皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍の昔話 皿尾庚申様②

2018-06-07 22:18:35 | 郷土散策

 小高い丘の上に建つ庚申様は霊験あらたかで、地元の人々にも信仰されている。
その昔近くに住む小学校に上がる前の子供が、皿尾の庚申様の近くで遊んでいたとこのこと。庚申様の前で下駄の鼻緒が切れてしまったので手拭いを出して鼻緒をすげ変えようとしたがしゃがむのが面倒なので、庚申様の上に下駄をおいて鼻緒をすげかえた。
夕方になって仲間と別れて家に帰り、家の上りはなから座敷に上がろうとすると、急に腰が抜けてしまった。祖母が「どうしたんだ」と駆け寄って「どこかでいたずらしてケガでもしたんか」としつこく聞かれた。
 そこで庚申様の庭で遊び鼻緒が切れたので、すげ変えたことを話すと、祖母はどこですげ変えたのかと聞くので、仕方なく庚申様の上に下駄をおいて変えたことを話すと、「この馬鹿、庚申様が怒ったんだ」というと動けない子をおぶさってすぐに庚申様のもとへ行き、「ご勘弁ください」と祈った。すると痛みが消えて歩けるようになったという。

また別の言い伝えによれば、その昔「子隠し」の話が信じられている頃、よく子供がいなくなった。近所中が手分けして探し出すと、庚申様の前でうずくまっていたという。
今でも鬱蒼と茂る藪の中に建つ庚申様は人々のの暮らしを小高い丘の上から見ているようで、今日でも霊験あらたかのようだ。

 
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忍の昔話 皿尾庚申様①

2018-06-07 20:42:33 | 郷土散策

皿尾城は永禄四年忍城を攻めるため上杉謙信が羽生城主広田直繁の弟木戸忠朝に守らせた平城とされる。現在皿尾久伊豆大雷神社がその跡地と考えられているが、城の中心はそのさらに南にあったとも考えられている。忍城と同じくあたりは深田の水田で自然の要塞の様に機能していたのだろう。久伊豆神社の南には現在も庚申様と呼ばれる小さな石の社が建っている。古墳を思わせる小高い丘の上だ。
 郷土史研究の人が訪れることも多いという。「庚申様」とは干支のめぐりあわせで「かのえ・さる」にあたり六十年あるいは六十日ごとに巡ってくる。庚申の夜には三子の虫が睡眠中に身体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報じて生命を奪われるとされる。元は道教の説で、庚申の晩徹夜をすることが修行とされ、後に転じて庚申の夜を徹して語り合い酒食の宴を催す風習があったという。申(猿)待ちとして猿の信仰ともむすびついている。よって猿田彦神への連想から、道祖神の碑の様に扱っているところも多い。
 しかし最も顕著な信仰は徹夜して明かすということから女人を避けたり、当日は婚姻を結ぶのを避けるといった習いが生じ、庚申の神は恐ろしい神で祟りやすいと考えられていた。
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星宮村の成立

2018-06-07 20:32:40 | 郷土散策

 明治二十二年(1889)の町村制施行により、池上村、下川上村、上池守村、下池守村、中里村、小敷田村、皿尾村の七村が合併し、北埼玉郡星宮村が成立した。当時の星宮村には村内を流れる星川と古宮用水路があり、その「星」と「宮」を一文ずつ取り星宮村としたという。また当時七つの村が合併したことから北斗七星になぞられたという意味もあったという。
 昭和三十年(1955)七月行田市に編入。また同年10月には池上地区、下川上地区は住民の希望により行田市から熊谷市に編入されている。
現在行田、熊谷それぞれに「市立星宮小学校」が存在し、行政区域の枠を超え毎年7月七夕交流会としてお互いに行き来し、交流を深めている。
 
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武蔵国の筆比べ 忍藩硬筆編

2018-06-06 18:46:39 | 生活
梅雨に入り登下校も傘の出番が増えるようになりました。運動会も終わりプール開きも済んだようですが、雨が多いと子供たちも元気をもて余してしまいます。
この時期の恒例行事として、書写硬筆の選考会がありました。校内で金賞をもらい、市内の選考会に出展するため練習しています。硬筆、毛筆共に県の展覧会が大々的に続いているのは埼玉だけのようです。硬筆専用の消しゴムも購入し、8B,6Bの鉛筆と共に準備は万端です。
四年生から用紙は一文字枠から行へと変わりました。インターネット偏重社会に於いても手書きの文字は大事にしたいものです。
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浮島明神 鷲宮神社②

2018-06-06 12:02:54 | 神社と歴史

鷲宮神社の創建は往古、天穂日命とその御子武夷鳥命が二十七の部族を率いて当地に入植し、国土経営の神大己貴命を祀る神崎神社を立て(拝殿から見て左)、次に天穂日命と武夷鳥命を祀る本殿が奉祀されたという。天穂日命は天照大御神の御子で天孫降臨の前、大国主神の説得にあたった神にあたる。
ゆえに神崎神社は本殿脇の摂社にあたる。社名については「鷲」が土師器を生産する土師部に音が通ずることから土師氏の奉仕する土師宮から転じたとする説がある。平安末期から鎌倉期にかけ太田氏による社領の寄進管理が見られる。太田氏は平将門の乱で功を挙げた藤原秀郷の末裔にあたり、この地において土地を開発し太田荘として勢力を伸ばしていた。

鎌倉期になると建久四年(1193)に神前にて事件が起こり、占いの結果兵革の兆しとのことが幕府に進言され、幕府は鹿毛の馬を奉納し社殿の荘厳を命じたと「吾妻鏡」に記されている。鎌倉幕府は東国の支配強化を図るうえで、鶴岡八幡、伊豆三嶋大社、箱根権現、伊豆山権現と共に鷲宮神社を重んじたとされている。社務所の脇には源頼朝の手植えとされるもっこくが残っている。
南北朝期には下野国の小山氏の崇敬庇護を受け、享徳三年(1454)鎌倉幕府内紛から鎌倉公方足利成氏は上杉憲忠を殺害する享徳の乱がおこった。足利成氏は鎌倉を追われ下総国古河に入り、古河公方となると鷲宮神社は古河公方の支配下にはいり、祈祷所とされた。戦国期に入り、権勢を誇った古河公方も小田原の北条氏に滅ぼされ、その後は北条氏の祈願所として位置づけられるようになった。
この時期鷲宮神社神主大内氏は北条旗下の鷲宮社領を支配する鷲宮城主として、北条氏に与力したという。大内氏の所領は埼玉郡下に広くまたがり石高七百石を超えたという。天正十八年北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が関東に転封となると、鷲宮の地は徳川家の支配下に組み込まれ四百石の社領が安堵された。しかしこれはかなり減石されたもので、かつての社領であった村々や古河公方ゆかりの久喜の寺院からは支配が変わったことにより、社殿造営等の協力を得られなかったという・。
 社家としての大内氏はその後は鷲宮城城主としての立場を放棄し、祭祀に専念するようになったが、宝暦九年(1759)に出された「鷲宮大明神由緒並私家由緒書」によれば代々武士を兼ねた神主であったことから槍を所持して社人の争いを裁いたことなどを伝えている。
 明治期に入り由緒ある大社であることが認められ準勅祭社となっている。

祭祀としては酉の市が有名で、きっかけは安政六年(1859)神主大内国泰が氏子の鶯谷音二郎に熊手を商わせたことによるという。当社を拝めば一度に多くの幸福を得ることができると説き、「濡れ手に粟の鷲掴み」と伝えられ、関東随一の酉の市となったという。
氏子区域は旧鷲宮町となるが信仰は広く久喜、加須、幸手栗橋、宮代、菖蒲などにも及び、中世の社領区域と一致する。氏子が伝承する神事芸能として「土師一流催馬楽神楽」があり国の重要無形文化財に指定されている。
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