「春が来る来る初午祭、幼馴染の掛け行灯(あんどん)」行田音頭の一節にも唄われる行田の初午祭。立春を過ぎて最初の午の日を初午と呼び、その起源は山城伏見稲荷の御例祭が和同四年二月九日であったことに由来する。但し旧暦にあたり、今年に限れば三月十日になる。
稲荷社は全国数多く、江戸期においては「伊勢屋稲荷に犬の糞」といふほど武家屋敷から市場に至るまでそこかしこに稲荷の社があったとされる。行田町は江戸期において数多くの火災にみまわれ、屋敷はもとより古くからの神社仏閣も焼かれてしまった記録が残っている。
弘化三年(1846)二月の大火は午後五時蓮華寺町御家中鵜野伝兵衛屋敷から出火し、折からの強風で近世行田町最大の火事と伝わる。伝兵衛長屋火事と呼ばれ「武江年表」にも記載が残る。出火の原因は炊事中出火の半鐘がなったので表へ出たところその勝手の障子が風ではずれ、竈の上に倒れて、一度にどっと火が上がったという。強烈な西風にあおられ、北谷、御堀端、新町を焼き飛び火は埼玉村まで至って材木を焼いたという。
弘化三年は丙午の年で、火事にあった二月二日が初午の日であったことから行田町では初午に各家々で屋敷稲荷を祀ることが盛んになったという。丙午の年には火事が多いとか、月初めに初午が当たり、二の午、三の午とあると火が出やすいといった言い習わしがあり、初午の晩には風呂を焚かないといった風習が広まったとされる。昭和期まではこうした風習がかなり残り、市内の銭湯や当時は珍しかったサウナ店も、初午には店を休んでいた。昔気質の父はこうした風習に厳しく、幼い頃まだ寒さ厳しい初午の日に風呂に入れないと、子供心に悲しい思いをした記憶が残っている。