千方神社の名称はその御祭神である修理太夫千方に由来する。藤原秀郷の六男で鎮守府将軍。社伝によればこの地方で仁政を行った功績を称え祀られたという。藤原秀郷は平貞盛と共に平将門の乱を鎮圧したことで知られている。
日本史の教科書においても律令国家の変質として承平・天慶の乱は大きく取り上げられ、特に関東において新皇と称し国府に反乱した平将門は、当時の社会を大きく変えようとした人物でその将門を討った平貞盛と藤原秀郷は武家の棟梁として力を持つようになった。
江戸期の御伽草子「俵藤太物語」では饗宴の席で将門が袴に飯をこぼし無造作に払いのける軽率さを見て秀郷は将門討伐を決意したと伝えられる。同じく『俵藤太絵巻』では将門の首を運ぶ秀郷の隊列も描かれている。貴族政治から武家社会の幕を開ける時期の人物像だ。
広い境内の一角に「石敢當」と刻まれた石碑が建つ。中国由良の習俗で道の突き当りや辻に魔除けとして建てられたもので、文化十四年に青縞の取引市の守護神として建てられたものだという。元々加須本通りの北側に祀られていたものを昭和二十九年に神社に移している。九州、沖縄には多いがここ関東においては非常に珍しく、市の文化財となっている。道祖神としての意味合いが見られ、神社の御祭神にも興玉命(猿田彦)が祀られている。
加須市といえば鯉のぼりの産地で有名だ。
江戸期中山道と日光街道を結ぶ脇街道の宿場町として栄えた。文化文政期において五十市が立ち青縞を中心とした染物、木綿織物の集散地として発達した。その後大正期に鯉のぼりと剣道具の生産地として有名となり、毎年五月には100mを超えるジャンボ鯉のぼりが大空を舞っている。