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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

鶯の陵 ~山田上ノ山古墳(孝徳天皇陵)~

2014-03-26 00:12:44 | 史跡を歩く
 清少納言が書き残した枕草子に「陵は、うぐいすのみささぎ、かしわぎのみささぎ・・・。」と言う一段があり、その鶯の陵が、この山田上ノ山古墳だと言われている。ただ、枕草子にはどこの場所とも触れられていないので、奈良の若草山にある鶯塚古墳がこれだという考え方もあるようだ。この古墳を僕が訪れた時は、まだ春になろうかというところだったので、上手に鳴けない鶯の声が聞こえたような気がした。

 古墳は、竹内街道沿いの二上山への登山口にあたるような場所にある。近くには、道の駅や竹内街道資料館などがある。
 
 

 古墳へは、急な斜面を登っていくことになり、遥拝所に近づくころには結構、息が上がっていたりする。

 

 丘陵の斜面を利用して作られているという地形の関係で、写真のように正面から、望むことができない。上ノ山古墳については、直径約32mの円墳とのことであり、横穴式石室を備えているらしい。なお、墳形については、もしかすると八角形ではないかとも言われている。孝徳天皇の真陵であれば、当時の天皇陵から類推すると八角形というのも、ありえそうである。
 この古墳自体は、孝徳天皇の時期に出された大化の薄葬令に規定される陵墓の規模に合致していると言われており、大化の薄葬令適用第一号古墳という言われ方もしていたりする。ただし、考古学的には決め手に欠けるようである。比較で考えると、孝徳天皇の2代前の舒明天皇陵といわれる段ノ塚古墳や孝徳天皇の前後に在位した斉明天皇(皇極天皇)の陵ではないかと言われる牽牛子塚古墳については、八角墳として築造されている。舒明天皇からは、蘇我氏とは、血縁関係のない天皇が続いており、孝徳天皇も同様である。そして、舒明天皇から、新しい古墳の形が導入されたと考えると、孝徳天皇の八角形である可能性が高いと思われる。但し、この辺りに、それらしい古墳がないのも事実ではあるのだけども。
 この古墳の周辺からは、海獣葡萄鏡が出土したと伝えられている。海獣葡萄鏡が7から8世紀に唐で流行したことを考えると、被葬者は孝徳天皇と考える蓋然性はあるようだ。

 

 ※ 何とか古墳の墳形とかわからないかなと頑張って写してはみたんですが・・・。

 孝徳天皇は、乙巳の変(大化の改新)によって、皇極天皇の譲位を受けて即位し、難波長柄豊碕宮にて政を行ったとされる。昔は、乙巳の変である蘇我入鹿の暗殺等の中心は、中大兄皇子や中臣鎌足が中心で、孝徳天皇はたなぼた式に皇位を手に入れたというイメージを持っていたのだが、最近では、遠山美都男氏のように、むしろ主導的に動いたのは、孝徳天皇の方という学説を唱えられるようにもなっている。山背大兄王殺害にも一役買っているようだし、一筋縄ではいかない人物のような気がする。本来、姉の皇極天皇が、舒明天皇の大后にならなかったら、天皇の位につくことはなかったとおもわれる血筋(敏達天皇の曾孫にあたるはず。)であることを考えると、それなりに積極的にやらないと皇位を手に入れることはできなかったろうな。

 晩年は、中大兄皇子や姉である皇極天皇らと対立し、一人寂しく難波長柄豊崎宮で生涯を閉じる。そのためか、一人大阪の地に葬られている。

 

 ひっそり街道沿いに作られた古墳が、孝徳天皇の生涯を表しているようで少し物悲しい。

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