ヒカラビ一家の花日記

山の上に住む花農家から 魚沼発のあれこれを

スキー教室

2009年02月18日 | 発信

またもや、この齢になっての初体験。
学校のスキー授業のボランティアスタッフ (インストラクターってほどではない)。
子供たちを技量と自己申告によって9つのクラスに分けて、父の担当するのは男子4人、女子3人のEクラス。
ボーゲンしかできない子をなんとかシュテムターンが出来るところまでとの課題なのだが、ご覧のとおりの猛吹雪。
しかも朝の圧雪の後に新雪が20センチほど積もった状態。
新雪と言っても2月の魚沼の新雪だ。

こうなるともう、怪我をさせないこと、スキーを嫌いにさせないことが課題になる。

転んだり、新雪にはまったり、スキーが脱げたりと悪戦苦闘だが、筋の良い子はすぐにすいすい滑れるようになる。
女子も「新雪おもしろーい」と言う子と「あたしだめー」って子が出てくる。

昼休を境に、一人が上のクラスに行き。一人が上のクラスから降りてきた。
一番くじけていた子の判断を担任の先生に任せたが、先生は下のクラスにおろさなかった。

午後になってゲレンデの状態も良くなったし、子供たちのくせも判ってきたので、一人づつ横を滑りながら教えた。
全員がシュテムターンとまではいかないが、ボーゲンではそこそこきれいになったのではないかと思う。

この条件で楽しめたかどうかは判らないが、女子の一人が 「迂回コースはつまらない」 と言ってくれたのでこちらの目的は達したかなぁーと。

それにしても、久しぶりのボーゲンで、モモとシッペタ(尻)の筋肉がヒクヒクしている。

父の子供の頃は、冬だけの雪中(節中?)分校があって、晴れるとスキー授業(遊び)だった。
スキーは長靴を紐で固定する「スイレン」と呼ばれる金具(方法)で、かかとが自由だったので走り回るのがスキーだった。
高学年になる頃から重たい靴をバネで固定する金具になって、転んで骨折する仲間もいた。
板も「ヒッコリーの単板」とか「俺のは合板だ」などという時代だった。
それから2.3年の間にグラスファイバーの時代が来て、カザマ、ひろさわ、オガサカなど国内スキーメーカーの黄金時代がやってくる。


さて、
むかーし昔のフォトじゃった。

毎年、春先にはスキー大会がわが村であった。
下の村の本校から児童全員が弁当とスキーをかついで登ってくる。
村の衆は朝から全員でコースをカンジキで踏んで準備をしてくれた。

そのときの一枚。

ヒカラビの父は、まだねんねこに包まって母親の背中で頭だけ写っている。
前列には「じゃりんこチエ」や「ちびまる子ちゃん」や「マルコメ君」が写っている。
我々分校の子はスキー大会では花形だった(毎日やってるから)。

この写真は大きくプリントして村の集会所に掛けた。
そのときは写真のネタで朝まで飲んだものだった。
右端のスキーを履いた若い父親は、70を過ぎた今でもバリバリ現役花農家だ。
コメント (6)
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