令和5年9月9日(土)
法隆寺の参道沿いにある法隆寺iセンターの駐車場にある舟塚古墳で発掘調査が行われ、9日(土)に現地説明会が行われるという情報が二日前ほどに入った。久しぶりの発掘調査の現地説明会という事で、楽しみにしていた。その間、テレビや新聞等でこの古墳のことが報道されており、「まさか古墳が?こんなとこに」みたいな取り上げられ方をしていたのが印象的であった。
そして、当日、いよいよ期待の舟塚古墳の発掘調査の現地説明会、前日からのマスコミ報道の影響か、大勢の人だかりができており、すでに石室の見学も始まっていた。急いで見学者の列に並ぶ。
そして、発掘を担当された奈良大学の豊島教授による説明が始まった時は、ラッキーなことに古墳のちょうど真ん前に来ていた。
舟塚古墳は、以前から法隆寺ⅰセンターの駐車場内に、小さく、丸く植え込みがある築山の様な状態で放置されていた。「古墳です、ごみを捨てないで」と書かれた看板が立てられることで古墳という事がそれとなく認知されていた。ただ、舟形の木棺のようなものが出たという言い伝えがあり、埋葬施設としては、木棺直葬ぐらいに考えられていた。
今回の発掘調査で、部分的に破壊されているが、立派な横穴式石室が見つかるとは、驚きではあった。
横穴式石室は、羨道はすでになく、玄室のみが、奥壁と側壁の下半分ぐらいが残っていた。玄室は長さ3.8m、幅1.6mの右片袖式で、奥壁と側壁の基底石に側壁の石よりもかなり小さい石を用いているところに特徴がある。
出土品から考えると、二つ木棺があったと想定され、同時期ではなく、少し時間がずれて埋葬が行われたと考えられている。ちなみに古墳が作られたのは、6世紀の後半とのこと。
なお、石室内からは、太刀や須恵器、馬具などが見つかっている。
石室内の床には、太刀が見つかった場所が、茶色い錆の色がついているのでここから見つかったということがわかる。
もう一つはここ。ちょっと床面がくぼんでいるようである。
玄室の入り口に袖石の一部が残っていた。
須恵器、坏。この須恵器が示す年代がそれぞれ違う事から、二回に渡って埋葬が行われたと近が得られている。
また、石室の石材を抜き取った際の埋土から、飛鳥時代の軒丸瓦が出土していることから、この時期に古墳が破壊されたようだ。出土した瓦を見ると、古代瓦でもかなり古い時期のもののようなので、たぶん若草伽藍を造営する時に、礎石などの石を取るために古墳の破壊をしたのだろう。そう考えると、この古墳の被葬者は、聖徳太子というか、その一族上宮王家とは何のゆかりもない、この地方の一豪族だったのだろう。
出土品では、須恵器や土師器などがあり、子持壺といった珍しいものあった。この子持壺はニュース等でもかなり取り上げられていたようで、出土品の中で一番人気だった。
なお、調査時に古墳の石室内に置かれていた側壁の石等は、石室から取り上げられ、隣接する空き地に置かれていた。
これらの石が、崩れたままになっていたので、須恵器等の副葬品がいくつか残ったのではという話である。
最後に、舟塚古墳のある斑鳩地方は、奈良県下では意外と古墳の少ない地域でもあり、この古墳が、6世紀後半の斑鳩地方を考える貴重なものになるのではという事だ。
それから、この古墳、この後は、この場所にホテルが建設される予定があり、そのホテルの中に取り込まれて保存されるらしい。どのような形で保存されるかは未定だそうだ。変な形で復元するのだけはやめてほしいなあ。
それから、ちょうどいいポジションを確保したことで、テレビや新聞に移りこむことになった。まれにこういうことがあるね。(笑)
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