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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

新選組紀行②御香宮神社 ~『新選組血風録』より「四斤山砲」~

2022-07-03 23:17:45 | 文学をたどる

 司馬遼太郎の新選組を主題にした小説をよく読むと、必ずしも新選組を称賛しているわけではないことに気づく。彼らの田舎風なところを揶揄しているような内容のものも散見される。今回、取り上げてみる「四斤山砲」もその一つであろう。

 内容は、永倉新八の師匠筋にあたるものと名乗って、大林兵庫という人物が新選組の屯所を訪ねてきたところから、物語は始まる。永倉新八自身は記憶がないものの、そういうものかというわけで隊士として採用、永倉の縁者という事で砲術頭に抜擢される。大林は、我が物顔をするようになり、いい加減な知識を吹聴するようになり、近藤等幹部も悲しいかなそうした知識がからっきしないものだから、その話を信用してしまう。

 そうなると面白くないのは、元から新選組に居て砲術頭を務めていた阿倍十郎という隊士、彼は、大林の話が信用のおけないものであることを見抜いていた。結局、伊東甲子太郎とともに脱退してしまう。

 そののち鳥羽伏見の戦いが起こった時、阿倍は、薩摩軍に加わり砲術方として、四斤山砲を使い、活躍する。一方の大林は、まったく大砲を使うことがなく、阿倍の使う大砲の爆風を受け、重傷を負い、消息不明となる。

 長々と内容を書いたが、この鳥羽伏見の戦いの中心地となったのが、現在も伏見にある御香宮神社である。

 

 創建はいつなのかは不明だが、境内からいい香りのする水が湧き出て、その水を飲むと病気が治ることから清和天皇から「御香宮」という名称を賜ったとの伝承がある。事実、清和天皇の在位中の年号である貞観4年には社殿を修築したという記録も残っているらしい。

 豊臣秀吉の頃には伏見城の鬼門を守るという事で城内に移されたが、徳川家康により現在の場所に遷されたらしい。

 神社の立派な表門は、伏見城の大手門を写したものと伝えられ、国の重要文化財になっている。

 

 境内には、伏見城に石垣に使われた石材が無造作にゴロゴロと置かれていたりする。

 

 拝殿の傍に、鳥羽伏見の戦いの石碑が立っている。

 

 鳥羽伏見の戦いにおいては、薩摩軍を中心とした新政府軍は、御香宮神社の周辺に陣を構えていた。

 一方、幕府側は、伏見奉行所に陣を構えており、新選組も同じく伏見奉行所に陣取っている。

 

 現在、伏見奉行所があった場所には、市営桃陵団地が立っており、その団地の隅にひっそりと小さな石碑が立っているだけである。

 

 何となく寂しい感じがするが、敗けた側やからね。

 新政府軍と幕府軍は、この道を介して対峙していたことになる。

 

 鳥羽伏見の戦いの結果、新しい時代が訪れることになる。ちなみに阿倍十郎は、実在の人物で、明治40年まで生き、71歳で亡くなっている。

 のちに史談会などで新選組についても語っていたらしい。新選組の最強はだれかという問いに対しては、一に永倉、二に沖田、三に斎藤と語っていたそうである。


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