皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

弘法大師と我空薬師(がっからやくし)

2019-03-11 22:25:49 | 郷土散策

行田市長野林地区に建つ薬師堂。縁起によればその昔弘法大師がこの地で加持祈祷をし、木を植え薬師如来を祀るよう人々に人々に諭したという。大師は「信仰の篤い人々が頼めば、必ずご利益を与えてくださる」といってこの地を去ったという。

 いつのころからか、植えられた木は光り輝くようになり、夜道でも薬師堂にたどり着くことができるようになったという。

その後、木の根元から泉がわき、その湯に浸かると万病に効いたとされる。「薬師の井」として評判が立ちそのころから夜になるとどこからともなく森の中から「ガッカラ、ガッカラ、、、」と唐臼を引く音が聞こえるようになった。その音が薬師様から聞こえるということで、「ガッカラ薬師」と名がついたという。

評判となった「薬師の井」は近隣からも水を受けに来る人々が絶えなかったが、いつしか心無い者が目を付け、勝手に浴場を開いて大繁盛となり「霊泉の町」となった。いつしか湯屋は歓楽街となり湯場のの権利で争いが絶えなくなると、享保期に忍城主阿部豊後守正喬は一帯の浴場を禁じてしまったという。しかし「薬水」の効き目は衰えず各地から水を受けに来る人は絶えることがなかった。

正徳六年(1716)この地の住職がなくなると、我空の森に葬られ、死体を埋めた人々は高熱にうなされたという。薬師様を穢した罰が下ったと口々にいうもので、亡骸を別の場所へ移すと、熱はたちどころに引き、皆正気を取り戻したことから、ガッカラ薬師の霊験あらたかと益々信仰を集めていったという。

弘法大師にまつわる伝承は若小玉地区にも残っており、全国でも五千以上あるとされている。特に大師がついた杖から泉が湧くという話は多く、その水は弘法水、御加持水と呼ばれ、大師が発見した温泉は近辺では群馬川場温泉や伊豆の修善寺温泉などがある。

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酒巻 八幡神社

2019-03-11 13:51:22 | 神社と歴史 忍領行田

 利根川と福川の合流点に位置する酒巻は、その昔河岸があり、江戸時代から明治初頭にかけて江戸との生活物資の水運によって栄えたという。地名の由来は「水逆まく故、逆巻が酒巻に転じた」という。

 逆巻の地は関東造盆地運動による地盤沈下が激しく利根川氾濫による堆積作用と重なって、水田下に20基にも及ぶ古墳が確認され、酒巻古墳群と称される。多くの埴輪が出土し、特に14号墳より出土した旗を立てた馬の埴輪は国の指定重要文化財となっている。

また忍城の譜代侍酒巻長安の地として知られ、酒巻家は成田親泰の代から成田家に仕えた。「のぼうの城」では甲斐姫に心を寄せる若侍酒巻靱負が登場し映画では成宮寛貴が演じていた。

明細帳によれば神社の勧請は古く天喜五年(1057)伊予の守源頼義によるものとされる。源頼義、八幡太郎義家親子は前九年の役のにおいて奥州討伐に赴く際、行田の地を訪れ戦勝祈願していることが、行田総鎮守八幡神社に伝わっており、平安期より前には村として開けていたことが分かる。時代は下って慶長十三年(1609)中村左近によって社殿が再建されている。中村左近は当地の名主中村家の祖先で平家の末裔と伝えられる。八幡様は武神として信仰され、戦時中には多くの八幡詣でがなされた。

利根川に隣接しかつては水害も多く堤防拡張工事により氏子が強制移住させられることも多かったという。現在でも境内地脇の堀を渡るとすぐに堤が築かれており、堤防からは坂東太郎の水の流れと共に、遠くには山々の景色に富士の姿を目にすることもできる。

神社の先には地蔵尊があり、八月には地蔵祭りがあるという。子育ての神として子供が生まれると、お地蔵さまに赤い着物を着せている。

今日でも赤い羽織を纏ったお地蔵さまが建っており、信仰の継続が見て取れる。武神と子育ての信仰が村社として守られているようだ。

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