京都の東山、円山公園から清水寺に抜ける高台寺道、今ではねねの道と言った方が通りがいいかもしれないが、おそらく今や京都の観光地で一番観光客が多い所かもしれないが、その道沿いに、月真院という小さなお寺が建っている。門前を通る多くの観光客は、特に気に留めることなく素通りしているのだが、ごくたまに、御陵衛士屯所址の石碑などを見て、足を止める人が居る程度である。
御陵衛士とは、慶応3年3月、新選組の参謀伊東甲子太郎が、近藤勇、土方歳三らと袂を分かち、新選組を脱退し、志を同じくした同志とともに孝明天皇の御陵を守るための組織という名目で結成したもので、同じ年の6月に、高台寺の塔頭である月真院に屯所を置いたことから、高台寺党とも呼ばれた。
この伊東甲子太郎と新選組との戦いをモチーフにしたのが、『新選組血風録』の「油小路の決闘」である。この短編は、伊東甲子太郎と常に行動を共にしていた篠原泰之進の視点で、高台寺党の結成から粛清までが描かれている。
当初、新選組を脱退し、御陵衛士として加盟したものは、15名と言われている。篠原泰之進や阿倍十郎、新選組の結党からの同志である藤堂平助などのほか、何故か斎藤一の名前もある。(近藤一派からの間者と言われている。)そして彼らが脱退後、御陵衛士として身を寄せたのが、ここ月真院というわけである。
この時、時代は討幕運動の最終段階にきている。少しいろいろな事件がありすぎて時系列がわからなくなっているので少し整理したい。
慶応3年3月 伊東甲子太郎らが新選組を離れ、高台寺党を結成する。
6月 高台寺党が月真院に屯所を構える。
新選組が幕府の直参となる。屯所が西本願寺から不動村に移転する。
9月 明治天皇が即位する。
10月 徳川幕府が朝廷に大政奉還をする。
11月 坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される。3日後、伊東甲子太郎が油小路で暗殺される。
慶応4年1月 鳥羽伏見の戦いが勃発する。
伊東甲子太郎は、近藤勇の妾宅から帰る途中に新選組に襲撃され、油小路の本光寺の門前にて暗殺される。享年34歳。明治維新まであと少しだった。
暗殺ののち、伊東甲子太郎の遺体は、御陵衛士をおびき寄せるために利用され、遺体を引き取りに来た御陵衛士たちと新選組で戦闘となり、藤堂平助など数名が亡くなっている。そして、生き延びた者たちは薩摩藩に囲われ、御陵衛士は解散となった。
伊東甲子太郎という人物を思うと、どうしても「策士策に溺れる」というイメージが付きまとう。残念だが。一方で近藤などは、伊東のような教養人に対してのコンプレックスがあったのだろうなあと思ってしまう。
ここから近くの霊山に維新功臣たちの墓がある。ひときわ大きい木戸孝允の墓を見ると、最後は生き残った者が一番偉いのだなあということを実感する。
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