市役所前通りを北に進み国道125号線を越え地獄橋跡(先述)を西に入ると矢場地区となる。戦場が地名となった場所の先に帯曲輪跡がある。忍城北方の要の地であり、城中侵入の守りとして徳川家康賞賛の曲輪であったと伝わる。
江戸時代に書かれた「甲子夜話」の文中に「この城の堀は特に多く、登城するのに多くが堀を船で行く」と記されている。今では映画の影響で「忍の浮き城」とよばれるようになったが、昭和の頃までは「水城」と呼ばれることの方が多かった。(コミュニティーセンターみずしろなどと名もついた)
谷郷の春日神社西の大樋から沼の水を引き入れ、佐間の天神様の堰で水を止めその水量を調節していたのが忍の水城の秘密であったが、この帯曲輪で堰を守ったとされている。
阿部家以忍城整備の際、帯曲輪の地は堅固に造られ、北側を高い土手に白壁の堀をめぐらし、そのころは曲輪に人家がないほど狭い道であったが松平候の頃から宅地造成がなされ南側に江戸屋敷の米蔵を移築したという。両側に家が並んでいたが北側は高い土手であったことから、櫛型の狭く長い曲輪であったことから「帯曲輪」と名がついたという。
現在曲輪の先に堀の跡が水路となっていて、空いた土地には春の菜の花が咲き乱れている。