皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

用土村 貴船神社

2018-05-18 22:18:56 | 神社と歴史

寄居町用土村の歴史は古く、弥生時代中期の用土・平遺跡や古墳後期の谷津古墳群などが見られる。「用土村誌」によれば創建は天平元年(729)。また延暦年間(782~)坂上田村麻呂の東征に際し、この地に立ち寄り土偶を造るのに「この土を用いたりよって淀を改めて用土となす」とある。
 時代は下り文明九年(1477)鉢形城の拠って上杉家に背いた長尾景春を太田道灌は上杉顕貞を助けて用土村に敗走させている。江戸期に入り神祇管領により正一位を与えられている。
 ご祭神は高靇命(たかおかみのみこと)、暗靇命(くらおかみおみこと)。山の上の龍神と山陰の龍神を表す水神で雨を降らせる霊験が伝えられる。記紀神話の中では伊邪那岐が迦具土神を惨殺した際、剣の柄に付いた血から生まれたとされる。伊邪那美命が迦具土神を産み、陰部を焼かれて黄泉の国にへ行く際多くの神々が現れている。

第六二回式年遷宮に合わせて由緒書きを始め社殿等も整備されている。境内地裏には用土小学校があり、杉林社殿を守るように生えている。
 昔は水利が悪く数年に一度しか田植えができなかったとつたえられる。このため降雨を祈る「お水迎え」が盛んに行われた。榛名講として榛名神社で竹筒に水をもらい受け、氏子が盥にあけさらに地場の水を加えて各子に配り、耕作地にまくと黒雲が現れ、雨の恵みがもたらされたという。

宮司家は隣にあり神職代替わりの際には龍神の化身である白蛇を見るという。
「大里郡神社誌」によれば「社掌田村銀太は九歳の時自宅前に白蛇現れ、猫が梁を眺めて呼吸を鋭くせし故仰ぎ見しに白蛇なりきと口伝に伝う」との記述があり代々の世襲の様子が紹介されている。神職世襲は各地に多いが、特殊な逸話や口伝が残っているのは貴重だ。
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忍城三重櫓跡

2018-05-17 20:04:02 | 行田史跡物語

市役所前の通りを南に走り、信号を過ぎると美しく開けた水城公園に出る。昨年来足袋蔵のまち行田として日本遺産に認定され、その歴史的建築物(大正期)の保存活用事業として「旧忍町信用金庫」が公園の東側に移設され、注目を集めている。
 一方公園北側入り口にある忍城三重櫓史跡は、中央小学校の東口の前にあり、人通りも少ない。

説明によれば明治6年忍城取り壊しの際、上棟札に元禄十三年(1700年)とあったので藩主阿部正能の時代であり、老中を兼ねていたことから当時江戸城天守消失の時代にあって、その名をはばかり、三重櫓と名付けている。

明暦三年(1657年)の振袖火事と呼ばれる大火で江戸城天守郭消失しており、幕府に遠慮して築城できなかったと伝わる。但し阿部忠秋が江戸時代最多三十二年の老中を務め三代正武は二十三年を老中職を務め、合わせて忍城も改築している。天守閣という名はつけなかったが、その居城にふさわしい威容を誇っていたという。明治六年の忍城取り壊しにより、今はその当時姿を見ることはできない。
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第二回講座 市民ボランティア活動

2018-05-17 17:26:08 | 生涯学習
行田市民大学9期生二学年になって初めての講義は市民ボランティア活動についてでした。始業式を欠席したためしばらくぶりの授業となりました。講師は行田市社会福祉協議会の長谷川淳先生です。
初夏を迎え、ものつくり大学構内も緑が多くなります。(悪くいうと草が延び放題)施設の管理も大変だとおもいます。
ボランティア元年と呼ばれる阪神淡路大震災があった1995年。社会福祉協議会はボランティア活動の支援を始め、地域にあわせて福祉増進に取り組んでいます。少子高齢化の進行で、サポートする側より、受けるほうが圧倒的に増えて来ている現実があります。
印象に残ったものとして、阪神淡路大震災以降生まれた、「クロスロード」という概念。震災時の混乱から無理難題が生じ、対応するためサポート活動への設問が出来たそうです。「クロスロード」とは、「分かれ道、岐路」のことで、重大な決断を意味します。またクロスロードに正解はなく、議論し、相手を理解し、共感することに重点をおいています。
例題として、自治会長が80代の独り暮らしの男性の家を訪ねて、様子を見に行った際、昨日からの新聞がたまっ
ていて鍵は開いていたら、直ぐに中に入って確認するか、それとも誰かに連絡しますか。という問題について議論します。人命救助の観点で考えれば直ぐに中に入ります。一方事件や事故の観点から見れば、少なくとも誰かを呼び複数で確認するほうが、安全だといいます。
正解はないそうです。考えさせられる問題が社会福祉の現場にはたくさんあるそうです。なかなか自分で出来ることは少ないですが、心に響いたのは「一人の百歩より、百人の一歩」という言葉です。
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忍城二の丸跡

2018-05-15 20:54:24 | 行田史跡物語

二の丸は藩主の居宅で十数棟からなる平屋の立派な建物であったとされる。忍城内最大の建物で、明治四年(1871)八月忍藩主松平忠敬は東京に移るにあたり、三度にわたって千四百人からなる家臣を招き別離に宴を催したというので一度に五百人近くが座れる部屋を有していたのだという。そしてよく明治五年(1872))忍城の建物はすべて取り壊しを命じられ姿を消している。

行田史石碑は多くは昭和五十年代に建てられ、通りに建っているが二の丸跡石碑は忍中学校の敷地内にある。直接見る機会はなかなかなく、子供の忍中学校入学式の際目にすることができた。また忍中学校校舎北側窓には「二の丸跡の誇りにかけて」というスローガンが郷土資料館を訪れた人々に向け書かれている。もちろん誇りにかけて培うのは「自治・共同・勤勉」の精神だ。
めぐりあわせか、私がこの世に生まれたのは、忍城廃城取り壊しの後百年後のことだった。
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忍城御本丸跡

2018-05-15 20:31:01 | 行田史跡物語

行田市郷土博物館が建って今年で三十周年。昭和六十二年当時自分は忍中学校の二年生だった。博物館建設前は「本丸球場」という野球場があった。入学して野球部に入り忍中学校の特典として、当時の本丸球場で練習することができた。行田市少年野球の聖地だった。
 成田記の中に「忍城を攻め落としたならば、その他の城は手を下さずとも降参し、北武蔵を掌握することはたやすいことである」と記されているらしい。忍城の本丸には成田氏築城以来から天守閣はなかった。文明十一年(1479)以前の築城時期に本丸はあったが、天守閣建築はなかったらしい。だから現在の郷土博物館建設時、忍城の当時の様子にそぐわないとの意見の出されたらしい。今となっては、多くの観光客が訪れ埼玉古墳と並ぶ市の重要な施設となった。

本丸跡の石碑は郷土博物館駐車場にある。館内へ急ぐ人々はあまり目を留めていないようだが、緑の芝生に包まれるように静かに建っている。
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