孝徳天皇陵から国道166号線を横切り、さらに西へ丘陵を下って行くと、集落へ出る。集落の中を歩いていくと、偶然、写真のような石碑を左手に見つけた、駐車場があり、その奥に生垣に囲まれた古墳らしきものがあった。どうやら、お寺の中から古墳に近づけるようになっている。仏陀寺という小さな寺院に入って、東端にある古墳に近づいていく。入り口に、史跡仏陀寺古墳と石碑が建っており、奥には木製の説明板があった。
墳丘に大きな椿の木が植えられており、その根元に横口式石槨の天井の部分が露出している。石槨の長さ、2.19m、幅1.2mとされており、下部には石槨の扉石が埋まっているとのこと。また周辺からは石塼が出土したと伝えられている。なお、この古墳が築造されたのは、7世紀中ごろと考えられている。
この古墳については、乙巳の変で中大兄皇子や中臣鎌足と共謀し、蘇我入鹿の暗殺し、その後孝徳朝においては、右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂の墓として伝えられている。蘇我倉山田石川麻呂については、その後649年、蘇我日向の讒言により、奈良の山田寺で自害したと言われている。
僕が、この古墳の訪れた時は、椿の花が墳丘の上にたくさん落ち、花一面となっていた。まるで非業の死を遂げた蘇我倉山田石川麻呂の魂を弔うかのようだった。
この古墳と蘇我倉山田石川麻呂については、築造年代と死亡時期は重なっており、また、この辺りの作られている古墳と蘇我氏と関係の深い人物が葬られていると考えられており、あながち無関係というわけではないような気がする。なお、この近くには、松井塚古墳という古墳もあったが、今はない。(松井塚古墳出土の横口式石槨については、叡福寺の隣の広場に保存されている。)
蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられる古墳は、岐阜の方にもあるとのこと。
仏陀寺古墳から、改めて、山田高塚古墳(推古天皇陵)や二子塚古墳を通って、登っていくと、科長神社に出る。
その横の長い石段を上ったところに、小野妹子の墓と伝えられる円墳がある。
石段の登り口には、華道の池坊家により建立された石碑が建っている。小野妹子が華道の祖とされることから建立されたものであるという。
小野妹子については、遣隋使として隋に渡った、有名な「日出処の天子、云々」という国書を持参した時である。昔は、最初の遣隋使って教わったけど、現在は、小野妹子は隋に渡った607年の遣隋使の前に、隋側に遣隋使の記述があることから、最初とは教わらないみたい。
もともと、小野氏は、近江国が本貫だと言われている。何故、河内国の蘇我氏と言われの深いこの地の葬られた伝承が生まれたのでしょう。(ちなみに、小野小町も小野妹子の子孫だと言われている。)地元では「いもこさん」と言われ、桜の名所になっている。
この日も、桜の花見の準備のため、飾りつけ等をおこなっていた。残念ながら、全く咲いてなかった。
小野妹子墓は、かなり高い石段を登ったところにあり、登ったころには息が切れてた。
この円墳については、調査等全くされていないので、詳細は不明とのこと。地元の人等によって大事に守られているのであろう。大切なことだと思う。(小野妹子の墓であるという伝承は、滋賀県大津、小野妹子公園にある唐臼山古墳についてもある。)
墳丘に大きな椿の木が植えられており、その根元に横口式石槨の天井の部分が露出している。石槨の長さ、2.19m、幅1.2mとされており、下部には石槨の扉石が埋まっているとのこと。また周辺からは石塼が出土したと伝えられている。なお、この古墳が築造されたのは、7世紀中ごろと考えられている。
この古墳については、乙巳の変で中大兄皇子や中臣鎌足と共謀し、蘇我入鹿の暗殺し、その後孝徳朝においては、右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂の墓として伝えられている。蘇我倉山田石川麻呂については、その後649年、蘇我日向の讒言により、奈良の山田寺で自害したと言われている。
僕が、この古墳の訪れた時は、椿の花が墳丘の上にたくさん落ち、花一面となっていた。まるで非業の死を遂げた蘇我倉山田石川麻呂の魂を弔うかのようだった。
この古墳と蘇我倉山田石川麻呂については、築造年代と死亡時期は重なっており、また、この辺りの作られている古墳と蘇我氏と関係の深い人物が葬られていると考えられており、あながち無関係というわけではないような気がする。なお、この近くには、松井塚古墳という古墳もあったが、今はない。(松井塚古墳出土の横口式石槨については、叡福寺の隣の広場に保存されている。)
蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられる古墳は、岐阜の方にもあるとのこと。
仏陀寺古墳から、改めて、山田高塚古墳(推古天皇陵)や二子塚古墳を通って、登っていくと、科長神社に出る。
その横の長い石段を上ったところに、小野妹子の墓と伝えられる円墳がある。
石段の登り口には、華道の池坊家により建立された石碑が建っている。小野妹子が華道の祖とされることから建立されたものであるという。
小野妹子については、遣隋使として隋に渡った、有名な「日出処の天子、云々」という国書を持参した時である。昔は、最初の遣隋使って教わったけど、現在は、小野妹子は隋に渡った607年の遣隋使の前に、隋側に遣隋使の記述があることから、最初とは教わらないみたい。
もともと、小野氏は、近江国が本貫だと言われている。何故、河内国の蘇我氏と言われの深いこの地の葬られた伝承が生まれたのでしょう。(ちなみに、小野小町も小野妹子の子孫だと言われている。)地元では「いもこさん」と言われ、桜の名所になっている。
この日も、桜の花見の準備のため、飾りつけ等をおこなっていた。残念ながら、全く咲いてなかった。
小野妹子墓は、かなり高い石段を登ったところにあり、登ったころには息が切れてた。
この円墳については、調査等全くされていないので、詳細は不明とのこと。地元の人等によって大事に守られているのであろう。大切なことだと思う。(小野妹子の墓であるという伝承は、滋賀県大津、小野妹子公園にある唐臼山古墳についてもある。)
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