1月11日付け当ブログ記事で取り上げた、昨年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。
結論から言えば、2003年頃から20年以上にわたって、絶え間なく、それこそ馬車馬のように執筆活動を続けてきた「ある媒体」から、年明け以降、離れている。理由はよくわからないが、なんだか酷く疲れたのだ。
仕事(本業)のほうはおおむね順調に行っており、ここが火を噴くことは考えられない。職場で労働組合役員も務めているが、こちらでも不穏な兆候は全くない。長年労働運動をやって行く中で、協調すべき場面と本気で闘うべき場面の見極めくらいはできるつもりだ。メリハリをつけた活動が大事で、こちらも順調に行っている。
先のブログ記事では「私の身辺で最近起きている出来事の中には、いくつか不穏な兆候を示しているものがある」とほのめかす程度に留めておいた。「不穏な兆候」は「ある媒体」での執筆活動周辺で起きており、火を噴くならここかな……と思っていたが、それが現実になった形だ。「
一葉落ちて天下の秋を知る」(淮南子)という故事成語にあるように、変化が起きる直前には何かしら兆候がある。「こんなことになるなんて思わなかった」が口癖の人は、一度、「錆びたアンテナ」の大掃除をしてみることをお勧めする。
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もともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。学校でみんなでいっせいに何かやるときに、自分だけついて行けないことがしばしばあった。なぜだろうと考えたが、理由はわからない。懸命に努力しても、追いつけない。自分がやっと作業を終えたら、周りはすでに次のステージに行っていたという経験も一度や二度ではない。
まだ発達障害という概念さえなかった時代。動作が遅い子は「のろま」扱いか「変人」扱いのいずれかに甘んじなければならなかった。もし今の時代に生まれ、子ども時代を過ごしていれば発達障害と診断されたに違いないが、そう診断されることが幸せかどうかはまた別問題である。今はともかく社会生活を送れているので、あえてそのような診断を受ける必要はないと思っている。
文章を書くことは昔から嫌いではなかった。だからといって特段、好きだったわけでもないが、人並みにできる数少ないことのひとつだった。時間が経っても原稿用紙が真っ白のまま鉛筆が動かないクラスメートを見て「思ったことを書けばいいのに。なぜできないんだろう」と不思議に思うことはあった。だがそれは他人と比べて劣っていないことの証明になるだけで、優れていることの証明にはならない。人並みにできるというだけで、自分が優れていると思ったことはなかった。
転機が訪れたのは小学校3年生の時だった。私の住んでいた地方の小学校では、偶数学年に上がるときにはクラス替えがない。担任も同じ児童を2年続けて受け持つ。3年生でも2年生の時と同じ担任に当たったので、この時点で4年間、同じ教師が自分の担任になることが決まったわけだ。40代の女性教師。仮にO先生としておこう。
夏休みに入る前くらいだったと記憶する。O先生から職員室に来るように言われた。「またどうせ動作が遅いと怒られるんだろう」と思い、気が滅入ったが、呼ばれた以上行くしかない。が、行ってみると予想外の展開だった。見たことのないような笑顔で「あなたの書いた作文が上手なので、先生が少し直して県の作文コンクールに出していいかな?」というものだった。
自分の作文が、後にそんな大層なことになると思わなかった私は「いいですよ」と適当に返事をした。県のコンクールで佳作に選ばれ、賞状をもらった。佳作は金賞、銀賞、銅賞に次ぐ。自分が初めて周囲から承認される出来事だった。
その翌年、O先生はまた私の作品を同じコンクールに出したいと言ったので、私はまた「いいですよ」と返事をした。今度は入賞はならなかったが、それでも高順位に入ったという連絡をもらった。7位か8位くらいだったと思うがはっきりした記憶はない。
母親との三者面談で、O先生が「この子には作文の才能があります。佳作を取ったときはまぐれかもしれないと思ったけれど、2年続けてこんな作文を書くのはまぐれではありません」と言うのがわかった。学校からの帰り道、「誰に似たのかしら」と母が不思議がっていたのを今でも覚えている。
その後しばらく、自分にそんな能力があることは忘れていた。文章を書くことは好きで続けていたが、駄文を量産しているだけだと思っていた。
2度目の転機は、高校2年の時だった。県立高校で、国公立大文系進学クラスに入った。最近の状況はわからないが、当時は二次試験で小論文を出題する国公立大学が多かったため、このクラスに入った生徒は週2回、「国語表現」という作文の授業を受けなければならなかった。担当したのは、またも40代の女性教師。仮にT先生としておく。O先生と同じくらいの年齢だったが、雰囲気はまったく異なっている。平たく言えば、O先生は母親みたいな雰囲気なのに対し、T先生は年の離れた姉のような雰囲気だった。
クラス全員が作文を書き、T先生の添削を受けた後のものを、全員の前で読んで発表する。他の生徒は感想を書き提出。自分以外の生徒全員の書いた感想が、後日、本人に渡される。授業はそんな形式で進められた。
ある日の放課後、係の用事で職員室に行ったときに、T先生に呼び止められた。担任でもなく、帰宅部で部活動もしていなかった私にとって顧問の関係でもないT先生に呼び止められる理由は作文以外に思い浮かばない。T先生は、その日たまたま空いていた隣の先生の席に着席するよう私に促すと、言った。
「次回の授業あたりであなたにも発表をしてもらいますけど、私が読んでほとんど添削する必要のない作文を見たのは久しぶりです。他の生徒の作文は、誤字脱字があったり、導入部分と本論とで論旨が正反対になっていたり、基本的な部分で破たんしているのも結構あるし、特に男子に多いんだけど『書いてる本人だけが面白くて、聞いてる他人は全然面白くない』というタイプのものが結構あるの。それに比べて、あなたのは面白くはないけど論旨が明快な上、一貫しているし、誤字脱字もない。少しだけ添削はしたけど、強いて言えばあなたの表現が国語担当として個人的に気に入るかそうでないかというのが理由で、破たんしているわけじゃないから、添削しないでおこうと思えばそれでもすんでしまう程度のものです」。
「久しぶりというのは、どのくらいですか」と私が聞くと、T先生は「そうね。私は20年くらいこの仕事をして、いろんな生徒の作文を見てきたけど、あなたレベルの子は、5年に1人いるかいないかくらいじゃないかな。当たり前だけど、高校には1年生から3年生まで、この3年間に入学してきた人しかいないわけだから、5年に1人レベルということは、要するにこの学校の在校生であなたより上手い人は、ほぼいないということです。・・・正直、ここだけの話にしておいてほしいんだけど、先生方の中にも文章が上手くない人がいて、あなたのほうが上手いって思うレベルの先生方が、割といるんだよね」。
T先生のこの言葉に私は衝撃を受けた。話すべきかどうか迷ったが、小学校の時に県の作文コンクールで佳作を取ったことを思い切って話すと「今回のあなたの作文見てると、嘘とも思えないね」と言われ、驚かれなかったことを覚えている。発表後、他の生徒が書いた40人分の感想用紙の束を渡されたが、内容に対する質問や意見はあっても、意味がわからないという不満は誰からもなかった。
自分の文章力に確信を持ったのはこのときだった。自分が長い間、抱いていた劣等感が「溶けていく」のがわかった。自分にはこんな得意分野があるのだから、他人と自分を比べる必要はないと思えるようになり、気持ちが楽になった。書くことが自分の居場所になった。
この経験がきっかけで新聞記者になりたいという夢を持ったが、大学時代に怠けすぎたせいか、他の職業の誘惑が大きかったせいか、結局その道には進まなかった。代わってその夢をかなえてくれたのが、「地域と労働運動」「レイバーネット日本」、そして今回離れることになった「ある媒体」だった。権力や支配者の不正を追及するのは労力がかかり、リスクも負うが達成したときの充実感は大きく、何物にも代えがたい財産だ。私が書かなければ埋もれていたかもしれない事実がいくつもあることは、当ブログの過去記事を読んでいただくだけでもご理解いただけるだろう。投稿後10年以上経ってもいまだに読まれ続けている記事もある。
「広く薄く」の何でも屋でありつつも、これだけは絶対に誰にも負けないという得意分野を1つ2つ持つことが、ライターとして生き残る秘訣といえる。もともと幼少時から鉄道ファンとして生きてきたため、鉄道・公共交通は自然と自分の専門分野になった。だが、文系で物理が選択肢にもならなかった自分が原発・原子力の分野を専門にすることになるとは夢にも思わなかった。福島第1原発事故は間違いなく自分の運命を変える出来事だった。ウソ・隠蔽・ごまかしに塗り固められたこの偏狭で有害な「ムラ」をペンの力で解体することが私の人生を懸けた仕事になるとの思いは「3・11」以降、一瞬たりとも揺らいだことがない。
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「ある媒体」での不穏な兆候は、昨年夏頃から出ていた。記事の本筋とは無関係で些末なことで揚げ足を取るような反応を示す人が多くなった。自分の書く文章には全身全霊を捧げている建前になっており、「ライターである以上、自分の書いた文章に一部でも『些末』な箇所があるなどと考えてはならない」との指摘を受けたら、おそらくそれには甘んじなければならないだろう。
だが、小説であれ新聞記事であれ、人が書く文章である以上、強調したい部分とそうでない部分、気持ちの乗っている箇所とそうでない箇所が生まれることは誰しも否定できない。そんなとき、自分があまり重きを置いていない部分、核心でない部分、気持ちの乗っていない部分に対して重箱の隅をつつくような指摘を、しかも短期間に連続して受けるというのはお世辞にも気持ちの良いことではない。
ひとつひとつはたいしたことではなく、心の奥底に沈めておけばすむようなことでも、蓄積するとそれが臨界点を超えてあふれ出すことがある。自分の中で、我慢がその臨界点に近づきつつあるという警報音が「不穏な兆候」の正体であることは、ライターとして割合早い段階から自覚していた。昨年12月23日夜に見た不穏な夢がその警告であることにも、うすうす気づいていた。
年が明け、私は「ある媒体」に対して休筆を宣言した。国際情勢から芸能ネタに至るまで、硬軟どんなテーマに関しても依頼者の要請に応じて書ける知識と力量は持っているつもりだが、いま思えばここ数年は「お仕事感」が強すぎて、「楽しく書く」というライターとしての生命力の源泉が枯れてきていた。
優れた文章、迫力のある文章には、揚げ足取りのような批評者をねじ伏せるだけの生命力がある。それが長年にわたってライターとして生き残ってきた私の率直な実感である。自分と読者、どちらの側も以前とそれほど変わっていないのに、ここに来てそのようなつまらない事態が表面化しつつあるのは、自分の書く原稿が以前のような力を失っているからではないか。だとすれば、今の私にとって必要なことは「お仕事感覚」の執筆が続くことにより枯れかけていた生命力の源泉を取り戻すことである。要するにライターとして「充電」が必要な時期に来ていると考えるに至ったのである。
「充電」には、好きなことを楽しく書くのが一番いい。私がどんなに忙しい中でも、このブログを閉鎖せず維持してきたのは、好きなことを楽しく書ける「ホームグラウンド」が必要だと認識しているからである。今年に入ってから、当ブログが昨年までとは比べものにならない頻度で更新されていることに、察しのいい読者諸氏はすでにお気づきかもしれない。
「ある媒体」に復帰するかどうかはもうしばらく様子を見たい。なによりも私自身が疲労を蓄積させることになった問題はなにひとつ解決されていないからである。以前と同じように、つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信ができたら、それが復帰の時である。
それでも書くことは好きであり、O先生、T先生と2人もの教師の「折り紙」もついている。動作が人より遅く、劣等感の塊だった私の能力に気づき、開花させ、承認という形で居場所をくれた2人の恩師は今どうしているのだろうか。小学生の時に賞を取ったこと、高校生の時に「5年に1人。今の在校生であなたより上手い人はおそらくいない」と言われたことは執筆を続ける原動力になっている。私が書くことをやめるのは、おそらく人生が終わるとき以外にないと思う。