以前、「飛鳥の古墳 番外編 乾城古墳」の項で、与楽鑵子塚古墳について、いつの日か出会える時を楽しみにしておきましょうと書いたが、その機会が案外早く訪れた。たまたまお仕事で関係で休日お休みが取れた(振休ってやつです。)ので、飛鳥地方西方部から高取町にかけての古墳を訪れることにした。
斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)から、少し北へ上がったのち、県道を東に入る。途中、越智野、寺崎といった集落を通る。
越智野については、中世、この辺りを支配していた越智氏の館があったところだという。越智野、寺崎のあたりは、白壁の日本建築の民家が連なり、いかにも奈良の農村を感じさせる。残念ながらこの道路、工事関係の車両の交通量が多く、ぼやぼや歩いていたら事故に遭いそうである。惜しいなあ。この辺りは、歩道を設けるなど行政の気配りが欲しいところである。
さらに歩いていくと、左手に飛鳥病院が見える。正面に、乾城古墳の姿が見える。しばらく行くと、何と第一の目的地与楽鑵子塚古墳が肉眼で把握できた。心の中で、キターーー!と叫ぶ。
ずっとあえなかった恋人にでもあったような気持であった。
こっち側のルートであれば、見逃すことはなかったのにと思いながら、乾城古墳の前の案内板にしたがって、乾城古墳の左裾のルートを取った。
遠目でも、2段築造の円墳であることがわかるが、南側の墳丘がむき出しになっていて何とも痛ましい姿になっていた。
与楽鑵子塚古墳については、径24mの円墳であり、中には、片袖式の横穴式石室があるとのこと。そして、沼山古墳、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳と同様に天井が高くドーム状になっているらしい。被葬者については、これらの古墳と同様に渡来系の氏族である東漢氏ではないかと言われている。築造はおそらく6世紀後半であろう。これらの古墳の中でも、早い時期に造られているような気がする。残念ながら、これまでいくつかのHPで見られた石室は現在全く見ることはできない。(河上邦彦氏の「大和の終末期古墳」の中で、これらの古墳の編年が載せられている。この本によると、与楽鑵子塚古墳が一番古く、真弓鑵子塚古墳と沼山古墳がほぼ同時期、乾城古墳が一番最後になる。)
また、古墳の北側には、堀切が残っている。
土のう袋でふたをされており、よく見ると羨道の入り口の石であろうと思われるものが少し露出しているのみである。もう少し近づいて見ようと西側にある小さな階段を登ってみる。テラスみたいになっている。南側に回ってみると、さらに小さな階段がある。
墳丘の上に竹の子がにょきにょき伸びていて、明らかに墳丘を痛めているのがわかる。ここから墳丘の2段目に登って周りを巡ることができる。
目の前の景色もいいので、持ってきたおにぎりをパクついていると尾の長い見たこともない鳥が飛んでいる。雉かヤマドリか、そんな感じの鳥である。生まれて初めて野生の雉らしきものを見た。ちょっとした感動であった。
与楽鑵子塚古墳、真弓鑵子塚古墳、御所の方にも掖上鑵子塚古墳と鑵子という名称のつく古墳がいくつかある。鑵子ってなんだろうと調べてみると、「青銅・真鍮(しんちゅう)などで作った湯沸かし。」とある。なるほど、湯沸かし器と見ればそう見えないことはない。納得である。
与楽鑵子塚古墳、乾城古墳、これから訪れるつもりの寺崎白壁塚古墳の3つの古墳は、平成25年3月に国の史跡に指定されている。そういうことならもう少し大切にしてあげて欲しいなあ。発掘調査をした後、ほったらかしだもんなあ。このままだと古墳の破壊はどんどん進んでいくであろう。早く何とかしてほしいと思う。
ちなみに、このあたりは、与楽古墳群と言われ、100基ほどの古墳が密集している地域なのだが、あまりその他の古墳はわからない。この古墳に来る時に通った県道を作る際にいくつか古墳が出てきたようだが、すでに破壊されているみたいだ。そういう話を聞くと少し残念な気がする。残っている古墳も何とか保存をしてほしいと思う。古墳群については、全体で一つの文化財なのだから。
斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)から、少し北へ上がったのち、県道を東に入る。途中、越智野、寺崎といった集落を通る。
越智野については、中世、この辺りを支配していた越智氏の館があったところだという。越智野、寺崎のあたりは、白壁の日本建築の民家が連なり、いかにも奈良の農村を感じさせる。残念ながらこの道路、工事関係の車両の交通量が多く、ぼやぼや歩いていたら事故に遭いそうである。惜しいなあ。この辺りは、歩道を設けるなど行政の気配りが欲しいところである。
さらに歩いていくと、左手に飛鳥病院が見える。正面に、乾城古墳の姿が見える。しばらく行くと、何と第一の目的地与楽鑵子塚古墳が肉眼で把握できた。心の中で、キターーー!と叫ぶ。
ずっとあえなかった恋人にでもあったような気持であった。
こっち側のルートであれば、見逃すことはなかったのにと思いながら、乾城古墳の前の案内板にしたがって、乾城古墳の左裾のルートを取った。
遠目でも、2段築造の円墳であることがわかるが、南側の墳丘がむき出しになっていて何とも痛ましい姿になっていた。
与楽鑵子塚古墳については、径24mの円墳であり、中には、片袖式の横穴式石室があるとのこと。そして、沼山古墳、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳と同様に天井が高くドーム状になっているらしい。被葬者については、これらの古墳と同様に渡来系の氏族である東漢氏ではないかと言われている。築造はおそらく6世紀後半であろう。これらの古墳の中でも、早い時期に造られているような気がする。残念ながら、これまでいくつかのHPで見られた石室は現在全く見ることはできない。(河上邦彦氏の「大和の終末期古墳」の中で、これらの古墳の編年が載せられている。この本によると、与楽鑵子塚古墳が一番古く、真弓鑵子塚古墳と沼山古墳がほぼ同時期、乾城古墳が一番最後になる。)
また、古墳の北側には、堀切が残っている。
土のう袋でふたをされており、よく見ると羨道の入り口の石であろうと思われるものが少し露出しているのみである。もう少し近づいて見ようと西側にある小さな階段を登ってみる。テラスみたいになっている。南側に回ってみると、さらに小さな階段がある。
墳丘の上に竹の子がにょきにょき伸びていて、明らかに墳丘を痛めているのがわかる。ここから墳丘の2段目に登って周りを巡ることができる。
目の前の景色もいいので、持ってきたおにぎりをパクついていると尾の長い見たこともない鳥が飛んでいる。雉かヤマドリか、そんな感じの鳥である。生まれて初めて野生の雉らしきものを見た。ちょっとした感動であった。
与楽鑵子塚古墳、真弓鑵子塚古墳、御所の方にも掖上鑵子塚古墳と鑵子という名称のつく古墳がいくつかある。鑵子ってなんだろうと調べてみると、「青銅・真鍮(しんちゅう)などで作った湯沸かし。」とある。なるほど、湯沸かし器と見ればそう見えないことはない。納得である。
与楽鑵子塚古墳、乾城古墳、これから訪れるつもりの寺崎白壁塚古墳の3つの古墳は、平成25年3月に国の史跡に指定されている。そういうことならもう少し大切にしてあげて欲しいなあ。発掘調査をした後、ほったらかしだもんなあ。このままだと古墳の破壊はどんどん進んでいくであろう。早く何とかしてほしいと思う。
ちなみに、このあたりは、与楽古墳群と言われ、100基ほどの古墳が密集している地域なのだが、あまりその他の古墳はわからない。この古墳に来る時に通った県道を作る際にいくつか古墳が出てきたようだが、すでに破壊されているみたいだ。そういう話を聞くと少し残念な気がする。残っている古墳も何とか保存をしてほしいと思う。古墳群については、全体で一つの文化財なのだから。
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