皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

最終講座はグループ研究発表

2019-03-04 22:05:35 | 生涯学習

 遡りますが先月2月21日行田市民大学9期生2学年の最終講座としてグループ研究発表が行われました。会場は慣れ親しんだものつくり大学の大教室です。行田市だけではなく多くの市町村または埼玉県においてもこうした市民大学と銘打った公開講座が盛んで、生涯学習として講座が開かれているようですが、一般の大学に倣ってゼミ形式でのグループ研究をまとめ、各班ごとに成果を発表し年度ごとに資料として残してくれます。こうしたことに負担を感じる方もいらっしゃるようですが、学んだことを地域に生かすという理念の元、各グループごとに資料としてまとめ上げてきました。

 

今年度のグループは4班あり、各グループの発表時間は質疑応答含め25分です。パワーポイント等を使いスライド方式で説明していきます。但し制限時間になると鐘が鳴らされてしまいますので、ある程度事前準備が大切です。

①産業経済グループは『日本遺産探訪』です。

一昨年日本遺産認定を受け、足袋蔵等の指定遺産が整備されたところを再度巡る中で、十分に活用できていない場所を指摘するなど市民の立場からの提言をされていました。

②行田市を調べる グループは 「行田ふるさと検定」について

行田ふるさと検定は市民大学2期生が平成23年に提言して実現しています。昨年度第7回を迎え、行田市の歴史文化継承に寄与しようと内容の修正、加筆をしていました。忍城、成田氏、足袋蔵といったものだけではなく、初午のスミツカレ、スターダストレビューなど郷土文化の今昔を問わず、検定問題が加えられています。

③歴史文化A班は「北武蔵歴史探訪」郷土に伝わる逸話・伝承研究

発表は私が担当しました。

活動範囲を行田市から羽生、加須、大利根といった利根川流域まで広げた経緯を説明し、各所に残る逸話や伝承が伝えようとした意味を自分たちなりにまとめてみました。

行田市には弘化三年伝兵衛長屋火事と呼ばれる大火があり、その年の干支が丙午。火事の当日旧暦の初午であったことから、近年まで(現在でも)初午には風呂を焚かない風習が残っています。こうしたことを知っているか会場の方に聞いてみたところ、3割ほどの方しか手が上がりませんでした。

④歴史文化B班は河原氏に付いての研究です。

武蔵七党に数えられる武士団の私市党である河原氏の歴史を、吾妻鏡に見られる生田の杜の合戦の様子を中心に、郷土の英雄としての河原兄弟の足跡を解説しました。

まとめ上げられた資料は製本化され、図書館にも寄贈されます。また行田市民大学HPにも公開される予定です。

3月7日にはものつくり大学にて卒業式を迎えます。

大学の関係者はもとより共に学んだ皆さんと、仕事や子供の行事などことあるごとに協力してくれた家族に感謝しています。

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五徳の冠者と平家物語

2019-03-04 20:35:06 | いろはにほへと

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。

おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。

猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

インドの祇園精舎という寺の無常堂の鐘の音は「世の中のすべとのものは、生まれては滅び流れては去っていき、とどまることはない」と説いている。お釈迦様が亡くなった時、白い色に変わったという沙羅双樹の花の色は、いま勢いの盛んなものも、いつしか必ず衰える時がくるという道理を示している。おごりたかぶる人もその暮らしがいつまでも続くことはなく、ちょうど春の夜に見る夢の様に儚いものである。そして荒々しい強い者でも最後には滅びゆく。それはまるでたあいもなく吹き飛ばされてしまう風の前の塵に等しい。

 あまりにも有名なこの平家物語の節は今でも小学校高学年で暗唱するほど読み込まれている。

 では作者は誰なのか。諸説ある中で『徒然草』の伝える信濃前司藤原行長が書き、生仏という琵琶法師に語らせたという説が信頼できるという。そして藤原行長の生涯と『平家物語』を書きあげた経緯がまた興味深い。

 

 

後鳥羽上皇の院の御所で開かれた御論議で「七徳の舞」について講義した藤原行長。「一には暴を禁じ、二に兵を治め、三に大を保ち、四に功を定め、五に民を安んじ…」ところがこの後が思い出せなかったという。(六に衆を和し、七に財を豊かにする)

 他の公卿からは「お忘れになられたのか」と問いただされ、上皇に低頭する行長に対し、後鳥羽院はこう諭したという。「七徳の二つを忘れた行長にいい名前を授けよう。今日からそなたを『五徳の冠者』呼ぶがよい」

 あまりの落胆から行長は官職を捨て都の外の草庵にひこもり、今の自分と同じように栄華を極めながら滅んでいった平家一門の物語を書き始めたという。但し源氏や武士にの合戦について造詣はなく、思案していたところ天台座主慈円が物語を読み、源平合戦のことをよく知る琵琶法師生仏を紹介したという。

 こうして『平家物語』が藤原行長によってまとめ上げられたのは建長二年(1250)。無念の思いを抱えながら書きあげた軍記物語は、その後多くの人々の加筆を受けながら今日まで読み伝えられている。

 8百年の後、自分の残した物語が多くの人々から読み知られることを五徳冠者と蔑まれた行長は思いもよらなかったに違いない。

 

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