安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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4月。新たなステップと、復活したものと・・・

2025-03-31 21:55:26 | 日記

4月に入り、北海道での生活は13年目に突入した。代わり映えのない人生のようにも思えるが、小さな変化はあちこちに転がっている。

1つ目は、なんといっても半世紀以上の人生でまったくやったことのなかった料理を始めたことだ。

今年2月に、妻が凍結した道路で転倒し、手をついた拍子に左手首を骨折してしまった。左手の手首から下が装具で固定されることになってしまった影響で、手先を使う細かい作業ができなくなった。このため、2月中旬以降、妻と一緒にキッチンに立ち、アドバイスを受けながら料理に取り組んでいる。我が家では、私が胃の摘出手術を受けて以降、質の悪いサラダ油を受け付けなくなったので、米油やオリーブオイルを使っている。その米油やオリーブオイルをフライパンにひき、野菜を切って入れ、炒めるところまではできるようになった。

卵をフライパンに落としスクランブルエッグを作るのも、思っていたより簡単にでき、これなら初心者の自分にも続けられそうな気がする。妻の骨折が治った後も、料理は続けることを宣言している。仕事もあり毎日はさすがに難しいが、間を開けると忘れてしまうおそれもあり、週に1~2回程度なら無理なく続けられると思っている。

雇用形態は問わないが、妻に働きに出てもらう計画もある。管理職昇任の見込みがほぼなくなったことで、今後、私の大幅な給与アップは見込めそうにない。世帯収入を上げるには「2馬力」にするのが最も手っ取り早いが、そうなったときでも、私が料理を覚えれば、仕事から帰ってくる妻を料理を作って待つこともできるようになる。想像するだけで今後の人生が明るくなってくる。

2つ目は、記事に不満を持ってやめた北海道新聞の購読を今日から再開したことである。

購読を取りやめた経緯は、当ブログ2021年10月4日付け記事「2021年、別れと決意の秋のようで……」に詳しく書いたため繰り返さないが、科学的には原発事故と甲状腺がんの関係は明白であるにもかかわらず、それを否定する記事ばかり執筆・掲載し続ける関口裕二記者(現・編集委員)の姿勢に激怒して、購読を取りやめた経緯がある。

それが、今回購読を再開することになった。当ブログでもしばしば取り上げてきた福島県の地方雑誌「政経東北」でこの問題を追ってきた牧内昇平さんが、記者として北海道新聞に入社したためだ。

すでに、「子どもの甲状腺がん 届かない当事者の声 福島の10代罹患率5~11倍」という優れた記事を書いていただいた(北海道新聞3月9日付け紙面。PCの方はサムネイル画像参照)。福島の子どもたちの甲状腺がんが原発事故に由来することを、きちんと記事にしてくれている。

北海道新聞3月18日付け記事「消えない心配 続く給食の放射能測定と健康調査 原発事故から14年~福島市は今」も、牧内記者が書いたものだ。事故から14年経った今なお、放射能汚染の心配を抱え続ける福島県民にきちんと寄り添う内容になっている。この2つの記事を、2021年10月4日付当ブログ記事で紹介した紙面と比べてみると、2つの記事が被害者と原子力ムラのどちらの側に立っているかは一目瞭然だ。

福島原発事故は「政(政治)・官(官僚)・財(経済界)・学(御用学者)・報(報道機関)」の鉄の五角形によってもたらされた。それだけに、事故直後は原発の危険性を伝えなかった報道機関も厳しい批判を受けた。だが、報道機関を権力の監視装置として再建していくためには、単に批判するだけでは足りない。被害者に寄り添い、政府・原子力ムラのウソ・隠蔽・ごまかしを暴くために活動している良心的な媒体・記者に対しては、購読して支えることも必要である。今回、北海道新聞の購読を再開した背景にはこのような事情がある。

北海道新聞の購読再開に代えて、2021年10月以降購読してきた「しんぶん赤旗」日刊紙を取りやめ、日曜版のみに戻すことにした。知り合いの日本共産党員には大変申し訳ないが、国政選挙で同党が連続敗退するようになってから、低迷する党勢が紙面にも明らかに反映している。政党機関紙であることを割り引いたとしても、党内引き締めのためとしか思えない記事の割合が以前より増えたように感じ、以前と比べてつまらなくなった。

原発関係記事に至っては、放射能による健康被害をめぐって党内世論が割れている事情があるせいか、党執行部の見解は示されず、共産党傘下の反原発運動団体が取り組む運動・行動を紙面に載せてお茶を濁しているだけになっている。政党機関紙ならこれらの事態に対し、党としてどのような方針を掲げ、党員にどのような活動を求めるのか明確にすべきだと思う。それがきちんとできていないからこそ、党首公選制を求める勢力による党内からの「揺さぶり」に全組織が動揺する事態になるのだと思う。

北海道新聞の購読は、牧内記者が社内にいる限り、そして私が道内に住んでいる限りは続けたいと思っている。


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冬来たりなば春遠からじというけれど・・・人手不足の春、来たる

2025-03-01 22:09:42 | 日記

3月に入った。

4月人事の公表は3月中旬でまだ明らかではないが、うっすらとわかっているのは、どうやら「サプライズ人事」はなさそうだということ。そしてはっきりとわかっているのは私自身にはこの春も異動はないということである。2013年4月から続く北海道生活は、丸12年を超え、13年目に入る。こんなに長く続くと思っていなかった(最近は毎年同じことを言っている気がするが)。個人的には、ここの生活はかなり気に入っているので、役職定年となる60歳まで、もうこのままでもいいと思っている。

一時は停滞気味だった私の精神状態は、当ブログ昨年10月12日付記事「天高く、復調の秋」で書いたとおり、かなり復調してきている。いったん休筆宣言した後「以前と同じペースでの執筆はできないとの条件で復帰」した「ある媒体」に関しても、結局、以前と同じペース(週1本程度)での執筆に戻りつつある。

ここ最近は、自分自身の停滞を象徴するような「おかしな夢」も見なくなったが、これには「悟りを開いた」ことが大きいだろう。今年1月12日付記事「日本社会の縮図だった同窓会と、私の「これから」」に書いたとおり、経営層や管理職、花形部署で看板業務をしている人たちが思う存分手腕を発揮できるよう、「評価対象にならなくても、職場・社会のために誰かがやらなければならない仕事」を引き受けることが私の今後の役割なのだ。

とはいえ、この4月以降、しばらく苦しくなることがはっきりしている。私の向かい側の席の人が、昨年10月以降、今年5月いっぱいまで育休に入っている。その代替要員を11月から採用し、5月いっぱいまで雇用を続けることになっていたのだが、結局、3月までで退職することになってしまったからだ。

育休者の代替要員としての雇用だったはずなのに、その人にも1歳児がいることを採用後に知らされた。上層部は、面接で事前に知った上で採用したとのことだが、実質的には短時間勤務に近く、代替要員としての意味は、振り返ってみるとほとんどなかったように思う。

少子化の進む日本にとって、子育てはある意味、仕事よりはるかに重要な国家的ミッションであり、それだけなら問題にするほどでもなかっただろう。だが、2月に入って以降、「今後、この仕事を続けていく自信がない」などの発言が出るようになり、突発的に休むことが増えた。様子がおかしいことは明らかだったが、先日、その理由が判明した。彼女が精神障害者保健福祉手帳を所持していること、それをカミングアウトせずに健常者として面接を受け採用に至っていたこと、等々である。

私はこれまで誰よりも長く労働組合役員を務めてきたし、連れ合いはケアマネージャー(介護支援専門員)の資格を持つプロの福祉職である。当ブログ昨年3月30日付記事「路傍の雪が溶け、他人の幸せを祝う春」でも書いているように、地域ユニオン(自由加盟の労働組合)に駆け込んできた26歳の若者の生活保護受給支援などの活動も続けてきた。少なくとも、障害者への差別意識は持っていないつもりだ。

この若者を就労支援施設にあっせんする過程で、最近の障害者の就労支援に関する状況も知ることができた。「障害者であることをカミングアウトすることは、就職活動上の義務ではない。障害者としての自己認識の結果、初めから障害者雇用一本に絞り込むことによって自分の可能性を狭めてしまうのではなく、カミングアウトせずに健常者と同じ雇用形態で自分の可能性を試したいと思っているなら、挑戦してかまわない」とアドバイスしている就労支援事業所が多いことを知ったのは、この活動を通じてである。

1歳児がいることは承知の上で採用を決めた上司も、精神障害者保健福祉手帳所持者であることは知らなかったという。彼女もまたカミングアウトせずに健常者と同じ雇用形態で自分の可能性を試したいと思って私の職場の採用試験に応募したのだろう。

ただ、1歳児の育児をしながらフルタイムの雇用形態で働くことは、健常者でも難しい。精神障害者保健福祉手帳を所持する人にとって、無謀な挑戦だったように私には思える。さすがに、彼女自身もそのことを悟ったようで、4月から採用される新しい職場では障害者雇用枠での扱いになるという。

本人にそのことを告げられたとき、課長は驚いて頭を抱えたというが、私は驚きながらもこのような結末になるのではないかという予感は、2月に入る頃からあった。さすがに「カミングアウトしていない精神障害者」という展開は予測できなかったものの、不安定な出勤状況や「今後、この仕事を続けていく自信がない」等の発言から、4月以降はどうなるかわからないな、という予感めいたものは薄々出てきていたのも事実だ。

本人には「自分に合った働き方を見つけたのであれば、それはいいこと。新しい職場で、自分の心身の状態と、今後の社会人としての未来、可能性とのバランスを上手く取りながら、進んでほしい」と無難にアドバイスした。

結果的に、4~5月の間、期待していた彼女は去り、育休中の社員も復帰しないまま、最も忙しい新年度を欠員で迎えることになる。現場業務を行う別の課でも、3月いっぱいで辞める臨時社員の後任者をハローワークで募集しているが、現在まで応募がないまま。こちらも欠員のまま4月を迎える公算が強まっている。

ここ数年、日本社会全体で人手不足が報道されてきた。私自身はこれまで他人事だと思っている部分もあったが、いよいよ私とその周辺にも影響が及んできたことになる。当ブログをいつも見に来てくれる非正規労働者の方のように、雇用形態としては本来、不安定な非正規であっても、ある程度長期間(数年以上)勤務し、業務にも熟練しているため代替が難しく、経営側が容易に解雇できない状況になっている労働者を、期間の定めのない正社員とまとめて「長期安定雇用グループ」に含めると、ここ数年来の日本の雇用状況は「長期安定雇用グループ」と、主婦・学生・シニアを中心とした「スキマバイト」「スポットワーク」と呼ばれる超短期間雇用に二極化しつつあるように思える。

両者のちょうど中間に位置し、これまで経営者から「雇用の調整弁」として扱われてきた数か月から数年単位での労働者を確保することが、著しく困難になってきている。「冬季だけの除雪作業員」「夏場だけの観光地での接客業務」「育休、病休者の代替要員」(数か月~1年程度)といった求人への応募が極端に少なくなっており、ここを埋めてくれる人材は、彼女のような精神障害者に至るまで奪い合いの状況になっている。

逆に「イベント期間中、3日間だけの応援」とか「クリスマス期間中だけの臨時菓子店員」といったスキマバイト、スポットワークには応募が殺到している現実もあるのだ。

4~5月の2か月だけ要員を採用する手もないわけでもないが、そんな短期間の求人に応募する人材が現れるとは思えないし、たとえ採用できても業務を教える間もなく終わってしまう。どう見ても「欠員のまま、残った人が残業で回す」以上の妙案は思い浮かばず、150%そうなるだろう。考えるだけで憂鬱な春である。

ここ数年は、向かい側の席に座っている社員が、アルコール依存でたびたび欠勤する人だったり、彼女のようにやる気はあってもメンタルがついて来ず、やはり休みがちだったりと安定しない状況が続いている。優秀な人事評価を得られているわけでもなく、普通に過ぎない自分自身を、私はこれまでたいしたことがないとずっと思っていた。だが、このような状況が長く続くと事態は根本的に変わる。「毎日きちんと定時出社して退社時間まで勤務を続けられる」「ルーチンワークを問題なくこなせる」という当たり前のことが価値を持つようになるのだ。少なくとも、私が上層部、管理職の立場であれば、働きぶりは人並みに過ぎなくても「先の見通しが立てやすい」社員に対しては、それだけでありがたいと思うだろう。

正直、5年くらい前までの私は、「偉くもなれず、若くもない」自分のような社員は、真っ先に早期退職制度(45歳以上が対象)の適用対象者になるのでは・・・という不安が頭から離れなかった。だが今の私にそのような不安はない。同期はみんな管理職昇任しているとはいえ、「歩のない将棋は負け将棋」(「歩」北島三郎)という昔の歌にあるように、どんな組織も兵隊がいなければ戦えないし、周囲の状況を見ていると、私は「歩」「兵隊」としてはかなり強い位置にいる。

4~5月は例年と比べ、3人いるはずの課を2人で回さなければならないのだから、忙しさ1.5倍の状況になること必至だが、このような全体状況と自分の立ち位置を考えると、まぁ良しとしよう。上層部、管理職にとって私が「先の見通しが立つ、使いやすくてそれなりに強い兵隊」としての価値を持っているならば、当面はそのような形で使われておくのが最も適切な生き残り策であることは間違いないのだ。

そういうわけで、北海道からの発信13年目になる当ブログに、引き続きご助言、ご鞭撻をお願いしたい。

歩/北島三郎


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日本社会の縮図だった同窓会と、私の「これから」

2025-01-12 12:06:18 | 日記

ここ数年来、生活パターンが日頃と変わる年末年始になると、自分自身の精神状態の悪さや迷走を象徴するような夢を見ることが多かったが、昨年末から昨日に至るまでは、そのような夢は見ていない。睡眠が浅くなるのは例年通りだが、見る気配も今までのところはない。昨年10月12日付け記事で述べたとおり、少なくともここ数年では、私の精神状態は最も安定している。

1月8日付け記事で紹介した正月の同窓会の余韻は、まだ残っている。同期が440人もいれば、その中に1人くらい社長とか部長といった肩書きを持つ人がいるものだと思っていた。そんな人がいれば当然、話題に上るはずだが、出ないまま終わった。そんな人はいないということだろう。

S社のトラック運転手だったMくんは、高校時代、生徒会役員をしており、休み時間はほとんど教室にいなかった記憶がある。私から見れば、眩しく輝ける「リア充」そのものだったMくんより、「帰宅部」で協調性にも劣り、「非リア」で輝いていなかった私のポジションのほうが上だったことを心苦しく思うと同時に、「就職氷河期世代、報われていないな」という率直な感想を抱いた。

同期の「出世頭」が女性のRさんだったことに関しては、2通りの解釈が可能だと思う。ひとつは、ジェンダー・ギャップ縮小に向け、私が想像しているより早く時代が進んでいるということである。この解釈通りなら日本にも希望はある。もうひとつは、私の世代が「就職氷河期」の入口に当たったため、通常なら出世で有利なはずの男子生徒の多くが正規職に就けなかった結果が影響している可能性があるということである。

どちらの影響がより大きいかを判断する材料を私は持ち合わせていないので、私の下級生を含めた分析が必要だと思うものの、この点に関して個人ブログで優れた分析をしている記事がある。最近は影を潜めたが、かつて社会派ブロガーと呼ばれ一世を風靡したChikirinさんのブログ「Chikirinの日記」2008年8月3日付け記事「正社員ポジションはどこへ?」だ。16年半も前に書かれたものだが、さすがはマッキンゼー社で経営コンサルタントを長く務めただけのことはあり、分析はしっかりしている(私はコンサルタント自体「虚業」「ブルシット・ジョブ」だと思っているからあまり信用していないが)。

正社員の数は1987年から2007年までの20年間でほとんど変わっていないが、非正規雇用が1000万人近く増えたことがデータで示されている。増えた1000万人のほとんどが女性と高齢者だが、一方で、正社員のポストの多くを占めているのが、この記事で引用されているデータ(2007年)の時点で55歳以上だった世代である。この世代は1952年より前に生まれているので、最も若い人でも72歳。完全引退ではないとしても、社会の第一線からはすでに退いている。

正社員の数自体は変わっていないのだから、この世代が手放した正社員ポストは誰か別の人に渡ったことになる。Chikirinさんは、この後のデータや分析を示していないので断定はできない。だが「(2007年当時で)35歳以下、つまり1972年以降生まれの世代では女性が男性を圧倒している」という分析から考えると、1952年以前生まれの人たちが手放すことで空いた正社員ポジションの多くに、1972年以降生まれ世代の女性が座ったという推定が成り立つ。私の同期生は全員が1970~71年生まれで、Chikirinさんが「女性が男性を圧倒」していると分析した世代の入口に当たる。

この分析結果は、私の同期の出世頭が女性のRさんだったという事実と整合性を持つ。Rさんの存在は、これからの時代を占う上でひとつのシンボルかもしれない--Chikirinさんの16年半も前の記事が、そのようなヒントを与えてくれたのである。

   ◇    ◇    ◇

50代の「偉くなれなかった人」は、何を考えて働き、生きているのか?」(Fujiponさんのブログ「いつか電池が切れるまで」2021年8月31日付け記事)を読んで、大変共感を覚えた。こちらも4年半も前の記事だが、『(経営層、管理職になる人たちは)20代、せめて30代前半の頃から、そのための準備を積み上げてきていた』のに対し、Fujiponさんは『言われたところに行き、与えられた仕事をやって、それなりの給料をもらって生きる、賞罰なしの人生』だったと自分の半生を振り返りつつ『そういう人生だったから、ぶっ壊れずに生きてこられたのか、もうちょっとやれたのかは、自分でもわかりません。振り返ることはあっても、過剰に後悔はしない。これもまた、50年生きて身に付けた処世術なのでしょう』と述べている。まさに私の人生をトレースしたような内容である。

Fujiponさんは『”誰でもできそうだが、誰かがやらなければならない仕事”を誰かがやっていることによって、(最前線にいる人が)そこでしかできない仕事に集中できる、というのも実感しています』とした上で、そのような自分の仕事を「雪かき」に例えている。こうした実感も、最近の私と大変よく似ている。

Fujiponさんは医者で、私は企業の事務職という違いはあるが、どこの職場も基本構造は同じである。「人事評価では決して評価対象にはならないけれど、誰かがやらなければならない仕事」というものが、職場にも、そして社会にもある。

私の場合、ICT関連業務というのもこれに含まれる。誰の担当でもないので、やらないでおこうと思えばそれですんでしまうはずなのだが、Windows95が発売され一大ブームを起こしてから、今年でちょうど30年。ネット黎明期からずっとコンピューターに親しみ続け、たいていのトラブルを経験してきている私は、誰にも話していないはずなのに(私より明らかに詳しい人物が1名いるため)「職場で2番目にICTに詳しい人物」とされ、ことあるごとに相談が持ちかけられる。

システム開発といったような、システム部門に身を置いていれば当然、評価対象になるような仕事と異なり、「共有サーバーから警報音がして、エラーが出てるんだけど、誰かわかる人いる?」「昨日までログインできていたのに、なんで私だけ今日、急にログインできなくなったの? 誰か助けて」といった類の、いわゆる「ICT雑用」である。放置もできないので、自分の本業によほどの緊急性がない限り、放り出してまで対応に当たるが、こうしたことが評価対象になることはない。

ゴミ出しや、清掃業者が入らない更衣室内のトイレ掃除、庶務担当者が育児休業で長く休んでいるので、その人の代わりに郵便物を取りに行く仕事など、山ほど雑用がある。これらも当然、評価対象になることはない。しかし、だからといって誰もやらなければ、警報音は鳴りっぱなしのまま、コピー機の用紙は切れ、ゴミも山積みになったまま職場はカオスになってしまう。

こうした仕事に対しては、最近の若手社員にも言いたいことがある。生まれた時から新自由主義しか知らないせいか、コスパ、タイパの面で見て「割に合わない」仕事をなかなかやろうとしないことである。評価対象になる仕事には熱心に取り組むが、評価対象にならない仕事には「誰かがそのうちやるだろう」と思っている節がある。私の新人時代のように「新人は誰よりも先に出社して、全員の机を雑巾で拭き、お茶を入れろ」などと指導すれば、今の時代は「不適切にもほどがある」事例に一発認定されてしまう。しかし、30年後の今、思えばそれは「評価につながらなくても、誰かがやらなければならない仕事があるのだ」という職場、社会全体の基本構造を教えてくれる、諸先輩方からのありがたい「通過儀礼」だったのだ。

正直に告白すると、前述したような仕事は、少し前までは、50歳を過ぎた自分がやるようなことではないと思っていた時期もある。しかし、最近はそうした仕事にこそ最も喜びを感じるようになった。経営層や管理職には、部下からの相談に乗り、メンバーが働きやすくなるよう職場環境を整えること(いわゆるマネジメント)や、重要な判断、決断を下すという任務がある。彼らが、係長や平社員がやるような雑事、雑用に追われていては適切な判断、決断に支障を来す場合がある。

花形部署で看板業務をしている人たちも「その人たちでなければ果たせない役割」があるので、経営層や管理職と同様、それ以外の雑事、雑用からは(全面的にではないとしても)ある程度、解放される必要がある。

そうなると、経営層や管理職、花形部署で看板業務をしている人たちの手を離れたとはいえ「評価対象にならなくても、職場・社会のために誰かがやらなければならない仕事」は誰が引き受けるべきか、という問題が残る。業者委託などアウトソーシングすることで、日本の企業・組織は20年以上続いた「人余り・リストラ・デフレ」時代を生き抜いてきたが、「人手不足・インフレ」に逆転した日本社会ではそのような手法も次第に難しくなってきた。アウトソーシングに限界が近づいてきたのである。

花形部署で看板業務にも就いておらず、管理職レースからも外れた私のような人間こそ、こうした仕事を引き受けるのに最もふさわしい。そのことに気づき、いわば「悟りを開いた」のが昨年秋のことだった。迷走していた私の精神状態が急速に回復してきたのもちょうどその時期のことである。

さらに言えば、私が労働組合役員を長く続ける中で、自然に身につけた「作法」がある。若手社員から出た疑問・不満などを決して放置せず、必ず責任ある部署に取り次ぐということである。

最近起きた例でいうと、「業務中、着用が義務づけられている制服なのに、なぜ経費でクリーニングをしてもらえないのか。一緒に仕事をしている他社の社員は経費でクリーニングをしてもらえるのに、納得できない」というものだった。私は、要求として当然の内容と判断し、昨年秋、全国課長会議で議題にしてもらえるよう現場部門の課長に掛け合ったが「その話は数年前にも出されており、すでに(経費では出せないことで)決着ずみ」だと言われ、取りつく島もなかった。

しかし、これぐらいで投げ出す私ではない。来月に全国支所長会議が開催されるので、今度は「所長会議案件」として議題にしてもらえるよう準備を進めている。もし、所長会議でも結論が「ノー」なら、次は労働組合として正式に職場要求を提出し、労使交渉に持ち込む。私が今、描いている青写真である。

若手社員には「将来」がある。「お前、そんな言動を取っていたら、将来、出世できなくなるぞ」という「脅し」は、将来ある若手社員には効果がある。こうして、言いたいことがあるのに怖くて言えないというムードがまん延してくる。しかし、管理職レースからもすでに外れ、将来も残っていない私にそのような「脅し」は意味がない。「今さら出世などできるチャンスもないですし、したいとも思いませんが、今、何か仰いましたか?」と返しておけばいい。

このことに気づいたのも昨年秋頃のことである。「若手社員にとっては怖くて上に言えないことでも、恐れず言える無敵の人」という武器が私にはある。「若手社員を守る『盾』に、自分がなればいいんだ」と役割に気づいた瞬間、スーッと悩みが消えていくのがわかったのである。

50歳を過ぎても非管理職のまま、若い頃のような体力もフットワークの軽さも失ってしまった私のような人間に、職場で生き残る道はあるか。結論から言えば、ある。

1.評価の対象とはならないが、職場のため、社会全体のために誰かがやらなければならない業務を積極的に引き受ける。

2.非管理職のままでも、20代から50代までに蓄積してきた経験がある。経験の浅い若手社員がやるには骨が折れる「緊急度、重要度は高くないが、難易度がやや高め」な仕事を、蓄積してきた経験で確実に結果につなげる。

3.「無敵の人」の立場を活かして、若手社員の上層部に対する疑問・不満の「受け皿」になる。

4.得意分野、専門分野がある場合、それを活かす。私の場合は、ICTの知識や文章能力など。

この数年間は、自分の進む道が見えず、本当に苦しかった。だが、こうした道で頑張ればいいと悟りを開いたら精神面での不安はなくなった。

もうひとつ重要なことがある。子どもの頃から「長」のつく仕事など一度も経験したことがなく、管理職にまったく向いていない私に無理やり管理職への希望を書かせた前任の課長など何名かの人たちが「60歳になったら、役職定年で管理職を降りなければならず、賃金もほぼ半分になる。どうしよう」という話ばかりしているのを聞き、滑稽に思えた。初めから役職に就かなかった私にはする必要のない心配だからである。

高校野球の地方予選を初戦で敗退したある球児が「全国で一番早く、来年に向けたスタートを切れます」とインタビューに答えているのを、「切り替えが早いな」と冷めた目で見ていた時期もある。しかし、今こそ彼のその無邪気なポジティブさに学ぶべきだと思う。「管理職になった同期より5年以上早く役職定年後に向けたスタートができる」と発想を切り替えてみると、気持ちが軽くなった(ちなみに、上で挙げた4項目は、そのまま役職定年後に求められるスキルでもある)。同窓会でかつての級友たちと旧交を温めたこともあり、2025年の新年は、私としては久しぶりに晴れ晴れしている。


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高校の同窓会に参加してわかった私の「現在地」

2025-01-08 23:56:33 | 日記

年末年始、帰省していた九州で、県立高校の同窓会(同期生のみ)に初めて出席した。出席の意思は前からあったが、仕事で1998年4月に地元を離れて早くも26年。高校全体の同窓会は毎年、お盆に合わせた8月に開催されるが、同窓会のためだけに帰省するわけにもいかず、これまで出席したくてもできないでいた。それが昨年7月に来た案内によれば、年始に同期生だけの同窓会が開催されるという。

高校を卒業したのは昭和が平成に変わった年だった。その平成もいつの間にか終わり、同級生に会う機会はほとんどないまま、気づけば35年もの長い年月が過ぎていた。

1985年に「卒業」というタイトルの歌が3曲出た。尾崎豊さん、斉藤由貴さん、菊池桃子さんがそれぞれ歌うメロディーも歌詞もまったく別の3曲で、私はどれも気に入っているが、そのうち斉藤由貴さんの「卒業」にこんな一節がある。『卒業しても友だちね/それは嘘では無いけれど/でも 過ぎる季節に流されて/逢えないことも知っている』

この歌詞の持つ意味は、卒業直後には多分、わからない。「みんな地元にいるんだし、会おうと思えばいつでもできる」と、卒業証書を持って最後に校門を出たときは誰もが思っている。だが、それぞれが別の進路を歩み、別の人生を刻んでいくにつれ、この歌詞の内容が徐々にその輪郭を表し、私たちの前で深く重い意味を持つようになる。

   ◇    ◇    ◇

卒業後に会った高校当時の同級生は、たった2人しかいない。ひとりは、高校1年当時、同じクラスにいた個性的な女子・Nさん。おしゃべり好きで、話し始めるととにかく長い。しかも談笑するとき、いつも(椅子ではなく)机に座っていたので強く印象に残っている。話しかける相手はある程度決まっているらしく、私はその中に入っていなかった(要するに相手にされていなかった)。2年になって別のクラスに分かれたが、ある日、たまたまNさんのクラスの前を通りかかると、そこでも机の上に座って談笑していた。

大学進学後のバイト先の店に、メーカーからの試食販売要員として来店したときに偶然会い、セール期間中の2日間だけ一緒に働いた。休憩時間に「高校時代の私、どういう印象だった?」と聞かれたときはどう答えていいかわからず困った。「普通だったけど」と無難に答えたことを思い出す。卒業してまだ数年で、思い出話に浸るには早すぎる時期だった。

もうひとりが、当ブログ2024年3月30日付け記事「路傍の雪が溶け、他人の幸せを祝う春」にご登場いただいた課長補佐の女性、Rさん。高校2~3年で同じクラスだったが、タイプはNさんとは正反対。派手さはないが、みんなでやろうと決めたことは、困難に直面しても最後まできちんとやり遂げる。それだけに、課長補佐への昇進は私から見ても納得の人事といえる。

結局、卒業後の35年で1回でも会えたのはこの2人だけ。これ以外の同級生の消息は、同窓会会員名簿掲載の情報で断片的に知るのみだった。

それなのに、同窓会に参加してみようと思い立ったのにはいくつか理由がある。ひとつは、同級生たちが35年の時を経てどのように変わったのか(あるいは変わっていないのか)を見たいという興味と、怖い物見たさ。もうひとつが、自分がそれなりに精いっぱい生きてきて、一定の立ち位置も得ているので、元同級生たちの前に出ることにあまり恐れを感じなかったことにある。

同窓会に出席するかどうかをめぐっては、大きく3つくらいの立場に分かれると私は思っている。第1は人生に成功している(と自分で思っている)人たち。多くは地元に残って高校時代からの人間関係をも活かしてポジションを確立している。同窓会には毎回のように出席しており、幹事や世話役などを務めるのもたいていこういう人たちである。

第2は、消息は知れているものの、決して参加してこない人たちである。人生に成功していないか、成功しすぎて地元に帰る暇もないかの両極端であることが多い。そして第3は消息不明の人たちである。同窓会に出席することはまずない。

   ◇    ◇    ◇

同窓会には70人ほどが集まった。今の若い世代には信じられないかもしれないが、私の高校時代(昭和末期)は40人×11クラスで同級生が440人もいた。この日、会場に来たのは約6人に1人ということになる。

先生方は4人が参加された。当時の指導法に対しては賛否両論あると思うが、今の時代なら「不適切にもほどがある」と言われるようなことであっても、その指導のおかげで困難に立ち向かう力がついた。あの頃があったから今があることも一面では事実なのだ。親からも教師からも大切に、丁寧にと育てられた今の若者世代は、私たちのような「困難に立ち向かう力」を本当に身につけられているのだろうか--先生方と昔話や近況に花を咲かせながら、ふと、そんなことも思った。

だが、私たちの世代も、上の世代からは「最近の若い者は」と言われながら育ったが、何とか持ちこたえている。私たちが心配するほど若者世代はひ弱ではなく、これからの時代にふさわしい、彼ら彼女らのやり方で道を開いていくのだと信じたい。

先生方からは「社会の第一線で活躍しているみなさんを見て、とても嬉しく思っています」という言葉もいただいた。もちろん、好きこのんでこの会場まで来ているのは、人生に成功している(と自分で思っている)人たちばかりなのだから当然だろう。だがこの会場の外には、第2カテゴリーの人(消息は知れているものの、決して参加してこない人)や第3カテゴリーの人(消息不明)がたくさんいることも、決して忘れるべきではない。

当ブログ2024年2月14日付け記事「年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味」で紹介したT先生は欠席だったが、幹事からメッセージが紹介された。自分でさえ気づいていなかった私の能力を見抜き、開花させてくださったT先生への恩は今なお忘れない。

会場に来ていた人は、高校教師になっている人、S社のトラック運転手をしている人などさまざまな職業の人がいた。地元に残っている女性は、臨床検査技師、看護師など医療系の職業の人が多かった。地方公務員(地元市役所職員)もいた。

総じて、地方では女性が「誰かのケアをする職業や立場」に就くことに期待する暗黙の空気がある。日本国憲法では法の下の平等が謳われ、男女差別はないことになっており、表向き、法制度上の差別は(女性天皇が認められていないことを除けば)すでにない。だが、こうした「特定の役割に対する暗黙の期待」こそが、アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)として日本のジェンダー・ギャップ指数を下げる要因になっていることも、「元クラスメートだった女子」のその後の進路から垣間見えるのである。

私が2~3年生の時に所属していた文系特進クラスからの参加者は少なかったが、世話役の人によれば、今回に限らず毎回のことだという。特進クラスの人でたまたま、同じテーブル付近に集まったわずかな時間に「うちのクラスの卒業生は地元に残っていない人が多いよね」という話が出て、一同納得の様子だった。

私と同じ職場にいるRさんも全国転勤が前提だが、育児のことを考え転勤を緩和してもらっていた時期がある。それでも九州全域で広域転勤をしてきた。首都圏で高校教師をしている人もいて、地元残留組が中心になりやすい同窓会のシステムは、全国や世界を股にかけて活躍している人向けにはできていない。生まれ育った地元で人生を終えるマイルドヤンキーの、マイルドヤンキーによる、マイルドヤンキーのためのシステム--それが同窓会である(同窓会がしばしば選挙で集票マシーンとして機能するのも、結局は「地縁」組織だからである)。

私が卒業後に会った2人の同級生--Rさん、Nさんはこの日は欠席だった。2人とも、同窓会会員名簿で「消息不明」として扱われている。だがRさんは私と同じ職場であり、他にも現状を知っている人がいるため、ここでは第3カテゴリーの人には含めず、第2カテゴリーの人に分類する。Nさんの消息はわからず、この日の会場でも、私の知る限り話題になっていなかった。

3年間、一度も同じクラスになったことのない女子が、初参加の私を見て「あ、特進クラスにいた○○くん(私の本名)だ」と話しかけてきた。「私たちがどんなに頑張っても、特進クラスの人には絶対にかなわなかったんだよね」と言われた。高校生の頃は、特進クラスというだけでそんなに注目されているとは思っていなかった。見られていることの恐ろしさを感じた。

   ◇    ◇    ◇

こうして、私が出席した初の同窓会は幕を閉じた。総じて、この日、会場に来ている人からは、同窓会に来られる人--つまり、人生に成功している(と自分で思っている)人に共通する傾向のようなものも見えた。平たくいえば、学業成績よりもコミュニケーション能力、つまり社交的で他人との意思疎通がきちんとできていた人が多いと感じた。高校時代に寡黙だったり、変人と言われていた人はほとんどおらず、逆に、癖が少なく交友関係の広かった人が多かったのは、自分の予想通りだった。

35年間のブランクはあっという間に埋まり、2時間の会は瞬く間に終わった。まったく話し足りないと感じた。私が聞いている限り、昔話よりは近況を話している人のほうが圧倒的に多かったが、これも人生に成功している(と自分で思っている)人たちの集まる場なのだから仕方ないと思う。

他人と自分を比較することは好きではないし、「自分にはこんな得意分野があるのだから、他人と自分を比べる必要はないと思えるようになり、気持ちが楽」(上でご紹介した当ブログ2024年2月14日付け記事)になって以降、私はあえて他人と自分を「比べない」人生を選択してきた。ここまで人生を無事にやってこられたのがそのおかげであることも間違いない。

だが、いくら他人と自分を比較せず独自の人生を歩んできたとはいえ、どこかで自分の客観的な立ち位置--社会の中で今、自分がどこにいるのかを定点観測しなければ道に迷うことがある。目的地までの地図があっても、自分の現在位置がどこかわからなければ旅を続けられないのと同じだ。同窓会--その中でも、成績も生活態度も同程度の人が集まっていた高校の同窓会はその格好の舞台である。そこで観測した自分の位置が、自分が考えていたほど悪くないということを確認できただけでも、出席した意味があったと思っている。

Rさんほど粘り強くもなく、メンタルも安定していない私が、Rさんのようになれるかはわからない。高校時代、まったくかなわなかったRさんに追いつく自信は持てない。だがこの日、会場に来ていた同級生の立ち位置と自分の立ち位置を照らし合わせると、それ自体、私にとって高望みが過ぎると言うべきだろう。S社のトラック運転手になっていたMくんにRさんの現状を話すと「間違いなく、女子では一番出世してるよ」という答えが返ってきた。

そもそも私たちは就職氷河期まっただ中の世代に当たる。管理職以前に正社員の職にさえ就けない人が多かった。この日の会場を見渡すと、女子はもちろん、男子でもRさん以上の役職に就いている人はいない感じだった。私は、同級生の「出世頭」が特進クラスの人であってほしいと願っていた。結果としてその通りになっていたが、出世頭が女子の中から出るとは意外だった。ジェンダー・ギャップ縮小に向け、時代は私が想像しているより早く進んでいるとの確信を持った。

同窓会には、今後も機会があれば出席したい。特に、T先生が存命のうちにお礼を申し上げることは私にとって義務だと思う。それを実現させることも、私の「中長期目標」に加えておきたい。


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【新年ご挨拶】2025新年のご挨拶を申し上げます

2025-01-02 14:55:23 | 日記
1月2日もすでに昼過ぎになりましたが、ここで管理人から新年のご挨拶を申し上げます。
2025年をひとことで言うと「節目」だと思います。元日の地方紙の紙面でも特集されている戦後80年であることはもちろんですが、この年明け早々、1月17日には、1995年の阪神・淡路大震災から30年を迎えます。
さらに、安全問題研究会が取り組んでいる課題としては、1985年の日航123便墜落事故から40年、2005年のJR福知山線脱線事故から20年を迎えます。当研究会として、2025年はかなり忙しくなることを覚悟しています。
「節目」として、日本がとかくおろそかにしがちな「過去の検証」をきちんとするべき年です。これをきちんとしない限り、日本の復活はないので、しっかりやるつもりです。
そういうわけで、今年も安全問題研究会をよろしくお願いいたします。
なお、新年目標は後日改めて発表します。

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【年末ご挨拶】今年も1年、お世話になりました

2024-12-31 21:19:59 | 日記

鉄道全線完乗実績まとめ、20大ニュースの発表に加え、3・11以降、私にとって大晦日の恒例行事となった全交関電前プロジェクトによる関西電力前大晦日行動へのリモート出演(メッセージ)も終わり、ようやく年末という気分になってきました。

2024年もあと3時間足らずになりましたので、ここで年末のご挨拶を申し上げます。2024年に起きた出来事の評価は後世に委ねたいと思いますが、特に公共交通分野に関しては、新年早々、羽田事故が起き、年末にも韓国・チェジュ航空機の着陸失敗事故が起きるなど、騒々しい1年だったと思います。これに伴い、安全問題研究会としても、非常に充実しながらも忙しい1年でした。

個人的には、昨年の著書発行に続き、2024年も月刊「日本の科学者」に拙稿が掲載されるなど充実した1年だったと思います。ただ、仕事・私生活面では、将来に向けた迷いが生じ、揺れ動いた1年でもありました。

間もなく新しい年となります。みなさま、よいお年をお迎えください。


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輝く季節の中で夢は藍く染まるだろう 失うものは何ひとつない 愛さえあれば(FIELD OF VIEWの曲の歌詞より)

2024-10-17 20:12:41 | 日記

閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事(6月2日付け記事)を書いてから、早いもので4か月。まだ先のことと思っていた人事上の希望を書く時期が、いよいよ来た。

『毎年秋に、人事上の希望を書いて出せる制度が職場にはある。秋までの半年で私の気持ちが変化するかどうかは見通せないが、件の課長が異動してしまったこともあり、気持ちは変わらない可能性が高い』と、この記事の中で私は述べた。

結論から言えば、気持ちはほとんど変わらなかった。昨年秋に希望を出す際、課長に強く勧められて(と言えば聞こえはいいが、要は無理やり)管理職を目指したいなどという、およそ本心からかけ離れたことを書いたが、この部分は熟慮した結果、今年の希望からは削ることにした。

6月2日付の記事では『課長が組織内派閥抗争の「駒」とする目的で、私自身は望んでもいない管理職レースに勝手に乗せたということに気づき、私も大きく傷ついた。管理職への忌避感情はより一層強まり、「仮に打診されても絶対に受けるか」と今は思っている』と書いた。苦手で大嫌いな社内政治からは距離を置いて「派閥は作らず、加わらない」「主流派には乗らない」という自分の職業上の信条も、6月の時点から、というより社会に出てから30年、まったく変わっていない。

「キミも出世したいなら、いい意味での『欲』は持ち、仲間も増やしたほうがいい」と親切に「助言」してくれる先輩もいたが、私は結局その通りにはしなかった。「派閥」「ムラ」などと呼ばれる閉鎖的な権力集団/利権集団には大きな副作用も伴う。その副作用が効能を超えたとき、「派閥」「ムラ」は批判を浴びる。それまで仲間を増やし、膨張していく求心力だったものが、仲間が離れ、解体していく遠心力に変わる。そのとき、もともと群れにいなかった「無派閥の人」に突如としてスポットライトが当たる瞬間がある。

少し前まで行われていた自民党総裁選がその典型だと思う。派閥解体という「遠心効果」なくして「孤高の人」石破茂氏が脚光を浴びることは、おそらくなかっただろう。私はずっと自民党を批判してきたし、石破首相の政治スタイルにも批判的だが、それとは別次元の問題として、総裁選が織りなす「筋書きのないドラマ」には、自民党に対する反対者さえも引きつける魔力(魅力ではない)がある。職場ではすでに管理職候補でなくなりつつある私に、もしスポットライトが当たる瞬間があるとしたら、石破首相のようなケースしかあり得ないだろう。

ただ、そのような形で管理職の座をつかんだとして、そんな私の下でまとまるチームが果たしてあるだろうか。「あいつは管理職の器でもないのに、まぐれ、『棚ぼた』で管理職になった」と思われたら、上司としての求心力などとても持てないだろう。そう考えると、私にとって管理職はやはり、割に合わない罰ゲームという以外に表現のしようがない。

先日の記事でも述べたように、9月に受けた研修で自分のプレゼンした業務効率化提案が即、採用となった。どのような立場であっても、自分にはまだやれることがあるし、やるべきこともあると思いを改めた。ただしそれは「現場で最強の兵隊となる」という意味でのモチベーションである。自分から管理職を望むことは、今年も来年以降も絶対にないが、同年代の多くの人がやっている管理職を私はやらない以上、現場仕事に関しては誰にも負けないようにする必要がある。

   ◇   ◇   ◇

不思議なもので、50歳を過ぎて経験を積んでくると、非管理職であっても、若手社員から、ふとしたことがきっかけで悩みを打ち明けられる場面が増えてくる。「上司(係長)がメンタル不調で休んでおきながら、自分の都合で復帰したいときにしてくるので、振り回されて疲れた」という相談を、実は今日も受けた。本人も、やりたい仕事があって専門学校を卒業したのに、夢破れ、私の会社の障害者雇用枠で採用された人物である。普通の人ならここまでの心配はしないが、障害者雇用枠での採用者だけに、上司がこんな気まぐれを続けた結果、本人まで潰してしまうことになりかねない。私としては、労働組合執行委員としての立場もあり、放置するわけにいかない。近々、何らかの措置を講じてもらうよう、上層部に働きかけるつもりでいる。

「2か月に1回、順番が回ってくる1人勤務の時に、誰にも相談できなくて辛い」という採用3年目の女性社員から相談を受けたこともある。「10年の経験を持つ人でも、1人勤務でつまずくケースを何度も見てきた中で、採用3年目で、ミスらしいミスもせず1人勤務をこなした人は、まったくいないわけではないけど、誰にでもできることでもないと思うよ。あなたの課の課長は滅多に人を褒めないけど、私は、褒めるに十分値すると思う」と励ますと、明るい表情に変わった。

「社内手続をめぐって、総務担当者に強い口調で言われ、心が折れそう」という入社5年目の女性社員からの悩みを打ち明けられたこともある。たまたまその総務担当者が、かつて私の部下だった女性事務職で、気心が知れている相手だったこともあり、「彼女には優しくしてやってよ」とお願いして、このときは収めた。

私がパソコンなどのIT関係に詳しいことは、隠しているはずなのになぜかみんなが知っていて、PC操作などについての頼み事もしばしば受ける。若手の中には、スマホ操作には詳しいがPCに触れることがないまま社会に出てくる人もいて、下手をすると私の方がPCに詳しいこともあり、細々した依頼事は日常茶飯事である。

最初に紹介した「1人勤務の孤独」を訴えてきた人に、どうして相談相手が直属の上司ではなく私なのかと聞いたことがある。「直属の上司には言いにくいし、○○さん(←私の本名)なら、偉くない割に知識が豊富だし、労働組合役員とか、自分の得にもならない面倒なことも引き受けていて、頼れそうだから」が彼女の答えだった。「偉くない割に」というのが引っかかる言い方だが、非管理職の自分にそんな需要があるとは正直、思っていなかった。

他人の見ていないところで、若手社員の「誰にも言えない相談」に乗ることは、今となっては私の仕事の一部のようになっている。だからこそ、もう少し自分にも頑張ってみる価値があると今では思っている。

今回もまた、私が落ち込んだときによく聴いている曲を紹介しよう。

1曲目は「君がいたから」(FIELD OF VIEW)。1995年に放送されたドラマ「輝く季節(とき)の中で」の主題歌に使われた曲である。「私の使命は医師を育てるのではなく、なる資格のない者を排除すること」だと公言する厳格な医学部教授役に長塚京三さんを配し、医学部生に中居正広さんなどが起用されて話題となった。『輝く季節の中で 夢は藍(あお)く染まるだろう 失うものは何ひとつない 愛さえあれば』という歌詞を聴くと、ふと、涙することもある名曲。作詞を担当し、希有な才能を持っていた坂井泉水さん(ZARD)が早世したことが、残念でならない。

2曲目は、「My Will ~世界は変えられなくても~」(大黒摩季さん)。こちらもドラマ「科捜研の女」のテーマソングに使われた曲。『世界は変えられなくても 未来は変えて行ける』『誰かと比べなければ この人生も悪くない/欲しいものはあっても 奪ってまではいらない/不器用でも自分らしく 歩いてゆく』という歌詞には、多くを望まず、精いっぱい今日を生きようと思わせてくれる力があって、今の私に合っている。気が向いた方は、ぜひ聴いてみて欲しい。

君がいたから [FIELD OF VIEW 1st シングル]

My Will ~世界は変えられなくても~/大黒摩季


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天高く、復調の秋

2024-10-12 23:15:28 | 日記

ここ10年ほどの日本列島は、1年の半分が夏という状況になり、明らかに熱帯化している。フィリピン沖より北の海域では発生することがないとされていた熱帯低気圧が、今年は日本近海で相次いで発生するという、気象学の常識を覆す出来事も起きた。

そんなしぶとかった猛暑もいつの間にか過ぎ、西日本でもようやく最高気温が30度を切るようになった。ここ北海道では、最低気温はすでに10度を切り、5度を切る日もある。気密性の高い北海道の住宅ではまだストーブを焚くほどではないが、これ以上最低気温が下がると必要も出てくるだろう。この3連休でストーブの準備をするつもりでいる。

さて、読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋などと言われるが、私にとっては「復調の秋」となりそうな気配が濃厚になっている。昨年夏以降、1年以上にわたって続いてきたスランプから脱出の気配……というより、完全に脱出したといえそうだ。それはなにより、最近投稿する文章の好調と、確かな手応えという形で現れている。特に、当ブログ8月23日付記事「じわり広がる「令和の米騒動」 これは日本の「暗い未来予想図」か」と、その続編に当たる9月24日付記事「余波続く「令和の米騒動」 日本の歴史的転機になるかもしれない」には近年にないほど大きな反響があった。

この記事は、もともと「地域と労働運動」誌向けに執筆し、レイバーネット日本に転載したものだが、転載後、右翼と思われる人物から私をライターから解任するようレイバーネットに要求があったという。この不当な要求をレイバーネット日本が拒否したことはいうまでもない。レイバーネットでは、記者を含む「運営委員」は、年に1回、3月に開催される総会で選出されている。死去するか、本人から辞任を申し出ない限り、不当にその地位を奪われることはない。本人の意思に反して運営委員を解任できるのは総会だけと決められているのだ。

スランプが顕在化した昨年夏からしばらくの間、私の書く文章に、支配層・右翼・原発推進派などの「敵対陣営」からでなく、「こちら側」であるはずの運動関係者からクレームが付くということが、立て続けに3度続いた。そのほとんどは、文章全体から見れば些末な部分に過ぎなかった。だが、ただでさえ疲れていたところにこういうことが続いて精神的に嫌になった。3度のクレームのうち2回を占めていた「ある媒体」での休筆を宣言したことは、当ブログ2月14日付記事「年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味」で詳しく述べた。

スランプ期間中、普段あまり書くことのない日記を頻繁に書いてきた。6月2日付記事「閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事」、そして6月10日付記事「Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで(渡辺美里さんの曲の歌詞より)」も、読者からは大きな反響があった。それまでの当ブログは、硬派な政治情勢や運動・闘いの記事を中心に「弱みを見せない」ことを運営方針の中心に据えてきた。それだけに、ほとんど露出することのなかった私の「人間的な悩み」が、リアルで面識のない読者に興味深く、そして割と好意的に読んでいただけたと思っている。

「ある媒体」の編集長からは「とりわけ原発問題に関しては、あなたがいないと紙面が成り立たない」と懇願され、結果的に、以前と同じペースでの執筆はできないとの条件で復帰している。休筆前には、週に2本の記事を書くこともあったが、30代~40代の頃のペースのまま執筆を続けることは、50代という年齢を考えても限界に突き当たっており、見直すいいきっかけになったと思っている。

スランプ脱出への気配をはっきり感じたのは、夏がピークを過ぎる頃だった。自分の書いた文章にキレがかなり戻ってきた。スランプに陥る前のように、ほとんどの原稿が書き直しもなく1回で点検・校正を通過するようになった。「こちら側」からのクレームはなくなり、「令和の米騒動」記事に見られるように、攻撃は再び「敵対陣営」から来るようになった。これは、私の書く文章に、権力・支配層に対する「攻撃力」が戻ってきたことを意味している。

『優れた文章、迫力のある文章には、揚げ足取りのような批評者をねじ伏せるだけの生命力がある。それが長年にわたってライターとして生き残ってきた私の率直な実感である。・・「ある媒体」に復帰するかどうかはもうしばらく様子を見たい。・・以前と同じように、つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信ができたら、それが復帰の時である』

前述した2月14日付記事「年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味」で私はこう述べた。『つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信』が戻って来ている。これが復調の第1の意味である。

     ◇    ◇    ◇

そして、復調を確信させる出来事の2つ目は、9月12~13日に受講した職場の研修(非管理職対象)である。上京し、1泊2日の研修に、全国から20歳代~50歳代まで10人が参加した。「業務上のミス防止」をテーマに、実際のミスの事例を基にした再発防止策を事前にまとめ、当日、プレゼンする。10人の参加者のうち、プレゼンした再発防止策の採用がその場で即、決まったのは私を含め2人だけだった。誰でもできる簡単な内容の割には、業務効率化の効果が見えやすいというのが、私のプレゼンが採用された理由だった。

もっとも、この研修参加者のうち、50代は私1人だけ。他は全員が20代~40代だった。経験年数からいえば、最も長い私がこれくらいの結果は出せて当然で、そうでなければ職場で生き残ること自体、難しい。

私の職場で、定年後の再雇用者を除けば、非管理職の最年長者は別地域にいる50代後半の人だが、その人はアルコール依存傾向が強く、たびたび遅刻している。遅刻せずに通常勤務できている非管理職の中では事実上、私が最年長である。同年齢の人はほぼ全員が管理職になっており、そもそも非管理職向けの研修にこの年で参加していること自体が異例中の異例なのだ。

この先、自分にどんな道が待っているかは、自分が決めることではないだけにまだわからない。だが、上で紹介した6月2日付記事、6月10日付記事で書いたように、私は幼少期から「長」のつく仕事とは無縁の人生を生きてきた。他人と同じことを他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。電気屋のチラシに掲載されている時計の針がすべて10時10分を指していることなど、普通の人はどうでもいいと思って気にしないことが気になり、理由が知りたくて仕方なく、何度も図書館に通い詰めたあげく、最後には時計メーカーに電話までして理由を教えてもらった(そのとき聞いた理由は、こちらに記載されているのと同じ内容だった)。

その一方で、普通の人なら備わっていて当然のことに対する注意力ーー例えば、忘れ物をしない、自分が出した物は元通り片付けるといったことへの注意力ーーは散漫で、明らかに欠けていた。興味・関心・記憶力を向ける対象がはっきり偏っており、「他のクラスメートや、同年代の友達に約束されているであろう『普通の幸せな人生』は、自分にはないかもしれない」と、小学校4年生の時に早くも悟った。

発達障害という概念自体がまだなかった時代だったが、ASD(自閉症スペクトラム障害。少し前まで「アスペルガー障害」と呼ばれていた)のテストを受ければ、該当かグレーゾーンかは別として、「正常ではない」との診断を下される可能性は、今なおあると思っている。だが、そう診断されることが自分にとって幸せかは別問題であり、社会生活を送れている限り、診断を受ける必要はないと考えている。

自分がこの年齢まで生き延びてこられたのは、「全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だという母の言葉を実践してきたからだ。幼稚園の時のマラソンで、下級生にも負け続け卒園までずっとビリなのが嫌で仕方なかった。だが、たとえ勝てなくても、あきらめさえしなければ最後に自分の居場所はできるというのが、半世紀を生きてきた私の人生訓である。

自分ひとりだけ50代で非管理職のままだとしても、そこが自分の居場所なら、逆らわずにそこできちんと結果につなげる。結果につながらないときでも、次につながる何かを残す。今回の研修で、誰が見ても効果がはっきり理解できる業務効率化提案をプレゼンしようと私が決めたのも、そのことが大切だと思ったからである。

     ◇    ◇    ◇

1994年4月に今の職場に勤め始めてから、今年で30年となり、表彰も受けた。

採用辞令を受けたとき、30年勤務の表彰を受ける大先輩の姿を見ながら、あの大先輩たちのように、30年後も私がこの職場に残れているだろうか、と思った。30年後まで残れる可能性は五分五分だというのがそのときの感覚だった。就職氷河期まっただ中、1年就職浪人をしてまでやっとつかんだ正規職の職場であり、「ここまで苦労してつかんだのだから、絶対辞めるものか」という気持ちが半分。残りの半分は「不器用な自分が30年も生き残ることが果たして本当にできるのだろうか」という不安だった。

今振り返ると、30年はあっという間だったような気がする。昨日と今日がまったく同じということはなく、退屈なのではないかと予想していた職場が意外にもそうでなかったことは嬉しい誤算というべきかもしれない。

未熟な自分を温かく見守り、励ましてくれる先輩方がいる一方で、理不尽なことで八つ当たりをしてくる先輩も、自分に非がないとわかっているのに叱ってくる上司も経験した。正直に告白すれば、すべてを捨てて逃げ出したいと思ったことも、この30年で2回ある。だが2回とも優れた上司、先輩に恵まれ何とかやってこられた。

新人時代、理不尽な八つ当たりをしてきた先輩は30年を待つことなく、気づけば職場を去っていた。自分に非がないとわかっているのに叱ってくる上司は、2度と出会うことのない遠い関連会社に出向となり、やはり30年を待たずに職場を去った。一方で、私を温かく見守ってくれた先輩方は、そのほとんどがふさわしい役職に就いている。やはり、世の中とはよくできているものだと思う。

30年務めたので表彰を受けたことを、離れて暮らしている両親に報告したら、大変喜んでくれた。特に母は「継続は力なり。よく頑張ったね」と言ってくれた。「最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だと教えてくれた母は、半世紀の時を過ぎてもまったく変わっていなかった。私に理不尽な八つ当たりをし、30年を待たず職場を去った先輩が、今の私を見たらどう思うだろうか。

まもなく厳しい冬が訪れる。だが「このスランプがあったから今があるのだ」と思えるときも、必ず来るというのが半世紀を生きた私の実感である。厳しい冬が訪れる前のわずかな期間、さわやかに吹き抜ける風を全身に浴びながら、少しだけ自分を褒めてあげたいと今は思う。


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Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで(渡辺美里さんの曲の歌詞より)

2024-06-10 23:03:16 | 日記
6月2日付け記事「閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事」に、思わぬ反響があった。だが、私は反響があったからといっていつも続編を書くわけではない。むしろ続編を綴るのは例外中の例外である。前回の記事で若干、書き足りないことがあったので、イメージが形になっているうちに書き加えておきたいと考えたのだ。

人は、未来に希望が持てなくなると過去を懐かしみたくなる。過去は自分がすでに通過してきた道であり、風化はしても変化することはないのに対し、未来は予測不可能で不安な存在だからだ。不変のものとして残っている過去と、予測不可能で不安な未来を比較して、より安心・確実な過去に逃げ込む。その選択を誰も責めることはできない。ましてや人類を破滅に追い込みかねない大規模な戦争が、2つ同時に進行し、そのどちらにも終わる気配さえ見えない現状で、未来に期待などできる方がおかしい。

ただ、私が一般市民と違うのはマルクス主義者であることだ。私が過去を参考にするのは、それがよりよい未来を造るうえで役立つ限りにおいてである。「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)といわれるように、未来はいつも現在の延長線上にある。戦争と混乱が世界を覆い、未来に希望が持てないときでも、マルクス主義者は「今」すなわち「あたえられた、過去からうけついだ状況」と格闘しながら未来への道を切り開かなければならないのだ。

   ◇    ◇    ◇

冒頭で紹介した6/2付け記事で書いたように、私はもともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。懸命に努力しても追いつけなかった。理由もわからないまま、子ども時代はもがき続けた。同年代の子どもたちが当たり前のようにできている人間関係の構築に完全に行き詰まり、おおぜいでの外遊びから完全にドロップアウトしたのが、小学校4年生の時だった。「他のクラスメートや、同年代の友達に約束されているであろう『普通の幸せな人生』は、自分にはないかもしれない」と初めて思ったのは、このときだった。

現在では発達障害の一類型であるASD(少し前までは高機能自閉症、アスペルガー症候群などと呼ばれていた)を疑わせる顕著な傾向も、この頃には出ていた。電気屋のチラシに掲載されている時計の針がすべて10時10分を指していることなど、普通の人はどうでもいいと思って気にしないことが気になり、理由が知りたくて仕方なかった。自宅の前を通る国鉄の路線で、何時何分にどんな列車が通過するかはすべて頭に入っており、通過列車を見ることで時刻を判断できたから、小学校卒業まで腕時計を着けたことがなかった。

明らかに興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っていた。普通の人がどうでもいいと思って気にしないようなことの理由を知るために図書館に通うなどする一方で、普通の人なら備わっていて当然のことに対する注意力ーー例えば、忘れ物をしない、自分が出した物は元通り片付けるといったことへの注意力ーーは散漫で、明らかに欠けていた。人生を半世紀以上生きた今も、そうした傾向は当時とたいして変わっていない。

自分が他人と違っていて、どう頑張って努力してもマジョリティには決してなれないことを、小学校を卒業するころには悟りつつあった。自分は「普通の多数派の人たち」とは違う人生を送ることになるとの予感は、この頃からあった。すでにこの時点で一度、県の作文コンクールで佳作を取っていたが、そのことは忘れていた。自分には何ができるのだろう、何で身を立てるべきなのだろうという疑問はあったが、それを考えずにすむよう、高校は普通科に、大学でも経済学科に進んで「あえて普通に」振る舞っていた。思えばこの頃が一番人生で平穏な時期だった。

大学当時のバイト先はスーパーで、職種は倉庫係の食品担当。倉庫から食品売場への荷物出しがメインと説明され採用されたが、実際には卸売業者から納品された商品の整理もした。売場で商品の陳列をしているときにお客さんから商品の場所などを尋ねられたら応対しないわけにいかず、接客もこなした。

最も困ったのが「これ、おいしいですか」と聞いてくる客にどう答えるかだった。おいしいかどうかは主観であり、自分がおいしいと思っている商品が目の前のお客さんにとっても同じように感じるかはわからない。小学生の頃の体験から、自分はマジョリティとは違う世界を生きているとの自覚もあったから、ヘタに「おいしいです」などと答え、お客さんの口に合わなかった場合にクレームも予想された。

結局、一瞬考えた末「売れている(または売れていない)」と答えることにした。どの商品が売れているか(この業界では「売れ筋」という)はわかっていたし、売れているかどうかなら客観的な指標で、自分の味覚よりは信用できる。後でお客さんから苦情を言われても「売れているんですけどね」と言い訳もできる。この方法で接客も無難にこなした。バブル真っ盛りでみんなが未来への希望を持っており、今で言うカスタマーハラスメント(カスハラ)のようなことも受けた記憶は全くない。私自身、接客を無難にこなして自信がつき、子どもの頃あきらめていた『普通の幸せな人生』が自分にも到来するかもしれないと、ほんの一瞬だけ夢を見ることができた。私自身にとっても、日本と日本人にとっても最後のいい時代だった。

中学生の頃、両親が近所に住んでいる日本共産党員からの勧誘を断り切れずに「しんぶん赤旗」日曜版を購読していた影響で、日本共産党の政策や主義主張は知っていたが、大学に入り、自治会執行部の座をめぐって日本民主青年同盟(日本共産党の「みちびきを受ける」とされる青年組織)と共産同戦旗派が激しく争っていた。私の所属学部の執行部は戦旗派に握られており、民青の学生が「奪還したいので協力してくれないか」と依頼してきた。ちょうど、戦旗派系サークルの部室が、対立していた革マル派によって放火される事件があったことに加え、中国で天安門事件が起きた直後。「暴力的社会主義」にはうんざりしていたので協力すると回答した。

だが、私は小学生の頃から学級委員や児童会・生徒会などの仕事はもちろん、班長の経験すら持ち合わせていなかった。人と同じことをこなすのさえ無理な私に、人並み以上の働きでメンバーをまとめる仕事なんて聞いただけで気が遠くなる。「長」のつく仕事などまったく向いていなかった私に立候補の選択肢はなかった。結局、学部内でも屈指の「お祭り男」T君が民青に請われて自治会役員選に出馬。私はとりあえず裏方に徹し、なんとかT君を当選させ、学部自治会執行部から戦旗派を追い出すことには成功した。

選挙後、私も民青に勧誘されたが、渡された全学連機関紙の「祖国と学問のために」という名称が気に入らなかったため断った。国家は資本家階級の利益を守るためにあり、それゆえ「労働者に祖国はない」というのがマルクス主義国家観の基本なのに、それを学んでいる民青系全学連が機関紙に「祖国」なんて名称を冠するのは論外だと思ったからだ。

   ◇    ◇    ◇

子どもの頃から、私は「長」のつく役職など無縁の人生を送ってきた。それは半世紀近く経った今なおまったくといっていいほど変わらない。やはり、子どもの頃に形作られた資質はそうそう変わらないものなのだ。興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っている自覚も幼少時からある。だからこそ私はこれまで「派閥は作らず、加わらない」「主流派には乗らない」を自分の信条としてきた。主流派なんて面倒なだけだ。権力闘争に向けられるその無駄なエネルギーを、専門分野を磨くことに費やす方がよほど自分の性に合っている。

「人事部があなたの扱いに困っているらしい」という話を、職場で人づてに聞いた。ちょうど昨年の今ごろだった。私は胃がんで胃を全摘出した経験もある上、今も月に1回、精神科に通い精神安定剤の処方も受けている。平成の時代までであればとっくに出世レースからなど外れて当然だが、安倍政権が「一億総活躍」などという変なスローガンを掲げた手前、病歴を理由に昇進の道を閉ざすことも、後に続く同じような人たちを絶望させることになるためできないらしい。

前から述べているように、私自身は昇進なんてまるで興味がないし、最強の兵隊でいることが最も自分らしい人生だと思っている。私が苛立っているのは昇進できないからではない。いつまでも踊り場に留め置かれたまま、私はもう何年も待っているのに、上の階に上る階段、下の階に降りる階段のどちらに通じるドアもまったく開く気配がない。私はいつまで踊り場に居続けなければならないのか--苛立ちの原因はそこにある。どっちでもいいから決めてくれよというのが正直な気持ちである。

落ち込んだときに私がよく聴いている曲を紹介したい。渡辺美里さんの「世界で一番遠い場所」。高校に入学した年、人生で初めて買ったCDが、この曲の入ったアルバムだった。「手に入れた自由に 淋しさを感じても Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで」--この曲のこの歌詞に、今まで何度、励まされたかわからない。飛び立つための翼を手に入れる日が私に来るかどうかはわからないけれど。

とりあえず今日は最後にこの曲を聴いて、寝ることにしよう。

世界で一番遠い場所


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閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事

2024-06-02 23:21:08 | 日記
6月に入った。

4~5月はとにかく忙しかった。4/13、長野県大鹿村でのリニア問題学習会での報告、4/27「ノーモア尼崎事故!生命と安全を守る集会」での記念講演、5/15にはレイバーネットTV「日本の空は大丈夫か~羽田事故とJAL争議」に出演した。そして、5/25には、私が原告になっているALPS処理汚染水差止訴訟についてのオンライン報告もあった(こちらも資料を公開できるならしたいが、残念ながら有料会員向け講演会のため公開できないこと、お詫び申し上げたい)。

2週間おきに人前に出ての著述活動を続けてきており、1つが終わったら次の準備に取りかからなければならない状況で、他のことを考える余裕はまったくなかった。今後しばらくこうした予定は入っていないため、改めて自分の置かれている現状に思いを至らせると、ずいぶん閉塞感が強まっていると感じる。

定期的に全国異動のある我が職場だが、2013年4月に北海道に来てから今年で11年を過ぎ12年目に入っている。空気も水も食べ物もおいしく、本州にいるときは春になるごとに私を悩ませていたスギ花粉症とも無縁(函館など道南の一部地域を除き、北海道にはスギがない)。人々もみんなのんびりしていて、公共の場所でベビーカーを見ただけで子育て世代とクレーマーの反目が始まる東京のような殺伐としたムードは札幌でもまったくと言っていいほどない。ここの暮らしはかなり気に入っていて、もう本土帰還などできるならしたくない、このまま現状維持でも悪くないとずっと思っていた。ついこの間までは。

私の心がざわついたのは今年4月1日付の人事が公になってからである。今の職場に来る前に出向していた関連法人で、仲良く机を並べていた係長クラスのほとんどが昨年春までに課長補佐(準管理職)になった。同期採用者にはすでに課長になった人も少なからずいる。年次が後の人の中にも課長補佐昇格者が出ているが、彼らは私が経験していない本部勤務を経験している。本部経験者は同期採用者であっても「別世界(世間で言うエリートコース)の住人」なので、私には関係ないと全然気にしていなかった。ところが、年次が後で本部勤務経験もない人物が今年4月、課長補佐に昇任すると聞き、今まで「みんな早いな」と思っていたのが、逆に自分が遅れているだけだということが見えてきたのだ。

4月で異動した前の課長からはそれなりに評価を受けていると思っていた。2人で出張した際、ホテルで食事をしながら「あなたには早く昇任してほしい」と言われていたからである。だが今になって思い出してみると、課長が私に期待していたのは、他派閥に奪われていた課長補佐ポストの奪還だったことに改めて気づいた。3月に人事評価の面談をした際に課長が不機嫌だったのは、私にその期待を託したのに叶わなかったからに違いない。

課長が組織内派閥抗争の「駒」とする目的で、私自身は望んでもいない管理職レースに勝手に乗せたということに気づき、私も大きく傷ついた。管理職への忌避感情はより一層強まり、「仮に打診されても絶対に受けるか」と今は思っている。毎年秋に、人事上の希望を書いて出せる制度が職場にはある。秋までの半年で私の気持ちが変化するかどうかは見通せないが、件の課長が異動してしまったこともあり、気持ちは変わらない可能性が高い。おそらく「北海道内の職場で今まで通り係長として業務を続けたい」と書くことになると思う。

私より年次が後の人の課長補佐昇任がすでに始まっているが、私は他人のことにはそもそもあまり関心がない。職場関係者でこのブログの存在に気づいている人がいるかはわからないが、敵とみなした人物はブログ上で容赦なく打倒・粉砕を呼びかける私のような人物をリーダー職に就けることはあまりに冒険が過ぎると思うのが普通の感覚だろう。

私はこれまで原発問題での各種講演などにも呼ばれ、話をすることもあったが、どこの反原発運動団体でも役員などの職には就いていない。そのことを講演主催者に伝えると驚かれることも多く「宣伝チラシにあなたの肩書きを何と書いたらいいか」と相談されることも多かった。結局は「元福島県民」とでも書くよう依頼し、そのようにしてもらうことが多かった。きちんと勉強し知識を身につければ一兵卒でも巨大な敵と闘うことができる。むしろ私のようにリーダー職に不向きな者は「兵隊として最強」を目指すべきだというのがかねてからの私の持論である。

実際、最近はどんな人物が課長で来ても「○○さん(私の本名)は大ベテランなので仕事をいろいろ教えてください」と言われるし、本部勤務経験が浅い人が私に仕事に関する質問をしてくることもある。最強の兵隊として頼られる位置にいることのほうが、薄っぺらな管理職であることよりよほど意味のあることなのではないか。最近はそんなふうに思うことも増えている。

  ◇     ◇     ◇

そして私には「原体験」もある。今からもう50年近く前、幼稚園の頃の遠い出来事である。

当ブログ2月14日付記事で書いたように、私はもともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。学校でみんなでいっせいに何かやるときに、自分だけついて行けないことがしばしばあった。懸命に努力しても、追いつけなかった。なぜだろうと考えたが、理由はわからないままだった。

特に苦手で、イヤでたまらなかったのがマラソンだった。通っていた幼稚園では、毎日、園をスタートし、決められたコースを1周して園まで戻ってくるマラソンがあった。雨が降れば中止になるので、ビリ常連の私はいつも雨を願っていた。

それでも一時期までは同じように走るのが遅かった同級生の女の子と、ビリになるのがイヤで競っていた時期もあった。仮に智子ちゃんと呼んでおこう。

私と智子ちゃんはいつもビリ争いの常連だった。毎日ビリが続くのがイヤで、私は智子ちゃんを出し抜くにはどのタイミングでスパートをかけるのがいいか、いろいろ試していた。スパートが早すぎて息切れし、ゴールまでに逆転されたので、翌日はゴール直前になってスパートをかけたがゴールまでに追いつけなかった。概して私の作戦は成功しないことがほとんどだった。

それでも、毎日ビリ固定がイヤだった私は、ある日、余力を残したまま、智子ちゃんにつかず離れずの位置をキープしておき、早くもなく遅くもない絶妙のタイミングで全力のスパートをかけた。今度こそ成功……と思った瞬間、悲劇は起きた。舗装状態が荒く、でこぼこになった路面につまずいて転んでしまったのだ。

智子ちゃんがどんどん遠ざかっていくのがわかった。起き上がろうとしたが、出血した傷が痛くて気力が萎えていくのがわかった。一方では先生が「何してるの! 速く走ってゴールして! 次の(お遊戯の)準備が間に合わないよ!」と叫んでいるのが聞こえてきた。ようやく起き上がったが走る気力もなく、よろよろと歩いてかなり時間をおいてゴールした。疲れ切っていて、先にゴールした智子ちゃんが声援を送ってくれていたことにも気づかないまま。そのことを知ったのはかなり後になってからだった。

「もうイヤだ! マラソンなんてしたくない!」

幼稚園から帰った私は母の前で号泣した。得意でもないことを集団生活の中で強いられ、疲労が限界に達していた。母には叱られるかと思ったが、意外にも何も言われなかった。代わりに言われたのは「負けるよりは勝つ方がいいに決まっているけれど、全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」。それを聞いて心が軽くなった気がした。

その翌日から、私は自分のペースで最後まで走りきることに専念した。スタート直後からズルズルと後退していく私を見て、智子ちゃんは最初、戸惑っていたが、2~3日経つと、私が競争を放棄したのだと理解したようだった。すると、驚くことに智子ちゃんも自分のペースで走るようになった。私がいる限りビリになることはないという安心感もあったと思う。先にゴールした智子ちゃんが応援する声が聞こえるようになった。毎日ビリでも、それが自分のいるべき場所なら仕方ないと、割り切ることができるようになった。私は2年保育だったが、年長になっても後で入園してきた1年生より足が遅く、卒園するまでずっとビリのまま終わった。智子ちゃんが2年目に何位だったのかは聞かなかったし知りたいとも思わなかった。

私に速く走らせることをあきらめた先生が、それまでは直前にしていたマラソンの後のお遊戯の準備を、朝一番に整えてからマラソンに臨むように変更してくれていたことを知ったのは、卒園する直前のことだった。迷惑をかけたのにお礼を言わないまま卒園してしまい、先生には申し訳ないことをしてしまったと今は思っている。

  ◇     ◇     ◇

半世紀近く前の遠い記憶を呼び起こしたのは、今また出世レースで自分がしんがりにいるらしいということに気づいたからである。20歳代前半で私を産んだため、母は後期高齢者に入ったが実家でまだ健在である。このことを話したら母はなんと言うだろうか。もし半世紀前と変わっていないなら、「あの日」と同じように言うはずである。「負けるよりは勝つ方がいいに決まっているけれど、全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だと。

今の私は、この母の言葉を拠り所にして生きる以外にないと思っている。大切なのは最後までやり抜くこと。目の前に与えられた仕事、課題にしっかりと向き合い、ひとつひとつ、結果につなげていくこと。結果に結びつかないときでも、腐らずに次につながる「何か」を残すこと。マラソンがイヤで号泣しながらも、2年間、1回も途中棄権はしなかった。転んでよろめきながらも走った回数と同じだけゴールをつかんだ。あの半世紀前の経験に学ぶことが、今の私には大切なことのように思う。

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