害してしまったというお話である。そしておかめさんを冥福を祈るため宝篋印塔、おかめ塚を作ったとする。
境内には、おかめ塚と呼ばれる宝篋印塔とおかめ像がある。
また、経王堂の前には、山名氏清と書かれた石碑が立っている。山名氏清は、明徳の乱を起こし、足利義満に討伐された人物である。その明徳の乱の死没者を供養するために北野に経王堂が建てられたのだが、のちに衰退し、千本釈迦堂で祀られることになった。この石碑もおそらくそこから移ってきたのであろう。
ちなみに千本通は、もともとは朱雀大路の延長の道であったがいつの頃からか、千本通と呼ばれるようになった。その由来とは、千本の卒塔婆が建てられていたという説、千本の桜があったという説、千本の松があったという説などがある。古代、中世の葬送の地である蓮台野につながる道である。あの世に通じる道であったのだろう。
その信仰は、今も生きているような気がするのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます