陽成天皇陵から少し西へ、岡崎通を斜めに上がると少し坂になっており、その左手に後一条天皇陵がある。全体的に周りよりは高い位置にあった。
ちなみに拝所に立てられてる制札を見ると、後一条天皇ともう一方、後一条天皇の第一皇女である章子内親王も同じ場所に埋葬されている。
後一条天皇については、大河ドラマ「光る君へ」で重要人物の一人である一条天皇と藤原道長の娘である藤原彰子との間の子である。
一条天皇と皇后藤原定子との間に生まれた敦康親王を差し置き、わずか3歳で皇太子となり、三条天皇の譲位をうけて9歳で即位している。在位中は特に目立った事績はないが、即位直後は、藤原道長が摂政となり、その後、道長の長男である藤原頼道が摂政、関白を務めており、摂関政治のピークの時期であったと考えられている。
よく知られた藤原道長の「此の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」と詠んだ歌は、道長の娘である威子を後一条天皇の皇后に立てることにより一家三后となったことを祝った席でのことである。
昔は、この歌は道長の権勢を誇った驕り高ぶった歌であると授業などで習ったが、最近はそうではないのではないかという説が出てきているようだ。
この歌を残した藤原実資の「小右記」では、この歌を詠んだ後、祝いの参加者で唱和したとだけしか記載されていないし、「御堂関白記」にはそもそもこの歌については何ら記載がない。「御堂関白記」にはこの一家三后のことを「生きてきた甲斐のある者であり、言語に尽くしがたい未曽有の事」と喜んでいることを考えると、単純にこれまでの半生を振り返り、頑張ったなあ俺みたいな感慨を詠んだ歌のような気がする。
ちなみに、この時皇后に立てられた藤原威子は天皇の9歳上にも関わらず、非常に仲が良かったと伝えられ、威子以外に入内するものはなかったそうだ。
そして、威子との間には、章子内親王と馨子内親王と皇女が二人出生している。章子内親王については、のち後冷泉天皇の中宮となっている。
後一条天皇は、1036年29歳で崩御し、神楽岡で荼毘にふされ、その火葬所の後に藤原彰子が菩提樹院を建立し、遺骨を納めたと言われる。
ちなみに章子内親王は、菩提樹院で80歳で亡くなっている。1105年というから摂関政治の時代は終わり、白河上皇による院政が始まっている時代である。武者の世が始まっている時代とも言える。
その関係で、ここに陵があるのであろう。しかし何故か妹の馨子内親王も同じく菩提樹院で亡くなっているのに何故か、ここが陵と指定されていない。不思議。
正面の右手に丸くなっている所が陵墓の形を示しているのだろう。実際に航空写真を見ると、陵墓内に二つの円い墳丘が見えるので、大きい方が後一条天皇で、小さい方が章子内親王のものなのだろうか?
墓域自体はかなり大きい。ただ、この御陵も、後一条天皇のものか定かではない。中世になり、菩提樹院が廃れ、所在がわからなくなっていたものを文久の修陵により、改修され、当初後一条天皇の火葬所とされていたのを明治時代になって、後一条天皇陵としたようだ。
この墳丘は、古墳時代の古墳ではないかという話もある。
実は、はるか古代の天皇陵と同様に平安時代の天皇陵についても定かでないものが多いのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます