紀路を辿って飛鳥に向かって歩いていく。田んぼの脇に常夜灯が建っている。
もう少し歩いていくと、高取中学校の裏ぐらいを歩いていくと、佐田の岡に出る。犬養孝氏の「万葉の旅 上」によると、この辺り全体が真弓の丘と呼ばれており、佐田の岡はその部分名であるという。佐田の岡を歩いていくと左手に、岡宮天皇真弓丘陵が見える。岡宮天皇というのは、天武天皇の皇子、草壁皇子のことで、奈良時代、淳仁天皇の時に、草壁皇子の嶋宮が飛鳥川の岡のほとりにあるのにちなんで追贈された名称である。淳仁天皇自身は、草壁皇子とは直接の血縁関係はないが、淳仁天皇に譲位をした孝謙天皇が草壁皇子のひ孫にあたることから、草壁皇子の系統を讃える意味で天皇号を送ったのかもしれない。
草壁皇子が、この真弓の岡、あるいは佐田の岡に埋葬されたことについては、万葉集の中に収録されている皇子の舎人達が、皇子が亡くなった時に読んだ歌に詠まれている。引用してみると、
「よそに見し 真弓の岡も 君ませば 常つ御門と 待宿(とのい)するかも」
「朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 止む時もなし」
いずれも、真弓の岡、佐田の岡が読み込まれている。
また、続日本紀には、称徳天皇の行幸の時の記事に中にも檀(まゆみ)に丘についての記述があることから、草壁皇子が紀路から見える真弓の岡あるいは佐田の岡にどこかに埋葬されているには確実だとは思われる。
【紀路から見た岡宮天皇陵】
この岡宮天皇陵としては、森谷王塚古墳と呼ばれる径15mほどの円墳が現在、宮内庁より治定されている。
拝所までは、少し登っていかなければならない。
石段を登っていって、拝所の前に出ると、地形の関係で正面から見ることはできない。
何とか頑張って、古墳の形態を見たいと思うのだが、鬱蒼とした木々に遮られ残念ながら、わからずじまいであった。
また、陵の横には、牛頭天王社が訪れる人もなくひっそりとたたずんでいる。
ちなみに、現在、本当の草壁皇子の陵は、もう少し北にある束明神古墳であると言われている。
この真弓が丘周辺には、終末期古墳と呼ばれる貴重な古墳がいくつかある。束明神古墳やマルコ山古墳、少し足を延ばすと牽牛子塚古墳などである。まだ、未調査、未発見の古墳もあるようだ。今後どんなものが出るのか楽しみな反面、明日香村のように観光地化してほしくないという気持ちもある。難しい。
【真弓の岡からマルコ山古墳を眺める】
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