JR学研都市線東寝屋川駅を下車、ロータリーのある東出口ではなく、反対側に西出口から出て、少し北にいったのち、線路をまたいで歩いていくと途中、東高野街道「四ツ辻」道標とその説明板をもった鉢かつぎ姫の石像が立っている。
東高野街道は、いくつかある高野街道の中でも一番東山際に位置しており、京都の八幡から高野山へ至る道であるが、古代から続く街道であると考えられている。実際、古墳などを見に行くとよく近くを東高野街道を見つけることがあり、この街道を往還する人々にその古墳の威容を意識していたように感じられるところがある。そう考えると古代でもかなり古い時期まで遡れそうである。
また、東高野街道を歩いて打上の集落へ入ると、道沿いに弘法井戸と呼ばれる井戸とお大師さんの小さな石像が祠に祭られている。
この辺りには、他にも弘法井戸と呼ばれる井戸がいくつかあるようで、弘法への信仰が息づいていたところなんだろうか?ここにも鉢かつぎ姫が案内板を持って立っていた。そしてその鉢かつぎ姫の案内板に従って歩くと今回の目的地、石の宝殿古墳がある高良神社にたどり着くことができるはずなのだが、何とどこかで道を間違って、山の中に入ってしまい、交野市のニュータウンに出てしまった。しばらく、周りをうろうろとしてみたが、どうやらそれらしきものはなく、引き返して改めて探してみることにした。途中、福祉農園のようなところがあり、農園を挟んで反対側に社のようなものが見えたので、あれだということで、神社をめざして歩いたところ、案の定高良神社であった。しかしなかなか、受け入れてくれないなあ。(以前も迷った末、探索を断念した経過がある。)
高良神社についてみると、社殿に向かって右手に古墳の説明板があり、写真のように説明板の横を通って山道を登っていくことになる。
山道を登って数分で、石の宝殿古墳の大きな石室が姿を現す。古墳を見て、やっと会えたという感じ。
石の宝殿古墳は、完全に封土を失っており、横口式石槨とそれに続く羨道の側石がむき出しになっている。後ろから見ると、飛鳥にある亀石のようにも見える。懐中電灯とメジャーを片手に横口式石槨の中にも潜ってみる。狭いが何とか方向転換はできた。ちょっと無理な姿勢であったのか、わき腹に激痛を感じつつ、恒例、古墳の内部からの写真を撮る。
嬉々として、何十枚も写真を撮り、挙句はメジャーを持ち出して石槨の中を図ったりしている、この男、よその人が見たら確実にヤバい人に見えるやんなと思いつつもやめられないのだなあ。
ここで少し古墳のデータを記してみよう。石槨は、底石に、コの字型に掘られた上石がが覆いかぶさる形になっている。飛鳥にある鬼の俎・雪隠古墳が一つになるとこの形になるのだろう。石槨の奥行きは、約2.3m、幅約90cm、高さ約70cm、ただ入り口は、両袖を作り出しており、幅約50cmということで、体をかがめれば何とか入ることはできる。
石槨の中もドーム状になっており、きれいに加工されている。素晴らしい技術である。
石槨の左上のほうを見ると、石槨の扉石を取り付けていたのであろうほぞ穴を見ることができる。
凄すぎる、拍手喝采である。ワクワクと心は踊る古墳である。(今回のこの記事だけでもかなり舞い上がっているのがわかるなあ。)
古墳を内からも外からも眺めて堪能。古墳を眺めながら、途中コンビニで買ったおにぎりを食べる。古墳の全体を見ると大きな2つの石が連なって見える。
しかし、ここまで運んだ労力も大変なものがあったんだろうなあと遠い古代を思いやる。先の東高野街道を通って運ばれたのかもしれない。ちなみに古墳が築造されたのは、7世紀の後半と言われている。古墳の背後に、古墳の境界を示す列石がいくつか露出している。
近年の発掘調査で、西側に列石があるのが確認されており、この列石都の発掘された列石の角度を考えると8角形になると可能性があるのだという。そうなると被葬者もかなり身分の高い人が想定できそうである。ただ、北河内でこれほどの横口式石槨を持つ古墳は見つかっていない。高宮廃寺を建てた渡来系の豪族?ちょっと立派すぎるような・・・。
古墳の前には、下の写真のような石碑が建てられている。
「天岩戸大日如来」と刻まれており、元禄の年号が見られることから、江戸時代には天岩戸として信仰されていたのだろうか?天照大神=大日如来、神仏習合の跡が見られる。
古墳の観察を終えて、高良神社に戻ると、神社のちょうど前に役行者堂と書かれた祠がある。よく見ると、古墳の横穴式石室が再利用されたような感じである。
後ろにある塚も円墳のようである。
この辺りには打上神社古墳群というものがあったらしい。
また、駅の方に戻る途中に、明光寺というお寺があり、門前に雷神石と呼ばれる石が置かれている。残念ながらガラス越しにしか見ることができないのでうまく写真に写すことができなかった。
古墳の石棺を再利用しているようで、いろいろな文字が彫り込まれており、弘治3年の年号が刻まれているらしい。おそらくこの辺りの古墳から持ってきたのであろう。
この後は、寝屋川公園の中にある寝屋古墳をめざすこととしよう。
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