平成28年1月30日に実施された寝屋川市にある国史跡高宮廃寺の内容確認発掘調査現地説明会に行ってきた。高宮廃寺の発掘調査は、史跡の保存、活用のための計画を策定するために平成25年度から行われており、平成27年度で3年目となり、内容確認の発掘調査もこの年で一応終結ということになる。平成26年度の現地説明会もこのブログで取り上げており、(「高宮廃寺跡 現地説明会」参照)今回で2回目となる。
前回は、自転車に乗って1時間以上走り、現地までくるという暴挙に出たが、今回はJR学研都市線を使って、忍ケ丘駅から歩いていったが、第2京阪道路に差しかかった辺りから坂が急になり、ひいひい言いながら現地に到着した。現地に着いた時には今回も第1回目の説明は終了しており、2回目の説明まで少し時間があったので、配布資料を片手に調査区を見て回ることにした。
前回の調査では、高宮廃寺の回廊が、従来考えられていた回廊ではなく築地塀であったことが判明し、また、中門の位置が確定し、また基壇では版築が用いられていたことがわかった。
今回は、東塔、中門、史跡の西側部分の解明を目的に調査が実施された。
【東塔調査区】
東塔の基壇は、一辺約10mで、中門と同様に版築で築かれている。
この版築の周辺の穴は、近年の土取りで掘られた穴とのこと。このおかげで、基壇の版築を明瞭に確認できるのだから皮肉なものである。
なお、東塔の心礎や礎石は、創建当初の位置から動いていないことも判明したとのこと。
【中門調査区】
昨年の調査では、中門の基壇の高まりを検出したが、今年度の調査では、すでに後世のかく乱を受けており、基壇の東端を見つけることができず、基壇の規模の確定には至らなかった。ただ調査区の中から、掘立柱建物の柱穴が2つ見つかっている。
【回廊1調査区】
昨年度の調査で検出された東塀と南回廊の一部が見つかっている。これで高宮廃寺跡の南と東の端が確定されたことになる。南側は、柱穴が見つかっていることから、回廊であったようである。
【回廊2調査区】
昭和54年度の調査で西回廊と考えられていた場所を再調査したところ、回廊跡が検出されず、この場所に回廊がないことがわかった。
【史跡西2調査区】
従来、西側の回廊と考えられていた位置よりもさらに内側に入った場所で塀跡と考えられる遺構が検出されている。これまで高宮廃寺は、金堂を中心に西側に広い伽藍配置が想定されていたが、今回の西側の塀跡が見つかったことにより、東西対象の伽藍配置であったことになる。
【史跡西3調査区】
周辺の高宮遺跡から検出されている掘立柱建物と同じ方位の柱穴が4つ検出されている。高宮廃寺と併存して、高宮廃寺を建てた氏族が居住していたのかもしれない。
高宮廃寺跡から出土した複弁四葉蓮華軒丸瓦、奈良時代のものだそうだ。このほかにも白鳳時代から奈良時代にかけての瓦が出土している。高宮廃寺は、奈良時代末期か平安時代初頭で廃絶してしまったらしい。現在はその上に大杜御租神社が建っている。
神社の手水鉢の下には、高宮廃寺の礎石らしき石が再利用されている。
高宮廃寺の周辺は、宅地開発の波が襲ってきてはいるもののまだまだ田園風景が残っている。まさに鎮守の森といった森の中に高宮廃寺跡がある。
前回は、自転車に乗って1時間以上走り、現地までくるという暴挙に出たが、今回はJR学研都市線を使って、忍ケ丘駅から歩いていったが、第2京阪道路に差しかかった辺りから坂が急になり、ひいひい言いながら現地に到着した。現地に着いた時には今回も第1回目の説明は終了しており、2回目の説明まで少し時間があったので、配布資料を片手に調査区を見て回ることにした。
前回の調査では、高宮廃寺の回廊が、従来考えられていた回廊ではなく築地塀であったことが判明し、また、中門の位置が確定し、また基壇では版築が用いられていたことがわかった。
今回は、東塔、中門、史跡の西側部分の解明を目的に調査が実施された。
【東塔調査区】
東塔の基壇は、一辺約10mで、中門と同様に版築で築かれている。
この版築の周辺の穴は、近年の土取りで掘られた穴とのこと。このおかげで、基壇の版築を明瞭に確認できるのだから皮肉なものである。
なお、東塔の心礎や礎石は、創建当初の位置から動いていないことも判明したとのこと。
【中門調査区】
昨年の調査では、中門の基壇の高まりを検出したが、今年度の調査では、すでに後世のかく乱を受けており、基壇の東端を見つけることができず、基壇の規模の確定には至らなかった。ただ調査区の中から、掘立柱建物の柱穴が2つ見つかっている。
【回廊1調査区】
昨年度の調査で検出された東塀と南回廊の一部が見つかっている。これで高宮廃寺跡の南と東の端が確定されたことになる。南側は、柱穴が見つかっていることから、回廊であったようである。
【回廊2調査区】
昭和54年度の調査で西回廊と考えられていた場所を再調査したところ、回廊跡が検出されず、この場所に回廊がないことがわかった。
【史跡西2調査区】
従来、西側の回廊と考えられていた位置よりもさらに内側に入った場所で塀跡と考えられる遺構が検出されている。これまで高宮廃寺は、金堂を中心に西側に広い伽藍配置が想定されていたが、今回の西側の塀跡が見つかったことにより、東西対象の伽藍配置であったことになる。
【史跡西3調査区】
周辺の高宮遺跡から検出されている掘立柱建物と同じ方位の柱穴が4つ検出されている。高宮廃寺と併存して、高宮廃寺を建てた氏族が居住していたのかもしれない。
高宮廃寺跡から出土した複弁四葉蓮華軒丸瓦、奈良時代のものだそうだ。このほかにも白鳳時代から奈良時代にかけての瓦が出土している。高宮廃寺は、奈良時代末期か平安時代初頭で廃絶してしまったらしい。現在はその上に大杜御租神社が建っている。
神社の手水鉢の下には、高宮廃寺の礎石らしき石が再利用されている。
高宮廃寺の周辺は、宅地開発の波が襲ってきてはいるもののまだまだ田園風景が残っている。まさに鎮守の森といった森の中に高宮廃寺跡がある。
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