平成28年12月3日(土)
この日は、午後から長女が入っている大学の吹奏楽部の定期演奏会があり、今年で最後だからというわけで何とか都合をつけてと思っていたら、何と後期難波宮跡のすぐ西側国立大阪病院(今はそんな言い方しないんやった。)構内で後期難波宮で初めて官衙とみられる建物群が見つかったという報道を見つけ、あっりゃ~、重なったやんどうするとない頭を使って考えたところ、2時間ぐらいの時間の隙間ができた。ラッキーと自転車を飛ばして現地説明会にいってみることにした。
ちなみに難波宮には、前期難波宮と呼ばれるものと後期難波宮と呼ばれるものと2つ重なってあり、後期難波宮については、奈良時代、聖武天皇の頃に再建されたものになる。そして平城京の副都として、難波京として整備が開始され、一時期は難波京へ遷都もされたが、すぐに紫香楽宮へ遷都している。藤原広嗣の乱に端を発した聖武天皇の彷徨により、平城京、恭仁京、難波京、紫香楽宮、平城京と都が転々とした時代である。
そして、後期難波宮については、内裏、大極殿、朝堂院などの主要なものについては、これまでの発掘調査で明らかになっているが、それ以外の官衙については発見されてなかったらしく、今回が初めての官衙と思われる遺構が検出された。
調査地を一見して、穴ぼこだらけである。
この場所は、近代に旧陸軍の歩兵37連隊本部があった場所であり、近世には、大名屋敷や町屋などが建っていて、そのために穴だらけになったようである。しかし、よく見つけたものである。まあ、何かあるってわかってるからだろうけど。
今回の調査においては、後期難波宮の時代の塀が建てられたと思われる柱穴の列(塀2)が検出されており、その南側に建物跡が4棟見つかっている。そのうち建物1と2は、塀2と等距離に建てられており、同じ時期に建てられたと考えられている。
【塀2と建物1】
建物1については、東西2間、南北3間以上の建物である。南端については、調査面の外にあるので建物の正確な大きさは判明していない。
【建物2と建物3】
建物2については、南北2間、東西6間の建物であり、建物1と違って東西に長い建物となっている。建物1と建物2については、塀2の内側にコンパクトに配置されていることから、この建物の役割としては、曹司と呼ばれる実務的な役所ではなかったかと考えられている。
また、調査区内には、建物1と建物2のほかに建物3と建物4が検出されている。
【建物3】
【建物4】
建物3については、建物2と重なっており、建物2に先行する建物と考えられている。また、建物4とともに調査区域外へ続いており、建物自体の大きさについては不明である。
【宮内道路】
塀1と塀2の間には、幅約9mの宮内道路が走っており、朝堂院の西築地の中央まで通じていると推定され、そのことから、後期難波宮の朝堂院と同じ設計で建てられたと考えられている。
【塀1】
以前の調査でこの調査区の北側に、東側に五間門をもつ区画が見つかっており、今回の調査でその区画の南端に当たると考えられる塀の跡が検出されている(塀1)。塀1については、塀2よりも柱穴が大きく、太い柱を使っていると推定されており、また、5間門については、九電の重要な門に用いられているのが通常であることから、塀2の南側よりは重要な施設が建てられていたと考えられている。ただし、建物の遺構等は検出されていない。かなり後世の攪乱は受けてそうな感じである。
そのほか、目を見張るものとしては、初めにも書いたが、近代、日本陸軍の歩兵37連隊の本部があったことから、防空壕や石組み溝が見つかっている。
【石組み溝】
【防空壕】
石組み溝を見たときは、おお、凄いものが出たと思ったんですが、近代のものと分かって少しがっかり。防空壕も生まれて初めて実物を見た。こんなんで爆撃を防ごうなんて無茶だと思う。当時、あまりにも客観的な情報ってなかったんだろうなあ。
難波宮についても、まだまだ判っていないことは多い。これからの発掘調査の成果を期待したい。(ただ、藤原宮や平城宮ほど遺構が残っていないだろうけど。)
帰りは、上町台地の高低差を感じつつ、自転車を飛ばして帰路についた。
この日は、午後から長女が入っている大学の吹奏楽部の定期演奏会があり、今年で最後だからというわけで何とか都合をつけてと思っていたら、何と後期難波宮跡のすぐ西側国立大阪病院(今はそんな言い方しないんやった。)構内で後期難波宮で初めて官衙とみられる建物群が見つかったという報道を見つけ、あっりゃ~、重なったやんどうするとない頭を使って考えたところ、2時間ぐらいの時間の隙間ができた。ラッキーと自転車を飛ばして現地説明会にいってみることにした。
ちなみに難波宮には、前期難波宮と呼ばれるものと後期難波宮と呼ばれるものと2つ重なってあり、後期難波宮については、奈良時代、聖武天皇の頃に再建されたものになる。そして平城京の副都として、難波京として整備が開始され、一時期は難波京へ遷都もされたが、すぐに紫香楽宮へ遷都している。藤原広嗣の乱に端を発した聖武天皇の彷徨により、平城京、恭仁京、難波京、紫香楽宮、平城京と都が転々とした時代である。
そして、後期難波宮については、内裏、大極殿、朝堂院などの主要なものについては、これまでの発掘調査で明らかになっているが、それ以外の官衙については発見されてなかったらしく、今回が初めての官衙と思われる遺構が検出された。
調査地を一見して、穴ぼこだらけである。
この場所は、近代に旧陸軍の歩兵37連隊本部があった場所であり、近世には、大名屋敷や町屋などが建っていて、そのために穴だらけになったようである。しかし、よく見つけたものである。まあ、何かあるってわかってるからだろうけど。
今回の調査においては、後期難波宮の時代の塀が建てられたと思われる柱穴の列(塀2)が検出されており、その南側に建物跡が4棟見つかっている。そのうち建物1と2は、塀2と等距離に建てられており、同じ時期に建てられたと考えられている。
【塀2と建物1】
建物1については、東西2間、南北3間以上の建物である。南端については、調査面の外にあるので建物の正確な大きさは判明していない。
【建物2と建物3】
建物2については、南北2間、東西6間の建物であり、建物1と違って東西に長い建物となっている。建物1と建物2については、塀2の内側にコンパクトに配置されていることから、この建物の役割としては、曹司と呼ばれる実務的な役所ではなかったかと考えられている。
また、調査区内には、建物1と建物2のほかに建物3と建物4が検出されている。
【建物3】
【建物4】
建物3については、建物2と重なっており、建物2に先行する建物と考えられている。また、建物4とともに調査区域外へ続いており、建物自体の大きさについては不明である。
【宮内道路】
塀1と塀2の間には、幅約9mの宮内道路が走っており、朝堂院の西築地の中央まで通じていると推定され、そのことから、後期難波宮の朝堂院と同じ設計で建てられたと考えられている。
【塀1】
以前の調査でこの調査区の北側に、東側に五間門をもつ区画が見つかっており、今回の調査でその区画の南端に当たると考えられる塀の跡が検出されている(塀1)。塀1については、塀2よりも柱穴が大きく、太い柱を使っていると推定されており、また、5間門については、九電の重要な門に用いられているのが通常であることから、塀2の南側よりは重要な施設が建てられていたと考えられている。ただし、建物の遺構等は検出されていない。かなり後世の攪乱は受けてそうな感じである。
そのほか、目を見張るものとしては、初めにも書いたが、近代、日本陸軍の歩兵37連隊の本部があったことから、防空壕や石組み溝が見つかっている。
【石組み溝】
【防空壕】
石組み溝を見たときは、おお、凄いものが出たと思ったんですが、近代のものと分かって少しがっかり。防空壕も生まれて初めて実物を見た。こんなんで爆撃を防ごうなんて無茶だと思う。当時、あまりにも客観的な情報ってなかったんだろうなあ。
難波宮についても、まだまだ判っていないことは多い。これからの発掘調査の成果を期待したい。(ただ、藤原宮や平城宮ほど遺構が残っていないだろうけど。)
帰りは、上町台地の高低差を感じつつ、自転車を飛ばして帰路についた。
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