皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

皿尾 久伊豆神社大雷神社合殿②~三嶋大明神が導く神社の起源と現在に至るまで~

2022-03-26 14:44:06 |  久伊豆大雷神社
当地は永正年間成田氏が忍城を築くまで居住し、太平洋戦争後、生活改善や酪農の実験村として関東一円に知られたところである。昭和40年建設の皿尾農民センターは当時の斬新な建築モデルを採用し、平成27年に改築されるまで地域のシンボルとしてその姿をとどめていた。

当社の縁起によれば成田長景が源頼朝に付き従い平家追討の折、伊豆三島大社に武運長久を祈願し、功名を挙げたのは神徳の致すところとし、この地に三島明神と雷電神を勧請し、祭祀をはじめたと伝えている。
『新編武蔵風土記稿』では「久伊豆は郡中騎西町場に大社ありて、近郷是を勧請するも多し、当社も恐らくは其類ならん」と記す。

「埼玉の神社」によればご祭神は久伊豆社が事代主神、大雷神社が別雷命と記しているが、久伊豆社の祭神は大山祇命。(縁起より)但し三島大明神とは古来より事代主神、大山祇神の二柱の神を合わせて称したものと伝わっており、忍領下の多くの久伊豆神社が大国主を祀っているのと異なる点である。
忍城落城の後、寛永十九年(1642)忍領主阿部豊後守忠秋が崇敬するところとなり、領主が武運長久を神主青木家に命じ、阿部播磨守正能は延宝元年(1673)社殿を再建している。
尚明治二十四年奉納の絵馬に当時の祭祀の様子が描かれており、社殿も当時のものと考えられる。また延宝元年再建の棟札は現在でも当時記されたままの形で現存していて、江戸初期の神社建築の様子を伝える貴重な文化財となっている。

明治六年(1873)に村社となり同四十一年(1908)駒形の生駒神社、字仲之在家の神明社、同地区の天神社と三社境内に合祀している。これ以前より末社として稲荷社と風神社を祀る。明治の合祀政策は維新政府の重要政策であったが、各地で合祀に対する反発は激しく、生駒社においては明治末期には駒形地区に戻されている。生駒神社の歴史は古く、郷土史家清水雪翁氏の「北武八誌」にはこの地で鎌倉幕府御家人梶原景時は検地の折、馬を留めて休んだと伝えている。
現在の社殿は昭和六年(1931)建立の神社建築で九十年の時を過ぎ当時の様子を現在に伝える。棟上げの時の写真も現存し、忍の献上米を作るにふさわしい土地柄で、米俵三俵が奉納された様子が映っている。現在でも当時を模した米俵が供えられており、また一軒二社造りの本殿は祭祀の度、同じ神饌を二組奉納する習いである。

社家である青木家は天正十八年の青木甲斐正澄から現在の青木孝茂に至るまで二十三代を数え、江戸期は入間郡塚越村住吉神社勝呂家の配下となっていた。
当社には天正期以降の多くの社宝があったとされるが、忍城水攻めに当たり、石田三成の軍勢によりその大多数が散失している。
しかしながら元禄七年卜部兼連の神道裁許状が残る。これは巫女に対する神楽舞衣の使用を認めたもので、裁許状の種類としては稀である。

また平成十一年には所有する工芸品「鰐口」が行田市有形文化財に指定されている。
鰐口とは寺院や神社の拝殿に吊るされた、参拝者が綱を振って鳴らす鈴のことで、扁平の円形をしている工芸品。
「永禄二年十一月三日願主右衛門三郎」の銘文が刻まれていて、同じく「鋳物師田井」と名が記されている。
この鰐口は「新編武蔵風土記稿」にも記されていて、戦国期(1559年頃)の様子を今に伝える貴重な資料とされている。また風土記稿においては天正五年銘の成田家家臣中村丹波守守吉が奉納した鰐口もあったと記されているがいつのころか失われたという。

境内地には日露戦争従軍碑が、また拝殿には大東亜戦争出征名簿が残されている。
多くの人々の苦難とそれを乗り越えてきた村の氏子の足跡が今に伝えられている。共に私の叔父や祖父、曾祖父の名も刻まれている。
私がここで生きる意味がそこにはある。それは皿尾村の歴史を後世に伝えていくことに他ならない。

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2022/03/24

2022-03-24 22:20:31 | 神社と歴史 忍領行田




















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皿尾 久伊豆神社大雷神社合殿①~中世武士勧請の神社として

2022-03-24 22:17:25 |  久伊豆大雷神社

本年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」主人公北条義時始め、多くの坂東武者が登場し、新たな時代を切り開く様子が描かれている。その中心となるのが源氏の棟梁たる源頼朝。

頼朝の敬神並びに幕府の崇敬政策は、中世において各々の武士の敬神思想を啓発したと考えられている。権力を有する者が自らその地に信仰する神々を、勧請するか或いはすでに鎮座する産土神を崇敬し続けるといういづれかの形をとる。武蔵の坂東武者がこのころ勧請した神社は主に、八幡、香取、鹿島、諏訪等武神として祀られる神が多い。


忍領における武士勧請の神社として、北埼玉郡星宮村皿尾、久伊豆神社大雷神社合殿を見ることができる。延宝元年(1673)の縁起
によれば
文治四年(1188)成田五郎長景が平家追討の折伊豆三島大社にて武運長久を祈願し、功名を挙げたとして帰郷後この地に伊豆三島明神を勧請したのが始まりと記されいる。
現在もこの縁起は宮司家に残されており、『新編武蔵風土記稿』の記述の元となったと考えられている。
成田の祖先たる成田長景の詳細については不明であるが、承久の乱に出陣との記述が『吾妻鏡』に見られる。また成田家六代当主成田助広(太郎)の三男、成田助忠は五郎を名乗り永寿二年(1184)源平合戦にて戦功をあげたと伝わる。
忍の成田家と皿尾村の縁の一つに、12代当主家時は菩提寺龍淵寺の開祖として和庵清順和尚を講じている。
清順和尚は皿尾村の薬師堂付近の高僧であったと成田記にも記される(現在は泉蔵院)
また時代が下って天正元年(1573)には龍淵寺九世梅岩は皿尾村に高太寺を創建している。

寺社仏閣は地域を映す鏡とも言われるが、皿尾に残るそれぞれの寺社仏閣とも成田家由来のものとして伝わり、忍城戌亥(北西)の要の地としてその歴史を刻んできたことがわかっている。




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閉校記念誌のことばから

2022-03-23 22:59:48 | 記憶の片隅

私の母校である行田市立星宮小学校は本年三月をもって136年の歴史に幕を下ろすことになりました。私自身は昭和54年入学同60年卒業。また自身の子供たち二人で足掛け9年間通して通い、少なくとも人生50年のうち、15年はこの小学校に直接お世話になっていたことになります。行田市の北西、広大な田園地帯の真ん中にある校舎ができたのは昭和62年のこと。私が小学校5年生の時でした。それ以前は
上池守の西端に建つ木造校舎で、私自身は4年間はるばる農道を2キロ以上歩いて通っていました。

星宮小学校は明治5年(1872)の学制発布により池上梅岩院本堂に開かれた池上学校を初めとします。開校136年を誇る地域の伝統校が閉校してしまうことは、地元民として大変さびしく思いますが、新たに開校する忍小学校との合併を祝いながら、これまでの歴史を誇りに、次世代に伝えていくことが責務だと感じています。
閉校に当たり昨日記念式典が行われ、多くの卒業生が集いました。屋内での式典はコロナ感染拡大防止の観点から、出席者も制限されましたが、屋外のバルーンリリース(記念風船飛ばし)には300人以上が集まった模様です(風船が足りなかったそうです)
週が明けて閉校記念誌が手元に届きました。歴代の校長先生を始め、PTA会長はもちろん各字から在校時の思いでが寄稿文として掲載されています。私も旧校舎、新校舎両方に通ったことから皿尾地区を代表して(2名)書かせていただきました。思いでの小学校を最後の記念誌に掲載していただき、感謝の気持ちでいっぱいです。

テレビ埼玉でも今回の閉校のことが取り上げられていました。
農村部の小さな学校ながら、多くの人々に愛された素晴らしい小学校であったことが伝えられていました。
その中で小規模学校故に、高学年が低学年の面倒をよく見ることが学校のよさであり、伝統だと伝えられていました。在校生の六年生のことばが今の日本にもっとも大切なのではないかと感じました。
「どうして五、六年生は小さい子達の面倒をよく見るの?」
「自分が小さいときに、お兄さんやお姉さんがそうしてくれたからです」
これこそが私たち日本人が紡いできた精神です。
今でも星宮小学校を誇りに思います。
拙いながらも私なりに当時を思いだし一生懸命書いた寄稿文をここに転記します。

遥かなる池守の木造校舎成田道
 皿尾 昭和59年度卒業 青木 孝茂
昭和54年入学の私たちの校舎は上池守の古きよき木造校舎でした。桜の花咲く肌寒い4月の入学式の写真は当時の北向の玄関前でとっていただいたものです。高度経済成長が終わって5年。バブル経済が始まろうとする少し前の頃、戦後日本がもっとも穏やかだった時分と言えるでしょうか。木造校舎の前には鮮やかに咲く菜の花の花壇がひろがり、幼く小さな私たち20名を温かく迎えてえくれているようでした。
皿尾から池守まで続く一本道は長大道と呼ばれる県道303号線で昔は「成田道」と称された古道です。幼い足で歩くにはあまりに長い道のりでしたが、今となっては苦楽をともにした仲間とのよき思いでの道となっています。
五年生で移った新校舎は青々とした田んぼに囲まれた美しい校舎で、二階の昇降口玄関から眺める中庭の景色を今でも忘れることはありません。当時佐新鋭の設備であった校内放送を昨日のことのように思い出します。

このブログを読んでくれている同級生や先輩後輩のかたがいたら是非連絡をください。今でもあの頃のまま元気に過ごしています。
ずっとこの星宮の地で頑張っていこうと思っています。
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仮面の女神

2022-03-22 16:44:05 | 歴史探訪

長野県茅野市中ツ原遺跡出土の国宝土偶。「仮面の女神」
平成12年(2000年)に出土したこの土偶は顔に仮面を纏っている。仮面土偶というのはこれだけに限らないそうだが、その大きさは高さ34㎝とひときわ大きい。縄文時代後期のもので二千年前頃のものと言われている。平成26年に国宝指定。

気温が温暖化し一万二千年前くらいには土器を用いた定住生活を始めたと考えられている。縄文土器と呼ばれる文化は北海道から南西諸島に至る長い長い日本列島各地に広がり、その地域ごとに発展したという。
縄文時代の人々は湧き水のある台地の周縁部部に縦穴式住居をなどをつくって集落で生活した。住居の中央には炉があってその周辺に木の実などを蓄える貯蔵用の穴を掘った。集落の背後には森が多くあり、環状の貝塚なども発掘されることが多い。
祖先礼拝の習俗も生まれ、死者を折り曲げて葬る屈葬も見られるようになる。自然条件に左右される不安定な生活の中で、集団での統制を図るために自然現象に霊的意味合いを持たせて呪術による統治を行おうとしたのだろう。
縄文文化は数千年以上に渡り日本列島に栄えたことから日本民族の原型もこの時代に形づくられたと考えられている。

土器を用いることで人々の食生活は大きく変化する。灰汁や毒を抜くことができ、加熱することで柔らかくなるからだ。土器そのものが人類の歴史を進める画期的な道具であったことがわかっている。また集団生活を送るなかで「女性」の役割が重視され土偶などに女性的な表現が表れる。中ツ原遺跡発掘の「仮面の女神」は丹念に磨きあげられ光沢ある黒色を醸し出している。渦巻きの紋様をまとい、その表情は仮面で隠されている。まさに呪術者としての女性の姿。巫女の存在を思わせるその姿は縄文の時代の女性の地位を表しているようだ。
古代の女性祭司
縄文の首都と呼ばれる長野県八ヶ岳山麓から現れた土偶は2000年の時を超え、古代日本の様子を現在に伝えている。


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