皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

栗橋総鎮守 八坂神社

2018-05-25 22:26:41 | 神社と歴史

忍領近辺から利根川を渡る橋は、太田方面から刀水橋、利根大堰、昭和橋、埼玉大橋、と続く。古河市内から日光街道国道4号を久喜方面に行くと渡るのが利根川橋だ。橋を渡るとすぐに鎮守の杜が見えてくる。栗橋総鎮守とされる八坂神社だ。利根川右岸の栗橋に入ってすぐに鎮座しているが、江戸初期には栗橋南東の権現堂川左岸の元栗橋にあったという。(茨城県猿島郡五霞村)口碑によれば慶長年間(1596-1615)、元栗橋が洪水に見舞われ、関東郡代伊奈忠次に従うものらによって開墾され、移住したと思われている。
 
寛永年間(16524-44)には伊奈忠治による利根川流路の改修が失敗し、元栗橋の地は洪水に襲われ荒廃し、日光街道の付け替えが行われ、宿場がこの地に移転した。これ以降日光街道栗橋宿総鎮守として崇敬されるようになったという。長い長い水との闘いの歴史があったのだろう。

御祭神は素戔嗚尊。天王様と呼ばれる夏祭りに、招福除災の祭りとして大変な賑わいを見せるという。元栗橋は中世から武州と奥州を結ぶ交通の要所であったことから、行き来する人々と共に疫病を追いやるために盛大な夏祭りを始めたと考えられている。
 其の起源が『風土記稿』に読み取れる。利根川大洪水の際、当所の村人たちが総出で堤防の補強をしていたところ。川の波間に神輿が流れてきたという。またその神輿はたくさんの鯉と泥亀に囲まれていたといい、これを引き上げると元栗橋に祀られていた八坂神社の神輿であったという。村人はこの激しい流れに神輿が横転することなく流れ着いたことは神徳によるものと信じ、以来子の神輿を大切に祀ったという。この伝説は既に神輿渡御を伴う夏祭りが行われていたことを示すものだと考えられている。現在社殿の前には神使として鯉の象が御眷属として一対奉納されている。
こうした川からご神体などが流れてくる逸話はほかにも見られるようで、隣の加須市総願寺などにも見られ、不動様が羽生に流れ着いたと伝わっている。
また神輿は昭和45年の解体修理において、『天王宮神輿文久三亥十月』(1863)の棟札が発見され市指定文化財になっている。
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オリジナルパンケーキ

2018-05-24 21:35:09 | 食べることは生きること

新宿からの帰りに立ち寄ったのはルミネ7Fにあるオリジナルパンケーキ。不慣れな街を半日歩いただけで疲労困憊。甘いものが食べたくなった。アメリカでは140店を展開するチェーン店で日本ではここ新宿が4号店(全7店)
本格パンケーキということで注文して焼きあがるまで20分以上かかる。時間を気にしつつ待ったかいがあり、とてもおいしかった!スーパーで売っている冷凍のパンケーキとは訳が違った。(当然)
 パンケーキの味もさることながら、隣の席の大学生のカップルの楽しそうな会話が気になって仕方がない。授業のこと、留学のことなど、とても楽しそうに話している。自分にもそんなときがあった(はず)。
食べることは生きること。話すことは生きること。若いって素晴らしい。歳を重ねることもまた素晴らしい。
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人間は考える葦である

2018-05-24 20:42:13 | 心は言葉に包まれて

 木管楽器の口をつける部分(吹き込む部分)をリードと言って語源は葦(reed)からきているとのこと。材料として葦を使い金属やプラスティックから作られているものと区別があるらしい。同じ楽器を用いてもリードによって音が変わり奏者の好みが表れるという。ファゴット、オーボエといった管楽器は2枚の薄片を重ねるダブルリードを使い独特の音を奏ででいる。

一方、神社祭祀に用いる釜注連(かまじめ)や晦日払いと呼ばれる幣束や祓いには葦を使っている。三十年以上前では神社脇に鬱蒼と茂っていた葦も環境整備のもと焼かれては舗装され、近辺ではほとんど見ることができなくなった。(当社においては当時の葦をいまだ保管して頒布している)
古事記に於いても「豊葦原瑞穂国」という表現があるように古くから人々の生活の中に葦は溶け込んできた。
 
葦とはイネ科の多年草で主に水辺に背の高い姿で集まり茂るとされている。平安時代までは更科日記等に「アシ」と記されていたようだ。やがて8世紀が過ぎるころ律令制により人名や地名に縁起の良い漢字を当てる「好字」というのが流行し、「アシ」についても「悪し」にを連想させ縁起が悪く、反対の意味の「良し」に変え「ヨシ」と呼ぶようになったという。高校の古典の授業で形容の良い順に「良し⇒よろし⇒悪し⇒あし」で教わった記憶がある。
 フランスの哲学者パスカルは「宇宙の無限と永遠に対し、自己の弱小と絶対の孤独に驚き、大自然と比べると人間は一茎の葦のようなもので、最も弱い存在である。しかし人間は単なる葦ではなく『考える葦である』」という名言を残している。
 音楽も、水辺の葦も、そして神道もすべてが奥深く感じるのは自身がかよわく儚い一人の人間だからと感じずにはいられない。
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北川辺伊賀袋 浅間神社

2018-05-23 20:52:32 | 神社と歴史

社伝によれば、建久四年(1194)征夷大将軍源頼朝が富士の裾野で狩りをした際、臣下となった古河下河辺の荘司、下河辺行平が初代古河城主となった時に駿河の国一宮富士浅間大神分霊を勧請したといわれている。遡ること平安末期、新皇と称して立ち上がった平将門を討った藤原秀郷の一族が関東各地に勢力を伸ばし、下野南部にいた小山氏は有力な一族で、下河辺氏はその一門にあたる。また下河辺行平は頼朝臣下の御家人としてその地位を確立し、二代将軍源頼家の弓の師であったという。

神社は村の自然堤防の上に建ち、御祭神は木花咲耶姫命。浅間様の愛称で知られ、女性の信仰が厚かったという。口碑に「湯を浴びて身体を休められるのが一番の御利益だった」と伝わるように、厳しい生活の中でも神湯と呼ばれる湯殿に入って祈願すれば難病が治るとされていた。また古河公方の奥方が病気平癒を祈り、成就に際には神田を寄進したという。

境内の松は美しく手入れがされており、氏子の現在の信仰の様子が分かる。下総と武蔵の境として、また渡良瀬、利根川の流れに寄り添いまた抗いながら長い歴史を刻んできたのが感じられる。
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夕暮れの渡良瀬遊水地

2018-05-19 20:54:39 | 麻久良我乃許我の里

 朝家を出る際はかなりの雨が降っていたが、新三国橋を越えて古河につく頃には晴れ渡っていた。茨城に入ると所々キャベツ畑が見られ、露地野菜の生産地だと実感する。日が伸びたおかげで渡良瀬遊水地まで向かうことができた。勤務地からは約10㎞。

渡良瀬遊水地へと流れ込む渡良瀬川は群馬・栃木の県境にある皇海山を源とし、いくつもの渓流を合わせて、桐生足利を下り茨城の古河にて利根川本流へと注いでいる。流路延長107.6kmの利根川水系最大の支流だ。
 一方本流となる利根川は、かつては東京湾に流れていたが、徳川家康が江戸に入り、関東平野の開発が進むと、江戸を洪水から守るために銚子沖に流れるよう付け替えた。(利根川の東遷)これにより渡良瀬川は元和元年(1621)利根川を渡良瀬川に流す新河道が開拓され、その支流となった。利根川の支川となった渡良瀬川下流部一帯には赤麻沼、石川沼、板倉沼などがあり、その中央部を開墾したのが谷中村で、周囲を堤防で囲まれた村だった。
明治23年、同29年の洪水を契機に渡良瀬川下流部における足尾銅山の公害事件が明るみになる。時の帝国議会で取り上げたのが田中正造だ。明治34年には衆議院議員を辞して明治天皇に直訴を試みている。
谷中村は周辺に比べ地盤が低く水害も受けやすかった。各家家には洪水に備えて「水塚」が築かれ、「揚舟」が供えられている

足尾銅山鉱毒事件被害の防止対策と歳て氾濫被害の軽減のため渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が立てられ、明治39年栃木県が買収し、村民は反対する中、谷中村は藤岡町に合併され廃村となっている。

茨城、栃木、群馬、埼玉と4県にまたがり国内最大の遊水地として今日その役割を果たしながら、訪れる人々の憩いの場となっているが、その整備における歴史には多くの悲劇や苦難があったことを忘れてはならないと思う。
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