一条天皇・三条天皇火葬塚から西南の方向、左大文字山のふもとにある住宅街の中に、三条天皇北山陵がある。
三条天皇については、平安時代の天皇で、ちょうど藤原道長が権勢を握っていた時である。一条天皇の後を34歳で即位するも、早くも6年後眼病を患い、40歳で後一条天皇に譲位した。三条天皇の退位により、それまで、冷泉天皇系と円融天皇系と両統迭立状態であった皇統は、円融天皇の系統に伝えられることになった。
ただ、三条天皇の系統も、娘禎子内親王が後朱雀天皇の皇后となり、その子、尊仁親王が後の後三条天皇となったことから、女系ではあるが三条天皇の系統も現在の天皇家に繋がることになる。
三条天皇は、譲位の翌年、1017(寛仁元)年に42歳で亡くなっている。
亡くなったのちは、船岡山の西石蔭で火葬され、北山の小寺中に埋葬されたと伝わる。
現在の陵墓は、永らく所在不明となっており、文久の修陵の際も場所が決まらなかったが、1889(明治22)年に、現在の場所に治定された。
眺めると、墓域の中に円丘の塚を見ることができるが、これが当時のものなのかどうかはわからない。経過を考えると、天皇陵の治定じたいかなり怪しい気がするのは確かである。
三条天皇陵から南へ下って行って、衣笠馬場町の交差点を西に入っていくと路地の奥に白河天皇の火葬塚がある。
白河天皇については、後三条天皇の第一皇子で、1072(延久4)年、後三条天皇の譲位を受けて即位、のち1086(応徳3)年に皇子、善仁親王(堀河天皇)に譲位し、院政を開始する。その後1129(大治4)年に死去するまで、堀河、鳥羽、崇徳の三代にわたり、治天の君として権勢をふるったとされる。
白河天皇は、亡くなったのち、衣笠山の東麓の御墓所で火葬され、鳥羽の成菩提院の三重塔の下に納められたと伝わる。
火葬塚自体は、方丘で周囲を濠が巡っており、いかにも火葬塚という感じであった。ただ、たぶん誰もここにそういうものがあるとは気にはしてないだろうなあと思う。歴史的なものがありすぎて、小さな火葬塚なんぞ気にはとめない、京都人あるあるではある。
白河天皇火葬塚からさらに南へ下っていくと、権太呂金閣寺店の真裏に後朱雀天皇火葬塚がある。ここにたどり着くには、小さな路地を入っていかないといけないのだが、標識等ないので見逃しやすい。ちなみに人一人やっと通れるぐらいである。
路地に入っていくと途中開けて、そこに後朱雀天皇の火葬塚がある。
後朱雀天皇は、三条天皇の後を受けて即位した後一条天皇の弟であり、天皇の後を受けて即位した。後朱雀天皇と三条天皇の皇女、禎子内親王との間に生まれたのが、藤原氏を外戚としない天皇、後三条天皇である。
火葬塚は、綺麗な円丘で、やはり周囲を濠が巡っている。ちなみに後ろの校舎は金閣小学校である。
訪れる人もなかなかいないであろう、ひっそりとした空間である。
後朱雀天皇は、1045(寛徳2)年、37歳で亡くなったあと、香隆寺の乾の原で火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に埋葬それたと伝えられる。龍安寺の裏山に後朱雀天皇円教寺陵として治定されている所がその後なのかどうかは定かではない。
ここまでくると、母校立命館大学はすぐそばである。何度かこの辺りも闊歩していたであろうが、全くこういうものがあったとは気づかなかったなあ。だいたい京都の有名寺院を行くようになったのは、4回生になってから、友人たちと京都に4年間もおって、何処も行ったこともないのは残念ということでいろいろなところに行くようになった。
それも懐かしい思い出ではある。
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