(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2011年12月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)
東日本大震災と福島原発事故からはや8ヶ月が過ぎた。地元・福島では相変わらず現在進行形の原発災害への危機感は強いが、特に9月以降、余震の回数も大きく減り、事態を少しは落ち着いて分析できるようになってきた。
原発事故が収束の見通しすら立たない中で、3.11を歴史の中に位置づける作業をするのは気が早すぎるとのそしりを免れないだろう。それでも、東北地方からこの震災と原発事故を眺めていると、やはり私たちははっきりと時代の転換点に立ったのだとの思いを強くする。
●「政府は、とりあえず疑ってみよ」
福島原発事故が起きて、良かったことなどあるわけがないとほとんどの方は思っているに違いないし、「良かったことがある」などと言えば不謹慎だとお叱りを受けるだろう。だが、筆者がこれだけは良かったと思っていることがある。羊のように飼い慣らされ、政府のいうことに従っていれば悪いようにはならないと信じ切っていた日本国民が、近代以降の歴史上では初めて「政府を疑う」ことを覚えたことだ。
政府を疑う動きは、年金問題やリーマン・ショック後の不況を経て、仕事も社会的立場も与えられない若者たちから徐々にひとつの流れを形成し始めていたが、そうした若者の政治的不満は、右翼的攻撃(「嫌韓」ブームなど)や新自由主義(みんなの党や橋下徹・大阪府知事など)へ流し込まれ、真の意味での改革指向を持っているとはいえない側面もあった。また、企業に囲い込まれているサラリーマンなどの中間層は動かず、政治への影響力を行使するには至らなかった。
この政治状況を根本的に転換したのが3.11、その中でも原発事故だと筆者は思っている。「ただちに健康に影響はない」など、確たる根拠もなくただ事態の沈静化だけを目的とする情報が政府やメディアを席巻したことに対し、子どもを持つ母親などの中間層が政府やメディアに疑いを抱き、いっせいに行動に出るというかつてない状況が作り出されたのである。社会から居場所を与えられず、政治的不満をうっ積させながらインターネット上で排外主義的な動きを見せる若者層からすれば、今回、中心となって動いた主婦などの中間層は本来なら「リア充」(注)として打倒の対象だったはずだが、それが経団連という共通の敵を持つ共闘相手として浮上してきている。現在、この両者はまだお互いを共闘相手と認識するには至っていないが、経産省前のテントで女性と若者が交流するなど、連携を模索する動きも出ており、巨大な政治的勢力に成長する可能性を秘めている。
失業と就職難を通じて自分たちを社会から排除している経団連に敵意を抱く若者層と、原発事故をきっかけに「子どもの命よりカネ」の経団連に疑問を抱く母親たちに対して、「現代国家はブルジョア階級の支配の道具であり、労働者階級にはせいぜいブルジョア国家を監視する役割が与えられているに過ぎない」というマルクス主義的国家観を持ち出す必要はないであろう。今や若者と女性は好むと好まざるとに関わらず、東電・原発を擁護し、労働者と農民を世界的自由主義競争のために差し出すTPP(環太平洋経済連携協定)に向かって暴走する政府を不断に監視し続けなければならないというみずからの役割に目覚めたのである。
筆者は、市民が政府を疑い監視することから民主主義は始まると考えている。市民が政府のいうことに従っていれば悪いようにはならないと信じ切り、みずからも経済成長の恩恵に浴しながら過ごしてきたこれまでの戦後60年が、いわば「民主主義ごっこ」に過ぎなかったのだ。広範な国民が政府を疑うことを覚え、みずから行動しなければこの社会を変えることができないのだと自覚して動き始めた今、日本はようやく民主主義のスタートラインに立ったのである。本当の意味での民主主義の歴史はこれから始まる。だから、本誌読者であるような自覚的な市民の皆さんが3.11を敗戦などと思う必要は全くないのである。
(注)リア充とは、「現実の生活(リアルな生活)が充実している人」を指すインターネット上のスラング(俗語)である。反対語は、現実生活は崩壊気味だがインターネット上では存在を認知され、充実したインターネット生活を送っている人を意味する「ネト充」であり、どちらも生活時間の大半をインターネットで過ごしているネット住民の間で、自虐的な意味を織り交ぜて使用されている。
●組織から個人へ~運動の「ノマド」化
「今後、世界的に大企業は死滅していき、インターネット時代の中で労働者はノマド化する」との考え方が、数年前から一部のITジャーナリストやエコノミストなどの間で提唱され始めている。聞き慣れない言葉だが、ノマドとは遊牧民の意味である。製造業など雇用吸収力の大きい産業が崩壊した後に訪れるであろう社会では、労働者はもはや固定した勤務場所を持つことはない。ひとつひとつのプロジェクトごとに個人が結集して仕事を請け負い、そのプロジェクトが終わったらメンバーは解散、また別のプロジェクトでは違ったメンバーがそれぞれの能力を生かして結集しながら仕事を請け負う、という働き方が主流になると予想される。企業に所属して仕事をする人はごく一部の例外となり、多くの社会では企業の所属を記載した名刺よりも自分の職種だけを記載した名刺のほうが主流になる。ノマド化とは、そうした流動的で変化の激しい労働のあり方を遊牧民に例えたものだ。もちろん、こうした働き方が主流になるためには、製造業などの肉体労働から知識労働へのシフトが起こる必要があるし、日本でそのような変化が起こるためには、あと最低10~20年はかかるであろう。
ところで、最近の日本国内の反原発運動や米国での「ウォール街占拠」などを見ていると、運動にもノマド化の波が押し寄せていることを実感する。これらの運動に結集している若者や母親は、労働組合にも市民団体にも属さず、政治党派などとは最も縁遠い人たちである。ひとりひとりが自分が必要と思う分野の運動に参加し、違う運動分野になると全く違う顔ぶれが結集する。東京など大都市部から、次第にそのような新しい流れが生まれつつあるように見える。そこでは、既存の政治党派はもちろん、労働組合などの組織も、インターネットで緩やかにつながった「個人連合」の動きに全く対応できず、事実上乗り越えられている。福島原発事故以降、全体的に放射線量が高い福島市の中でも際だって放射線量の高い「ホットスポット」である渡利地区では、地区全体を特定避難勧奨地域に指定するよう国に要望していくため、インターネットなどを通じた緩やかな父親・母親連合体ができ、恒常的に政府・自治体交渉を行うまでになっている。今後は、もう市民団体さえ乗り越えられていくのかもしれない。
●中東革命と同じ流れ
「組織から個人へ」は、2011年早々に起きた中東革命以来の不可逆的潮流といえる。エジプトでの反政府デモに衝撃を受けた筆者は、ことし1月、
レイバーコラム「時事寸評」第9号(「
レイバーネット日本」サイト掲載)にこのように書いた。『世界政治の大きな変革期には、変革を象徴する情報ツールが登場することが多い。そして、新しい情報ツールを駆使して下から広がる連帯の動きに対し、独裁者の対策は常に後手に回ることになるが、それは当然だろう。政敵や反対者を粛清し、イエスマンばかりに囲まれた「裸の王様」は批判されることがないから自分の頭で考えることもない。長期にわたってそんな状態が続けば、やがて考えること自体ができなくなり、想定外の事態が起きたとき対処できず、独裁支配は解体することになる』。
日本国内で3.11以降起きている反原発運動や米国でのウォール街占拠運動などに対し、この記述を修正する必要を筆者は全く感じない。ただ独裁者の単語をウォール街や東京電力、経団連に置き換える必要があるだけだ。インターネットを駆使して運動が呼びかけられ、その趣旨に賛同する個人が緩やかに連合して共通の要求を作り、政府・自治体に突きつけ、動かすというスタイルはエジプトと全く同じといえる。コラムニストの日垣隆さんも『あらゆる国の政変は、巨大メディアよりも、〔携帯電話などの〕パーソナルメディアをどちら側(独裁者側か民衆か)が制御するかにかかっている』と述べている(『週刊現代』2011年11月26日号連載『なんなんだこの空気は~メディア考現学』より)。ツイッターやフェースブックといった新しいソーシャルメディアをめぐる「民衆」対「原子力村・経団連・ウォール街」のせめぎ合いは、今のところ民衆優勢で進んでいる。この流れを維持できれば、日本でも政治的潮流の変化は遠からず訪れるだろう。
この間の経過を見れば、企業の論理に絡め取られ、この期に及んでも命より経済活動と言い募る中高年男性は変革の担い手たり得ない。期待できるのはやはり女性と若者である。命を生み出し、つないでいくこと以上の大義などこの世には存在しないし、ぜいたくな消費生活をすることが幸福の尺度ではないと理解している若者層は、大量生産・大量消費が美徳と信じ切っている中高年男性よりもはるかに成熟している。来るべき日本の変革を担うのは彼らである。3.11をそのスタートと位置づけたい。