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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

天皇と天下人

2009-09-21 07:14:20 | 読書日記
 天皇と天下人
 今谷 明著 新人物往来社

 今谷明氏の一連の王権研究についての啓蒙的な文章を集めたもの。特に戦国時代についての記述を中心として収録している。
 今谷氏の戦国時代の天皇論の特徴は、従来の学説では、戦国期の天皇というのは、財政的にも没落していて、衰亡していたおり、滅亡寸前であったが、信長等によりその権威が見出され武家の力で復興し、現代につながったとされるが、むしろ戦国期に天皇家は王権としての役割を強化し、現代の象徴天皇制の萌芽を見出すことができるというところにあるのだと思う。
 足利義満による皇位簒奪計画を未然に防いだ天皇家は、足利義教が足利持氏を討伐(いわゆる永享の乱)をする際、治罰の綸旨を後花園天皇に求めている以降、天皇家は、調停者としての役割を得ることとなり、また足利将軍家の権威の低下とともに天皇家の権威は上昇することになるとしている。
 考えると、将軍を任命すること自体天皇が存在しなければならず、武家は、征夷大将軍、関白として天下人になろうとすれば、必然的に天皇を頭にいだくしかないということになる。
 逆に北条氏が、天皇に対して上皇の配流や天皇の廃立を行なえたのは、自らの権威の源が、天皇によるものではないことと関係があるのではないだろうか。

 本書の中で興味を引いたのは、一休禅師が天皇に何故なれなかったのかという一文。今谷氏は、積極的に皇胤であることを支持しており、その根拠として酬恩庵に現存している後花園天皇が一休に当てた女房奉書をあげている。しかしながら酬恩庵のHPをみると同じ文書が違う読み方をなされており、一休を皇胤とする根拠とはしていないようだ。
 一休が、皇位に昇れなかったのは、足利義満による皇位簒奪計画の一環として南朝、北朝にかかわらず皇位に近い皇子に対して出家政策を執っておりその一環として一休自体も出家させられたため、本来称光天皇亡き後本来皇位に一番近い存在でありながら、皇位に登ることができなかったのだとしている。
 
 また織田信長に言及し、織田信長自身は、天皇の皇位を自分の傘下に収めようとしたが果たすことが出来ず、また自分の神格化を図ろうとしたがそれも果たせなかったとしている。「神になれなかった織田信長」この当時はやった歴史認識であったと思う。今谷氏は否定しているが、信長の天皇家に対する行為や自身の神格化を諮ったことが本能寺の遠因になったという学説もあるようだ。

 久しぶりに中世史の本ををがさごそがさごそと本棚から引っ張り出して読んでいる。今のところ今谷明氏の著作を中心というわけで、このシルバーウィークはまとまって本を読める機会として、私としては非常に有意義に感じております。
 しかし今谷氏も、いつの間にか国際日本文化センターを定年退職をされるお年となられてました。歳月は人を待たず、あっという間に時は流れていくのでありますなあ。

ちなみに酬恩庵「一休寺」HP
http://www.ikkyuji.org/


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