WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

グレープフルーツムーン

2015年01月17日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 407●

酒井俊

あいあむゆう (I Am You)

 7時過ぎにおきた妻が、早起きして黙とうしなかったことを悔いていた。妻のそういう誠実なところが好きだ。阪神淡路大震災から20年目だ。地震はわずか15秒程度であったという。たった15秒程度の地震が神戸をあのような惨状にしたのだ。戦場だと思った。テレビの映像で見た時、戦争が起きたようだと思った。けれども落ち着いて考えれば、やはり戦争などではないのだ。震災はそのあとに被災者を救出しようとすることができる。途方に暮れ、悲しむことができる。戦争は引き続きやってくる爆撃におびえ、逃げ惑うしかないのだ。あるいはこうもいえる。地震は不可抗力だ。避けることはできない。防災の努力によって被害を最小限にとどめることができるのみだ。しかし戦争は、人間の想いと、知恵と、勇気によってくい止めることができる。その可能性があるのだ。だからこそ・・・、戦争を決して許してはならない。辛酸をなめるのはいつも民衆だ。

 震災の日の夜は満月だったという。酒井俊には震災を歌った「満月の夕べ」という名曲・名唱もあるが(→「四丁目の犬」、→「満月の夕べ」)、今日は違う作品を取り上げたい。2001年作品の『あいあむゆう(I Am You)』である。録音は1999年と2000年のようだ。冒頭とラストに配された2つの「グレープフルーツムーン」をしみじみと聴きたい。トム・ウェイツの名曲を、日本人が日本人のために歌った好演だ。酒井俊の歌う横文字の歌はちょっと演歌チックだ。それを日本的な貧困だと片づけてしまう評価もあるだろう。けれども、それはよりリアルな表現を求めた結果なのだと思う。おそらく、酒井俊はそのこと自覚している。演歌やジャズや洋楽や邦楽といったカテゴリーはどうでもいいのだ。日本人の歌手としての自身が、日本人の聴衆にむけてどのように表現するか、それが酒井俊のテーマだ。彼女のライブを聴きにいくと、そのことが本当によくわかる。「表現」のために、グローバリズムを潔く断念しているのだ。ジャズを歌ってジャズっぽくない、洋楽を歌って洋楽っぽくない。そのような批判を酒井俊は甘んじて受けるだろう。「表現」ということに対する矜持が、酒井俊には確かにある。その意味で、グローバリズムを断念した場所から、酒井俊の言葉は発せられている。グローバリズムを断念したところから、酒井俊の歌唱は生まれるのだ。

 


ペトルチアーニの清々しい響き

2015年01月17日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 406●

Michel Petrucciani

MICHEL PETRUCCIANI

坂本光司『日本で一番大切にしたい会社』という本の中で、従業員の約七割を知的障がい者が占める日本理化学工業という会社が紹介されています。その中に、幸福とは①人に愛されること、②人に褒められること、③人の役に立つこと、④人に必要とされることであり、このうちの②③④は施設では得られず、働くことによって実現できる幸せなのだ、というこの会社の社長さんの話が紹介されています。障がい者の就労や社会参加を考える上でまことに示唆に富んだ言葉ではないでしょうか。ダストレスチョークの三割のシェアを誇るこの会社は、このような考え方で、もう50年以上も障がい者の雇用を続けているのだそうです。

 ちょっと恥ずかしいが、数年前に地域の障害者支援団体の広報誌に寄稿した私の文章の一部である。私と同じ1962年の生まれで、1999年に亡くなったフランスのピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニの人生は、その意味では幸福だったというべきなのだろう。もちろん、骨形成不全症という重い障害をもち、わずか36歳の若さで逝ってしまった彼自身にしてみれば、もっと自由に、そしてもっと長い時間生きたかったに違いない。やりたかったことももっともっとたくさんあっただろう。ただ、人に愛され、人に褒められ、人の役に立ち、人から必要とされるという観点においては、ペトルチアーニの生涯は完全にその要件を満たしていると思うのだ。

 ペトルチアーニの1981年録音盤の『ミシェル・ペトルチアーニ』である。年の同じ私が大学に入学した年の作品だ。まだ自分自身が何ものかも知れず、蹉跌の日々を送っていたその頃の私を顧みれば、まったく恥ずかしい限りである。18歳の若者の清新な気風に満ちた、素晴らしいアルバムだ。ピアノの音が鮮明である。響きが素晴らしい。録音がいいのだろうか。ペトルチアーニのタッチの技術が素晴らしいのだろうか。いずれにしても、硬質で芯のある、曖昧さのない音だ。論理の国フランスらしい、明晰な音の響きというべきだろうか。アルバム全体にわたって、清々しさ、爽やかさが充溢している。いい作品だ。

 40代の、あるいは50代のペトルチアーニを聴いてみたかったと痛切に思う。彼自身も悔しかったに違いない。けれど、彼の生きた証は、こうやって私たちに感動を与え、何かを伝え続ける。これからも、ずっとずっとそうだ。