古利根川である中川は加須方面から鷲宮にかけてその流れを蛇行させ栗橋との境を成している。栗橋町島川は中川左岸の自然堤防沿いに沿って東西に細長く形成され、近くには中川を横切るように宇都宮線が走っている。八幡神社は集落の西端にあり氏子区域を見守るように東を向いて鎮座している。
送電線の高い鉄塔に囲まれ独特の景観を成しているが明細帳によれば歴史は古く、元禄十五年(1697)の検地以前より除税地となるとあり、村社として祀られていたことが分かる。村社としての信仰は「八幡様は願えばいろいろなことをかなえてくれると」言われ、願いが叶うと紅白の布や額を収めたという。
地区の南側を流れる中川は通称島川といい、昔はもっと川幅も広かったという。川の中には大きな島があり、島には家が四、五軒あったが河川改修の際島が削り取られることになって、島の住人は土手の傍らに移る条件として、島川という地名をつけ、川の中に島があったことを代官に約束させたという。また島から移った人たちが開いた裏組という地では住人十一軒で稲荷神社を祀っていたことから、村の鎮守の八幡様に末社として合祀している。
また戦前まではお日待ちにササラを奉納していたという。昔大水の際に獅子頭が村に流れ着いた逸話が残り、若い衆が鷲宮神社から習って始めたとされる。大水に悩んだことから境内には弁天様も祀られていて、安政六年(1860)の年号が見える。
平成になって以来過疎化の進行と人口減少のあおりで多くの市町村が合併し、地名も無くなったところも多い。明治期における神仏分離と神社の合祀政策に対し、自分の村の神社がなくなってしまうことに反対し、村を守ろうとしたところもおおい。地名についてもおらが村の名を残そうと必死に働きかけたことがうかがえる。地名は村の歴史を表すもので、特に水運や交通にについて後世に伝える意義は大きかった。
行政の合理化も大切であるが、歴史を伝える貴重な宝として各地の地名が残ることは大事なことだろう。