行田市長野林地区に建つ薬師堂。縁起によればその昔弘法大師がこの地で加持祈祷をし、木を植え薬師如来を祀るよう人々に人々に諭したという。大師は「信仰の篤い人々が頼めば、必ずご利益を与えてくださる」といってこの地を去ったという。
いつのころからか、植えられた木は光り輝くようになり、夜道でも薬師堂にたどり着くことができるようになったという。
その後、木の根元から泉がわき、その湯に浸かると万病に効いたとされる。「薬師の井」として評判が立ちそのころから夜になるとどこからともなく森の中から「ガッカラ、ガッカラ、、、」と唐臼を引く音が聞こえるようになった。その音が薬師様から聞こえるということで、「ガッカラ薬師」と名がついたという。
評判となった「薬師の井」は近隣からも水を受けに来る人々が絶えなかったが、いつしか心無い者が目を付け、勝手に浴場を開いて大繁盛となり「霊泉の町」となった。いつしか湯屋は歓楽街となり湯場のの権利で争いが絶えなくなると、享保期に忍城主阿部豊後守正喬は一帯の浴場を禁じてしまったという。しかし「薬水」の効き目は衰えず各地から水を受けに来る人は絶えることがなかった。
正徳六年(1716)この地の住職がなくなると、我空の森に葬られ、死体を埋めた人々は高熱にうなされたという。薬師様を穢した罰が下ったと口々にいうもので、亡骸を別の場所へ移すと、熱はたちどころに引き、皆正気を取り戻したことから、ガッカラ薬師の霊験あらたかと益々信仰を集めていったという。
弘法大師にまつわる伝承は若小玉地区にも残っており、全国でも五千以上あるとされている。特に大師がついた杖から泉が湧くという話は多く、その水は弘法水、御加持水と呼ばれ、大師が発見した温泉は近辺では群馬川場温泉や伊豆の修善寺温泉などがある。