来年の春まで今の仕事を続けようと思っているが
来年まで持つだろうか
委員の任期や介護施設の顧問契約が来年春まで残っている
かれこれ30数年この業界に身を置いているが
僕自身はこの期間はflukeだったと思っている
昔々、大阪で暮らしていた10代最後の頃
将来への夢とか目標を何も持っていなかったし
その頃の自分が何をしなければならないのか考えた事も無かった
そんな時に同い年の真面目な青年、タケイシ君に出会った
彼は行岡の夜間の放射線科の学生だった
昼間は病院で助手
その病院が彼の衣食住、学費に到るまで負担してくれていた
タケイシ君に行岡のパンフレットを見せて貰った
初めて知った職業が三つ
臨床検査とPTに柔○
病院で三食、食べさせて貰って学費も出して貰えるんだったら自分も医療系の専門学校に行こうと考えた
その為には受験しなくては行けなかった
選んだのはPTか柔○
タケイシ君に「柔○ってどやろ?開業も出来るらしいし」と聞いた
「難しいらしいで、全国に10校程しか学校が無いらしいからな」
(そう言えば、高校の同級生のNが受けて落ちた、Nは理数系のトップクラスだった、その頃僕はこんな資格がある事自体知らなかったが)
PTもその程度の数の学校しか無かったし、まだ一般人の認知度は低かった
その時代、柔○もPTも毎年資格所得者数は全国で1000人程だった
柔○を受けた同級生のNは大阪のそれも昼間部を受験したらしい
考えて見たら資格さへ取れば夜間だろうが昼間だろうが同じだ
たぶん昼間は現役受験組が集中しているはずだ
その頃はいかんせん柔○やPTの養成校が少ない
看護や放射線科、臨床検査と言った学科の他、PT,柔○の学科を有する医療系の総合校は大阪の行岡ぐらいだった
まさしくタケイシ君の学校が行岡で無かったら自分自身、今頃この仕事をしていなかった
Nが失敗した大阪はあきらめて東京を受けようと考えた
東京で他の学科も含めて受けまくった
そうしたら本命だけが受かった
こうして将来住むハズが無いだろうと思っていた東京暮らしが決まった
東京でタケイシ君と同じ様に昼間病院で働いて夜、学校に通った
夜間の医療系の学生が大勢働いていて人並みの青春が遅れて訪れた
卒業後は別の新設病院に就職、衣食住、車の免許まで取らせて頂いた
昭和の終わりから平成へとPTも開業柔○もバブルの風が吹いた
僕も風に乗った一人だ
今年、柔○の国家試験受験者数7000人程
PTに至っては12000人
ちょうど僕が国家試験を受けた頃の10倍だ
養成校も10倍以上に増えた
学校は誰でも入りやすくなり社会的地位と給料は下がった
現在、柔○のパッシングが続いている
この業界がいつまで続くか分からないが
僕はもうすぐthe end
数年前、母校が大学を作り看護学部が併設され
タケイシ君との出会いは娘達の進路をも左右した
タケイシ君今頃どこでどうしているだろう
その後、彼が技師になる事は無かった