安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

日航機事故遺族が文集「茜雲」出版へ

2015-08-02 12:05:04 | 鉄道・公共交通/安全問題
日航機墜落事故遺族が文集出版 30年の思いつづる(神戸)

----------------------------------------------------------------------------
 520人の犠牲者を出した1985年の日航ジャンボ機墜落事故から8月で30年となるのを前に、遺族らでつくる「8・12連絡会」が、遺族の手記をまとめた文集「茜雲」(本の泉社)を出版した。事故では兵庫県関係者も100人以上が亡くなり、県内に住む5人も文章を寄せた。悲しみ、感謝、「空の安全」への願い…。亡き家族へさまざまな思いをつづっている。

 連絡会は、事故の4カ月後に発足。遺族の手紙をもとに年1度冊子を編んでいる。今年は30年を機に、10年前に続いて本にまとめた。

 41人の手記を収録。夫の会社員展明さん=当時(33)=を失った明石市の神林三恵子さん(60)は、娘の小学校教諭久美子さん(33)が2月に結婚式を挙げたことを報告した。

 「花嫁姿、本当にきれいでしたよ。きっと、あなたが見守ってくれていたから、ここまでこられたんでしょうね」

 久美子さんが式で読んだ手紙も紹介した。「私も33歳、お父さんが亡くなった歳と同じになりました。お母さんは3歳の私とおなかに大ちゃんを抱えて、本当に大変だったと思います」。大切に育ててくれた三恵子さんや祖母への感謝、事故現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)に毎年登ったこと、式に父がいないさみしさもつづり、30年の歳月がにじむ。

 事故の年、東京農大二高(群馬県)の選手として甲子園大会に出場し、応援に向かっていた父元章さん=当時(48)=を亡くした宝塚市の竹下政宏さんは、今年初めて「白い機体」と題した詩を投稿した。

 「夏の日 山奥に宿泊したときのこと (中略)満天の星々が 静かに語りかけてきた ああ やっと、みんな 星になったんだね」。御巣鷹の自然に、事故の死者を弔う心の内を重ねた。

 本の後半部には、運輸安全委員会が2011年に事故原因を分かりやすく説明した「解説書」や、遺族からの質問と専門家の回答も詳しく掲載している。

 当時9歳だった二男健君を亡くした事務局長の美谷島邦子さん(68)=東京都大田区=は「事故を知らない若い世代に読んでもらい、次の事故や災害を防ぎ、被害を小さくすることにつながれば。発生10年の尼崎JR脱線事故被害者とも連帯し、『安全』を訴えていきたい」と話す。

 四六判312ページ。1600円(税別)。電子書籍の刊行も予定している。本の泉社TEL03・5800・8494

(山本哲志、中島摩子)
----------------------------------------------------------------------------

日航機事故から30年の今年、遺族が文集を出すことになった。タイトルは「茜雲」。20周年だった2005年にも同じ名前で文集を発行している。遺族の様々な思いが込められたこの文集、安全問題に関心のある方にはご一読をお勧めする。

遺族も、30年の月日の中で高齢化しており、10年後の40周年を迎えられる人はそう多くないだろう。手記を集め文集として発行できるのも、30年の今年が最後になるかもしれない。

ところで、日航機墜落事故の遺族で作る「8.12連絡会」は、上で紹介した記事にも登場する美谷島邦子さんが発足以来ずっと事務局長を務める。JR尼崎事故の遺族会だった4.25ネットワークが機能せず、信楽高原鉄道事故の遺族会も吉崎俊三さんが退任して以来、後継者がおらず活動停止している中で、最も古い「8.12連絡会」がずっと機能し続けている背景には、美谷島さんの存在とその手腕によるところが大きい。

美谷島さんが、なぜ30年も事故への思いを持ち続け、事務局長を続けることができたのか。美谷島さんの、この原動力はいったいどこから来ているのか。やはり、その原動力はこの体験だろう。

写真=「息子よ さようなら」


この写真は、事故3日後の1985年8月15日、事故現場の「御巣鷹の尾根」に上った美谷島さん夫妻。同日の「読売」がスクープしたもので、事故20年後の2005年に出版された「御巣鷹の謎を追う」(米田憲司・著、宝島社)に掲載されている。

1985年、甲子園では桑田真澄、清原和博両選手(いわゆるK・Kコンビ)を擁するPL学園が、高校野球史上最強といわれ、快進撃を続けていた。高校野球ファンだった息子・健君(当時9歳)を甲子園での野球観戦に送り出すため、美谷島さん夫妻は事故機、123便に搭乗させた。

「123便、行方不明」のニュースを聞いて以降、「狂ったように時間が過ぎていく感覚」だったと美谷島さんは言う。事故3日後、「危険だから」と制止する周囲を振り切って御巣鷹の尾根に上った美谷島さんは、そこで残骸が散らばる絶望的な現場を目にした。現場を見るまで「健はどこかで生きているに違いない」と信じていた希望は、この凄惨な現場を見て打ち砕かれたという。遺体は焼けて消失し、結局、美谷島さんの元に戻ってきたのはわずかに欠けた指だけだった。

写真=ネット上に出回った、当時の123便の残骸 「JAL」の文字が見える


あの凄惨な事故から30年。日本の航空業界は、この御巣鷹以降、いくつもの「ヒヤリ」を経験しながら、ともかくも墜落事故による死者はひとりも出さずに30年の日を迎えようとしている。航空機事故による死者は、少なくとも国内では、この御巣鷹が最後でなければならない。

なお、当ブログ管理人は、安全問題研究会として、明日(3日)、御巣鷹の尾根への慰霊登山を敢行する予定だ。その模様は後日、改めて報告したい。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 安全問題研究会がJR赤字線廃... | トップ | 【転載翻訳記事】米国政府の... »

鉄道・公共交通/安全問題」カテゴリの最新記事