休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

難波の古墳 御勝山古墳

2017-10-10 00:18:14 | 史跡を歩く
 生野区の勝山通り沿いに、南北に公園を縦断する地点がある。北側は、公園の大部分が丸い丘状にになっており、南側が平坦な公園になっている。これが御勝山古墳と呼ばれる古墳であり、勝山通りは前方部と後円部の間をきれいに横断している。

 北側の後円部にあたる部分は、御勝山公園と呼ばれ、古墳の後円部が保存されている。

 

 後円部は、大阪府の史跡に指定されており、墳丘の周りには柵がめぐらされており、墳丘上に登ることはできない。後円部の大きさは約53m、高さ約7mとされる。後円部の東西は直接見ることができるのだが、残念ながら北側の一部は住宅がそばまで接近していて見ることができなかった。古い写真を見ると、現在公園になっている部分に周濠らしきものが移っており、どうやら古墳全体に周濠がめぐっていたが、いつの間にか埋め立てられたようだ。

 

 公園の東側には、東屋が建っており、墳丘に石碑が建っているのが見える。

 

 昔、この場所に大阪農学校(今の大阪府立大学)があったことを示している。明治から大正にかけてこの場所にあり、大正14年に堺市へ移転したらしい。この地は交通の便がいいためか、いろいろな場所に活用されており、大坂夏の陣で徳川秀忠が陣を構えたことでも知られているが、南公園には、大阪気象台跡の碑も建っている。

 南北の公園をつなぐために、歩道橋は架かっており、歩道橋の上から古墳の観察ができる。

 

 歩道橋から観察すると、墳丘が段になっている気がする。

 

 古墳を分断している勝山通りの道路面もよく観察すると古墳のあたりだけ少し盛り上がっているようである。古墳の南側の勝山南公園には、削平された前方部の基底部が残っているらしく古墳の全体の大きさは復元できるようだ。それによると約120mの大きさになるらしい。なお、昭和49年に行われた発掘調査では、円筒埴輪や朝顔形埴輪が見つかっており、5世紀前半のものと考えられている。

 

 勝山南公園の北端には、折口信夫(釈迢空)の歌碑がひっそりとたてられている。


 

 歌碑には、「小橋過ぎ 鶴橋生野来る道は古道と思ふ 見覚えのなき」と刻まれている。折口信夫は、大阪は浪速区の生まれであり、天王寺中学に在籍していたころよくこの辺りをさんさくしていたらしい。私もいつかは折口信夫の本をと思っているのだが、「死者の書」以外なかなか手を出しあぐねている所ではある。

 

 歌碑の説明文が、思い入れたっぷりぶりがちょっとすごい気がする。

 

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