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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

プールサイド小景・静物

2016-10-01 16:07:26 | 読書日記
 「プールサイド小景・静物」
 庄野潤三著 新潮文庫

 少し古い小説である。たまたま娘が通っていた学校と関係のある人で、そういった関係でちょっと興味があったので読んでみた。本書には、「舞踏」「プールサイド小景」「相客」「五人の男」「イタリア風」「蟹」「静物」の7編が収録されている。このうち、「プールサイド小景」で第32回芥川賞を受賞、「静物」で新潮社文学賞を受賞している。
 作者については、安岡章太郎や遠藤周作らとともに第三の新人と呼ばれるグループの一人として記憶している。第三の新人というのは、第一次・第二次戦後はと呼ばれた作家たちが、戦争体験に根差した本格ヨーロッパ風の長編小説を志向したのに対し、戦前の日本において主流であった短編小説、私小説への回帰を図った安岡章太郎や遠藤周作などの作家たちを総称していったものである。第三の新人と呼ばれる多くの作家が昭和30年前後に芥川賞などを受賞している。
 本書に描かれている〝風景"もどこにでもあるような家庭の日常をテーマにしている。「舞踏」の時点では、まだ作者は、登場人物の内面を描こうとしていたが、「プールサイド小景」になると日常風景の描写が淡々とつづられるようになる。一つの風景画のような感じである。
 作者の主題は、「プールサイド小景」に典型的に表れていてサラリーマンの平凡な日常が実はどれほどもろいものなのかということが淡々とさしたる出来事もなく描かれている。(そういえばサラリーマンって言い方最近、あまり聞かないなあ。平成は、ビジネスマンになっているのかな。)出だし、「プールでは、気合のかかった最後のダッシュが行われていた。」という学校の水泳部の部活の風景から始まる。その部活の片隅で父親が子どもたちを遊ばせている。そしてその妻が「大きな毛のふさふさ垂れた、白い犬を連れて」現れる。この風景をみて、水泳部のコーチはこれが人間らしい生活だと思い見送っている。
 誰もがうらやむような日常が、ある日、会社のお金を使いこむことによって、会社を解雇され、そのことによって、平和な幸せな日常が崩れていく。給与生活者にとって、いつもあるはずの給与収入が突然なくなってしまう。大変なことではあるのだけども、案外、そういったことを考えていないところがある。かくいう私も、今、突然仕事がなくなったとしたら、それはどうしていいのかわからないし、これと言って特技があるわけでもない。今の生活水準をキープすることはできないだろうなと思う。そう考えると恐怖でもある。
 本小説は、こういったことを淡々と、特に誰の心情にくみすることなく描写している。そういった淡々とした雰囲気が一層、日常生活の不安定さを浮きだたせているような気がする。小説の最後は、夫が子供を迎えに行っている間に、妻が料理をつくりながら、無事に夫が帰ってきてくれればと思っている。そして「勤めの帰りの乗客たちの眼にはひっそりとしたプールが映る。いつもの女子選手がいなくて、男の頭が水面に一つ出ている。」という一文で終わっている。もしかしてという不安がよぎる。それまでの妻の不安とともに小説は終わってしまう。これを余韻と言っていいのかどうか・・・。
 日常を淡々と水墨画のように描写する傾向は、「静物」でピークを迎える。小説は、18の章に別れているが、どれもこれといったストーリーがない。日常生活の断片のような話がそれぞれ独立してあるような繋がっているような感じである。夫と妻、それと2人の子ども達の日常が巨視的な視点であったり、微視的な視点であったり、また時制も現在や過去を行きつ戻りつしているようにも感じるながら描かれている。緊迫する部分もあるけど親子の濃密な触れ合いが書きこまれている。
 我々の生活というのは結構しっかりしているようでもろく崩れやすい。何となくわかっていながら目を背けている部分でもあろう。ただ、風俗的に見ると、昭和30年ごろのサラリーマンの生活水準はもしかしたら我々よりも高いような気がする。自分の生活の実感からして、間違いはなさそうである。
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