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輝く季節の中で夢は藍く染まるだろう 失うものは何ひとつない 愛さえあれば(FIELD OF VIEWの曲の歌詞より)

2024-10-17 20:12:41 | 日記

閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事(6月2日付け記事)を書いてから、早いもので4か月。まだ先のことと思っていた人事上の希望を書く時期が、いよいよ来た。

『毎年秋に、人事上の希望を書いて出せる制度が職場にはある。秋までの半年で私の気持ちが変化するかどうかは見通せないが、件の課長が異動してしまったこともあり、気持ちは変わらない可能性が高い』と、この記事の中で私は述べた。

結論から言えば、気持ちはほとんど変わらなかった。昨年秋に希望を出す際、課長に強く勧められて(と言えば聞こえはいいが、要は無理やり)管理職を目指したいなどという、およそ本心からかけ離れたことを書いたが、この部分は熟慮した結果、今年の希望からは削ることにした。

6月2日付の記事では『課長が組織内派閥抗争の「駒」とする目的で、私自身は望んでもいない管理職レースに勝手に乗せたということに気づき、私も大きく傷ついた。管理職への忌避感情はより一層強まり、「仮に打診されても絶対に受けるか」と今は思っている』と書いた。苦手で大嫌いな社内政治からは距離を置いて「派閥は作らず、加わらない」「主流派には乗らない」という自分の職業上の信条も、6月の時点から、というより社会に出てから30年、まったく変わっていない。

「キミも出世したいなら、いい意味での『欲』は持ち、仲間も増やしたほうがいい」と親切に「助言」してくれる先輩もいたが、私は結局その通りにはしなかった。「派閥」「ムラ」などと呼ばれる閉鎖的な権力集団/利権集団には大きな副作用も伴う。その副作用が効能を超えたとき、「派閥」「ムラ」は批判を浴びる。それまで仲間を増やし、膨張していく求心力だったものが、仲間が離れ、解体していく遠心力に変わる。そのとき、もともと群れにいなかった「無派閥の人」に突如としてスポットライトが当たる瞬間がある。

少し前まで行われていた自民党総裁選がその典型だと思う。派閥解体という「遠心効果」なくして「孤高の人」石破茂氏が脚光を浴びることは、おそらくなかっただろう。私はずっと自民党を批判してきたし、石破首相の政治スタイルにも批判的だが、それとは別次元の問題として、総裁選が織りなす「筋書きのないドラマ」には、自民党に対する反対者さえも引きつける魔力(魅力ではない)がある。職場ではすでに管理職候補でなくなりつつある私に、もしスポットライトが当たる瞬間があるとしたら、石破首相のようなケースしかあり得ないだろう。

ただ、そのような形で管理職の座をつかんだとして、そんな私の下でまとまるチームが果たしてあるだろうか。「あいつは管理職の器でもないのに、まぐれ、『棚ぼた』で管理職になった」と思われたら、上司としての求心力などとても持てないだろう。そう考えると、私にとって管理職はやはり、割に合わない罰ゲームという以外に表現のしようがない。

先日の記事でも述べたように、9月に受けた研修で自分のプレゼンした業務効率化提案が即、採用となった。どのような立場であっても、自分にはまだやれることがあるし、やるべきこともあると思いを改めた。ただしそれは「現場で最強の兵隊となる」という意味でのモチベーションである。自分から管理職を望むことは、今年も来年以降も絶対にないが、同年代の多くの人がやっている管理職を私はやらない以上、現場仕事に関しては誰にも負けないようにする必要がある。

   ◇   ◇   ◇

不思議なもので、50歳を過ぎて経験を積んでくると、非管理職であっても、若手社員から、ふとしたことがきっかけで悩みを打ち明けられる場面が増えてくる。「上司(係長)がメンタル不調で休んでおきながら、自分の都合で復帰したいときにしてくるので、振り回されて疲れた」という相談を、実は今日も受けた。本人も、やりたい仕事があって専門学校を卒業したのに、夢破れ、私の会社の障害者雇用枠で採用された人物である。普通の人ならここまでの心配はしないが、障害者雇用枠での採用者だけに、上司がこんな気まぐれを続けた結果、本人まで潰してしまうことになりかねない。私としては、労働組合執行委員としての立場もあり、放置するわけにいかない。近々、何らかの措置を講じてもらうよう、上層部に働きかけるつもりでいる。

「2か月に1回、順番が回ってくる1人勤務の時に、誰にも相談できなくて辛い」という採用3年目の女性社員から相談を受けたこともある。「10年の経験を持つ人でも、1人勤務でつまずくケースを何度も見てきた中で、採用3年目で、ミスらしいミスもせず1人勤務をこなした人は、まったくいないわけではないけど、誰にでもできることでもないと思うよ。あなたの課の課長は滅多に人を褒めないけど、私は、褒めるに十分値すると思う」と励ますと、明るい表情に変わった。

「社内手続をめぐって、総務担当者に強い口調で言われ、心が折れそう」という入社5年目の女性社員からの悩みを打ち明けられたこともある。たまたまその総務担当者が、かつて私の部下だった女性事務職で、気心が知れている相手だったこともあり、「彼女には優しくしてやってよ」とお願いして、このときは収めた。

私がパソコンなどのIT関係に詳しいことは、隠しているはずなのになぜかみんなが知っていて、PC操作などについての頼み事もしばしば受ける。若手の中には、スマホ操作には詳しいがPCに触れることがないまま社会に出てくる人もいて、下手をすると私の方がPCに詳しいこともあり、細々した依頼事は日常茶飯事である。

最初に紹介した「1人勤務の孤独」を訴えてきた人に、どうして相談相手が直属の上司ではなく私なのかと聞いたことがある。「直属の上司には言いにくいし、○○さん(←私の本名)なら、偉くない割に知識が豊富だし、労働組合役員とか、自分の得にもならない面倒なことも引き受けていて、頼れそうだから」が彼女の答えだった。「偉くない割に」というのが引っかかる言い方だが、非管理職の自分にそんな需要があるとは正直、思っていなかった。

他人の見ていないところで、若手社員の「誰にも言えない相談」に乗ることは、今となっては私の仕事の一部のようになっている。だからこそ、もう少し自分にも頑張ってみる価値があると今では思っている。

今回もまた、私が落ち込んだときによく聴いている曲を紹介しよう。

1曲目は「君がいたから」(FIELD OF VIEW)。1995年に放送されたドラマ「輝く季節(とき)の中で」の主題歌に使われた曲である。「私の使命は医師を育てるのではなく、なる資格のない者を排除すること」だと公言する厳格な医学部教授役に長塚京三さんを配し、医学部生に中居正広さんなどが起用されて話題となった。『輝く季節の中で 夢は藍(あお)く染まるだろう 失うものは何ひとつない 愛さえあれば』という歌詞を聴くと、ふと、涙することもある名曲。作詞を担当し、希有な才能を持っていた坂井泉水さん(ZARD)が早世したことが、残念でならない。

2曲目は、「My Will ~世界は変えられなくても~」(大黒摩季さん)。こちらもドラマ「科捜研の女」のテーマソングに使われた曲。『世界は変えられなくても 未来は変えて行ける』『誰かと比べなければ この人生も悪くない/欲しいものはあっても 奪ってまではいらない/不器用でも自分らしく 歩いてゆく』という歌詞には、多くを望まず、精いっぱい今日を生きようと思わせてくれる力があって、今の私に合っている。気が向いた方は、ぜひ聴いてみて欲しい。

君がいたから [FIELD OF VIEW 1st シングル]

My Will ~世界は変えられなくても~/大黒摩季


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天高く、復調の秋

2024-10-12 23:15:28 | 日記

ここ10年ほどの日本列島は、1年の半分が夏という状況になり、明らかに熱帯化している。フィリピン沖より北の海域では発生することがないとされていた熱帯低気圧が、今年は日本近海で相次いで発生するという、気象学の常識を覆す出来事も起きた。

そんなしぶとかった猛暑もいつの間にか過ぎ、西日本でもようやく最高気温が30度を切るようになった。ここ北海道では、最低気温はすでに10度を切り、5度を切る日もある。気密性の高い北海道の住宅ではまだストーブを焚くほどではないが、これ以上最低気温が下がると必要も出てくるだろう。この3連休でストーブの準備をするつもりでいる。

さて、読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋などと言われるが、私にとっては「復調の秋」となりそうな気配が濃厚になっている。昨年夏以降、1年以上にわたって続いてきたスランプから脱出の気配……というより、完全に脱出したといえそうだ。それはなにより、最近投稿する文章の好調と、確かな手応えという形で現れている。特に、当ブログ8月23日付記事「じわり広がる「令和の米騒動」 これは日本の「暗い未来予想図」か」と、その続編に当たる9月24日付記事「余波続く「令和の米騒動」 日本の歴史的転機になるかもしれない」には近年にないほど大きな反響があった。

この記事は、もともと「地域と労働運動」誌向けに執筆し、レイバーネット日本に転載したものだが、転載後、右翼と思われる人物から私をライターから解任するようレイバーネットに要求があったという。この不当な要求をレイバーネット日本が拒否したことはいうまでもない。レイバーネットでは、記者を含む「運営委員」は、年に1回、3月に開催される総会で選出されている。死去するか、本人から辞任を申し出ない限り、不当にその地位を奪われることはない。本人の意思に反して運営委員を解任できるのは総会だけと決められているのだ。

スランプが顕在化した昨年夏からしばらくの間、私の書く文章に、支配層・右翼・原発推進派などの「敵対陣営」からでなく、「こちら側」であるはずの運動関係者からクレームが付くということが、立て続けに3度続いた。そのほとんどは、文章全体から見れば些末な部分に過ぎなかった。だが、ただでさえ疲れていたところにこういうことが続いて精神的に嫌になった。3度のクレームのうち2回を占めていた「ある媒体」での休筆を宣言したことは、当ブログ2月14日付記事「年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味」で詳しく述べた。

スランプ期間中、普段あまり書くことのない日記を頻繁に書いてきた。6月2日付記事「閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事」、そして6月10日付記事「Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで(渡辺美里さんの曲の歌詞より)」も、読者からは大きな反響があった。それまでの当ブログは、硬派な政治情勢や運動・闘いの記事を中心に「弱みを見せない」ことを運営方針の中心に据えてきた。それだけに、ほとんど露出することのなかった私の「人間的な悩み」が、リアルで面識のない読者に興味深く、そして割と好意的に読んでいただけたと思っている。

「ある媒体」の編集長からは「とりわけ原発問題に関しては、あなたがいないと紙面が成り立たない」と懇願され、結果的に、以前と同じペースでの執筆はできないとの条件で復帰している。休筆前には、週に2本の記事を書くこともあったが、30代~40代の頃のペースのまま執筆を続けることは、50代という年齢を考えても限界に突き当たっており、見直すいいきっかけになったと思っている。

スランプ脱出への気配をはっきり感じたのは、夏がピークを過ぎる頃だった。自分の書いた文章にキレがかなり戻ってきた。スランプに陥る前のように、ほとんどの原稿が書き直しもなく1回で点検・校正を通過するようになった。「こちら側」からのクレームはなくなり、「令和の米騒動」記事に見られるように、攻撃は再び「敵対陣営」から来るようになった。これは、私の書く文章に、権力・支配層に対する「攻撃力」が戻ってきたことを意味している。

『優れた文章、迫力のある文章には、揚げ足取りのような批評者をねじ伏せるだけの生命力がある。それが長年にわたってライターとして生き残ってきた私の率直な実感である。・・「ある媒体」に復帰するかどうかはもうしばらく様子を見たい。・・以前と同じように、つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信ができたら、それが復帰の時である』

前述した2月14日付記事「年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味」で私はこう述べた。『つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信』が戻って来ている。これが復調の第1の意味である。

     ◇    ◇    ◇

そして、復調を確信させる出来事の2つ目は、9月12~13日に受講した職場の研修(非管理職対象)である。上京し、1泊2日の研修に、全国から20歳代~50歳代まで10人が参加した。「業務上のミス防止」をテーマに、実際のミスの事例を基にした再発防止策を事前にまとめ、当日、プレゼンする。10人の参加者のうち、プレゼンした再発防止策の採用がその場で即、決まったのは私を含め2人だけだった。誰でもできる簡単な内容の割には、業務効率化の効果が見えやすいというのが、私のプレゼンが採用された理由だった。

もっとも、この研修参加者のうち、50代は私1人だけ。他は全員が20代~40代だった。経験年数からいえば、最も長い私がこれくらいの結果は出せて当然で、そうでなければ職場で生き残ること自体、難しい。

私の職場で、定年後の再雇用者を除けば、非管理職の最年長者は別地域にいる50代後半の人だが、その人はアルコール依存傾向が強く、たびたび遅刻している。遅刻せずに通常勤務できている非管理職の中では事実上、私が最年長である。同年齢の人はほぼ全員が管理職になっており、そもそも非管理職向けの研修にこの年で参加していること自体が異例中の異例なのだ。

この先、自分にどんな道が待っているかは、自分が決めることではないだけにまだわからない。だが、上で紹介した6月2日付記事、6月10日付記事で書いたように、私は幼少期から「長」のつく仕事とは無縁の人生を生きてきた。他人と同じことを他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。電気屋のチラシに掲載されている時計の針がすべて10時10分を指していることなど、普通の人はどうでもいいと思って気にしないことが気になり、理由が知りたくて仕方なく、何度も図書館に通い詰めたあげく、最後には時計メーカーに電話までして理由を教えてもらった(そのとき聞いた理由は、こちらに記載されているのと同じ内容だった)。

その一方で、普通の人なら備わっていて当然のことに対する注意力ーー例えば、忘れ物をしない、自分が出した物は元通り片付けるといったことへの注意力ーーは散漫で、明らかに欠けていた。興味・関心・記憶力を向ける対象がはっきり偏っており、「他のクラスメートや、同年代の友達に約束されているであろう『普通の幸せな人生』は、自分にはないかもしれない」と、小学校4年生の時に早くも悟った。

発達障害という概念自体がまだなかった時代だったが、ASD(自閉症スペクトラム障害。少し前まで「アスペルガー障害」と呼ばれていた)のテストを受ければ、該当かグレーゾーンかは別として、「正常ではない」との診断を下される可能性は、今なおあると思っている。だが、そう診断されることが自分にとって幸せかは別問題であり、社会生活を送れている限り、診断を受ける必要はないと考えている。

自分がこの年齢まで生き延びてこられたのは、「全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だという母の言葉を実践してきたからだ。幼稚園の時のマラソンで、下級生にも負け続け卒園までずっとビリなのが嫌で仕方なかった。だが、たとえ勝てなくても、あきらめさえしなければ最後に自分の居場所はできるというのが、半世紀を生きてきた私の人生訓である。

自分ひとりだけ50代で非管理職のままだとしても、そこが自分の居場所なら、逆らわずにそこできちんと結果につなげる。結果につながらないときでも、次につながる何かを残す。今回の研修で、誰が見ても効果がはっきり理解できる業務効率化提案をプレゼンしようと私が決めたのも、そのことが大切だと思ったからである。

     ◇    ◇    ◇

1994年4月に今の職場に勤め始めてから、今年で30年となり、表彰も受けた。

採用辞令を受けたとき、30年勤務の表彰を受ける大先輩の姿を見ながら、あの大先輩たちのように、30年後も私がこの職場に残れているだろうか、と思った。30年後まで残れる可能性は五分五分だというのがそのときの感覚だった。就職氷河期まっただ中、1年就職浪人をしてまでやっとつかんだ正規職の職場であり、「ここまで苦労してつかんだのだから、絶対辞めるものか」という気持ちが半分。残りの半分は「不器用な自分が30年も生き残ることが果たして本当にできるのだろうか」という不安だった。

今振り返ると、30年はあっという間だったような気がする。昨日と今日がまったく同じということはなく、退屈なのではないかと予想していた職場が意外にもそうでなかったことは嬉しい誤算というべきかもしれない。

未熟な自分を温かく見守り、励ましてくれる先輩方がいる一方で、理不尽なことで八つ当たりをしてくる先輩も、自分に非がないとわかっているのに叱ってくる上司も経験した。正直に告白すれば、すべてを捨てて逃げ出したいと思ったことも、この30年で2回ある。だが2回とも優れた上司、先輩に恵まれ何とかやってこられた。

新人時代、理不尽な八つ当たりをしてきた先輩は30年を待つことなく、気づけば職場を去っていた。自分に非がないとわかっているのに叱ってくる上司は、2度と出会うことのない遠い関連会社に出向となり、やはり30年を待たずに職場を去った。一方で、私を温かく見守ってくれた先輩方は、そのほとんどがふさわしい役職に就いている。やはり、世の中とはよくできているものだと思う。

30年務めたので表彰を受けたことを、離れて暮らしている両親に報告したら、大変喜んでくれた。特に母は「継続は力なり。よく頑張ったね」と言ってくれた。「最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だと教えてくれた母は、半世紀の時を過ぎてもまったく変わっていなかった。私に理不尽な八つ当たりをし、30年を待たず職場を去った先輩が、今の私を見たらどう思うだろうか。

まもなく厳しい冬が訪れる。だが「このスランプがあったから今があるのだ」と思えるときも、必ず来るというのが半世紀を生きた私の実感である。厳しい冬が訪れる前のわずかな期間、さわやかに吹き抜ける風を全身に浴びながら、少しだけ自分を褒めてあげたいと今は思う。


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Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで(渡辺美里さんの曲の歌詞より)

2024-06-10 23:03:16 | 日記
6月2日付け記事「閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事」に、思わぬ反響があった。だが、私は反響があったからといっていつも続編を書くわけではない。むしろ続編を綴るのは例外中の例外である。前回の記事で若干、書き足りないことがあったので、イメージが形になっているうちに書き加えておきたいと考えたのだ。

人は、未来に希望が持てなくなると過去を懐かしみたくなる。過去は自分がすでに通過してきた道であり、風化はしても変化することはないのに対し、未来は予測不可能で不安な存在だからだ。不変のものとして残っている過去と、予測不可能で不安な未来を比較して、より安心・確実な過去に逃げ込む。その選択を誰も責めることはできない。ましてや人類を破滅に追い込みかねない大規模な戦争が、2つ同時に進行し、そのどちらにも終わる気配さえ見えない現状で、未来に期待などできる方がおかしい。

ただ、私が一般市民と違うのはマルクス主義者であることだ。私が過去を参考にするのは、それがよりよい未来を造るうえで役立つ限りにおいてである。「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)といわれるように、未来はいつも現在の延長線上にある。戦争と混乱が世界を覆い、未来に希望が持てないときでも、マルクス主義者は「今」すなわち「あたえられた、過去からうけついだ状況」と格闘しながら未来への道を切り開かなければならないのだ。

   ◇    ◇    ◇

冒頭で紹介した6/2付け記事で書いたように、私はもともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。懸命に努力しても追いつけなかった。理由もわからないまま、子ども時代はもがき続けた。同年代の子どもたちが当たり前のようにできている人間関係の構築に完全に行き詰まり、おおぜいでの外遊びから完全にドロップアウトしたのが、小学校4年生の時だった。「他のクラスメートや、同年代の友達に約束されているであろう『普通の幸せな人生』は、自分にはないかもしれない」と初めて思ったのは、このときだった。

現在では発達障害の一類型であるASD(少し前までは高機能自閉症、アスペルガー症候群などと呼ばれていた)を疑わせる顕著な傾向も、この頃には出ていた。電気屋のチラシに掲載されている時計の針がすべて10時10分を指していることなど、普通の人はどうでもいいと思って気にしないことが気になり、理由が知りたくて仕方なかった。自宅の前を通る国鉄の路線で、何時何分にどんな列車が通過するかはすべて頭に入っており、通過列車を見ることで時刻を判断できたから、小学校卒業まで腕時計を着けたことがなかった。

明らかに興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っていた。普通の人がどうでもいいと思って気にしないようなことの理由を知るために図書館に通うなどする一方で、普通の人なら備わっていて当然のことに対する注意力ーー例えば、忘れ物をしない、自分が出した物は元通り片付けるといったことへの注意力ーーは散漫で、明らかに欠けていた。人生を半世紀以上生きた今も、そうした傾向は当時とたいして変わっていない。

自分が他人と違っていて、どう頑張って努力してもマジョリティには決してなれないことを、小学校を卒業するころには悟りつつあった。自分は「普通の多数派の人たち」とは違う人生を送ることになるとの予感は、この頃からあった。すでにこの時点で一度、県の作文コンクールで佳作を取っていたが、そのことは忘れていた。自分には何ができるのだろう、何で身を立てるべきなのだろうという疑問はあったが、それを考えずにすむよう、高校は普通科に、大学でも経済学科に進んで「あえて普通に」振る舞っていた。思えばこの頃が一番人生で平穏な時期だった。

大学当時のバイト先はスーパーで、職種は倉庫係の食品担当。倉庫から食品売場への荷物出しがメインと説明され採用されたが、実際には卸売業者から納品された商品の整理もした。売場で商品の陳列をしているときにお客さんから商品の場所などを尋ねられたら応対しないわけにいかず、接客もこなした。

最も困ったのが「これ、おいしいですか」と聞いてくる客にどう答えるかだった。おいしいかどうかは主観であり、自分がおいしいと思っている商品が目の前のお客さんにとっても同じように感じるかはわからない。小学生の頃の体験から、自分はマジョリティとは違う世界を生きているとの自覚もあったから、ヘタに「おいしいです」などと答え、お客さんの口に合わなかった場合にクレームも予想された。

結局、一瞬考えた末「売れている(または売れていない)」と答えることにした。どの商品が売れているか(この業界では「売れ筋」という)はわかっていたし、売れているかどうかなら客観的な指標で、自分の味覚よりは信用できる。後でお客さんから苦情を言われても「売れているんですけどね」と言い訳もできる。この方法で接客も無難にこなした。バブル真っ盛りでみんなが未来への希望を持っており、今で言うカスタマーハラスメント(カスハラ)のようなことも受けた記憶は全くない。私自身、接客を無難にこなして自信がつき、子どもの頃あきらめていた『普通の幸せな人生』が自分にも到来するかもしれないと、ほんの一瞬だけ夢を見ることができた。私自身にとっても、日本と日本人にとっても最後のいい時代だった。

中学生の頃、両親が近所に住んでいる日本共産党員からの勧誘を断り切れずに「しんぶん赤旗」日曜版を購読していた影響で、日本共産党の政策や主義主張は知っていたが、大学に入り、自治会執行部の座をめぐって日本民主青年同盟(日本共産党の「みちびきを受ける」とされる青年組織)と共産同戦旗派が激しく争っていた。私の所属学部の執行部は戦旗派に握られており、民青の学生が「奪還したいので協力してくれないか」と依頼してきた。ちょうど、戦旗派系サークルの部室が、対立していた革マル派によって放火される事件があったことに加え、中国で天安門事件が起きた直後。「暴力的社会主義」にはうんざりしていたので協力すると回答した。

だが、私は小学生の頃から学級委員や児童会・生徒会などの仕事はもちろん、班長の経験すら持ち合わせていなかった。人と同じことをこなすのさえ無理な私に、人並み以上の働きでメンバーをまとめる仕事なんて聞いただけで気が遠くなる。「長」のつく仕事などまったく向いていなかった私に立候補の選択肢はなかった。結局、学部内でも屈指の「お祭り男」T君が民青に請われて自治会役員選に出馬。私はとりあえず裏方に徹し、なんとかT君を当選させ、学部自治会執行部から戦旗派を追い出すことには成功した。

選挙後、私も民青に勧誘されたが、渡された全学連機関紙の「祖国と学問のために」という名称が気に入らなかったため断った。国家は資本家階級の利益を守るためにあり、それゆえ「労働者に祖国はない」というのがマルクス主義国家観の基本なのに、それを学んでいる民青系全学連が機関紙に「祖国」なんて名称を冠するのは論外だと思ったからだ。

   ◇    ◇    ◇

子どもの頃から、私は「長」のつく役職など無縁の人生を送ってきた。それは半世紀近く経った今なおまったくといっていいほど変わらない。やはり、子どもの頃に形作られた資質はそうそう変わらないものなのだ。興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っている自覚も幼少時からある。だからこそ私はこれまで「派閥は作らず、加わらない」「主流派には乗らない」を自分の信条としてきた。主流派なんて面倒なだけだ。権力闘争に向けられるその無駄なエネルギーを、専門分野を磨くことに費やす方がよほど自分の性に合っている。

「人事部があなたの扱いに困っているらしい」という話を、職場で人づてに聞いた。ちょうど昨年の今ごろだった。私は胃がんで胃を全摘出した経験もある上、今も月に1回、精神科に通い精神安定剤の処方も受けている。平成の時代までであればとっくに出世レースからなど外れて当然だが、安倍政権が「一億総活躍」などという変なスローガンを掲げた手前、病歴を理由に昇進の道を閉ざすことも、後に続く同じような人たちを絶望させることになるためできないらしい。

前から述べているように、私自身は昇進なんてまるで興味がないし、最強の兵隊でいることが最も自分らしい人生だと思っている。私が苛立っているのは昇進できないからではない。いつまでも踊り場に留め置かれたまま、私はもう何年も待っているのに、上の階に上る階段、下の階に降りる階段のどちらに通じるドアもまったく開く気配がない。私はいつまで踊り場に居続けなければならないのか--苛立ちの原因はそこにある。どっちでもいいから決めてくれよというのが正直な気持ちである。

落ち込んだときに私がよく聴いている曲を紹介したい。渡辺美里さんの「世界で一番遠い場所」。高校に入学した年、人生で初めて買ったCDが、この曲の入ったアルバムだった。「手に入れた自由に 淋しさを感じても Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで」--この曲のこの歌詞に、今まで何度、励まされたかわからない。飛び立つための翼を手に入れる日が私に来るかどうかはわからないけれど。

とりあえず今日は最後にこの曲を聴いて、寝ることにしよう。

世界で一番遠い場所


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閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事

2024-06-02 23:21:08 | 日記
6月に入った。

4~5月はとにかく忙しかった。4/13、長野県大鹿村でのリニア問題学習会での報告、4/27「ノーモア尼崎事故!生命と安全を守る集会」での記念講演、5/15にはレイバーネットTV「日本の空は大丈夫か~羽田事故とJAL争議」に出演した。そして、5/25には、私が原告になっているALPS処理汚染水差止訴訟についてのオンライン報告もあった(こちらも資料を公開できるならしたいが、残念ながら有料会員向け講演会のため公開できないこと、お詫び申し上げたい)。

2週間おきに人前に出ての著述活動を続けてきており、1つが終わったら次の準備に取りかからなければならない状況で、他のことを考える余裕はまったくなかった。今後しばらくこうした予定は入っていないため、改めて自分の置かれている現状に思いを至らせると、ずいぶん閉塞感が強まっていると感じる。

定期的に全国異動のある我が職場だが、2013年4月に北海道に来てから今年で11年を過ぎ12年目に入っている。空気も水も食べ物もおいしく、本州にいるときは春になるごとに私を悩ませていたスギ花粉症とも無縁(函館など道南の一部地域を除き、北海道にはスギがない)。人々もみんなのんびりしていて、公共の場所でベビーカーを見ただけで子育て世代とクレーマーの反目が始まる東京のような殺伐としたムードは札幌でもまったくと言っていいほどない。ここの暮らしはかなり気に入っていて、もう本土帰還などできるならしたくない、このまま現状維持でも悪くないとずっと思っていた。ついこの間までは。

私の心がざわついたのは今年4月1日付の人事が公になってからである。今の職場に来る前に出向していた関連法人で、仲良く机を並べていた係長クラスのほとんどが昨年春までに課長補佐(準管理職)になった。同期採用者にはすでに課長になった人も少なからずいる。年次が後の人の中にも課長補佐昇格者が出ているが、彼らは私が経験していない本部勤務を経験している。本部経験者は同期採用者であっても「別世界(世間で言うエリートコース)の住人」なので、私には関係ないと全然気にしていなかった。ところが、年次が後で本部勤務経験もない人物が今年4月、課長補佐に昇任すると聞き、今まで「みんな早いな」と思っていたのが、逆に自分が遅れているだけだということが見えてきたのだ。

4月で異動した前の課長からはそれなりに評価を受けていると思っていた。2人で出張した際、ホテルで食事をしながら「あなたには早く昇任してほしい」と言われていたからである。だが今になって思い出してみると、課長が私に期待していたのは、他派閥に奪われていた課長補佐ポストの奪還だったことに改めて気づいた。3月に人事評価の面談をした際に課長が不機嫌だったのは、私にその期待を託したのに叶わなかったからに違いない。

課長が組織内派閥抗争の「駒」とする目的で、私自身は望んでもいない管理職レースに勝手に乗せたということに気づき、私も大きく傷ついた。管理職への忌避感情はより一層強まり、「仮に打診されても絶対に受けるか」と今は思っている。毎年秋に、人事上の希望を書いて出せる制度が職場にはある。秋までの半年で私の気持ちが変化するかどうかは見通せないが、件の課長が異動してしまったこともあり、気持ちは変わらない可能性が高い。おそらく「北海道内の職場で今まで通り係長として業務を続けたい」と書くことになると思う。

私より年次が後の人の課長補佐昇任がすでに始まっているが、私は他人のことにはそもそもあまり関心がない。職場関係者でこのブログの存在に気づいている人がいるかはわからないが、敵とみなした人物はブログ上で容赦なく打倒・粉砕を呼びかける私のような人物をリーダー職に就けることはあまりに冒険が過ぎると思うのが普通の感覚だろう。

私はこれまで原発問題での各種講演などにも呼ばれ、話をすることもあったが、どこの反原発運動団体でも役員などの職には就いていない。そのことを講演主催者に伝えると驚かれることも多く「宣伝チラシにあなたの肩書きを何と書いたらいいか」と相談されることも多かった。結局は「元福島県民」とでも書くよう依頼し、そのようにしてもらうことが多かった。きちんと勉強し知識を身につければ一兵卒でも巨大な敵と闘うことができる。むしろ私のようにリーダー職に不向きな者は「兵隊として最強」を目指すべきだというのがかねてからの私の持論である。

実際、最近はどんな人物が課長で来ても「○○さん(私の本名)は大ベテランなので仕事をいろいろ教えてください」と言われるし、本部勤務経験が浅い人が私に仕事に関する質問をしてくることもある。最強の兵隊として頼られる位置にいることのほうが、薄っぺらな管理職であることよりよほど意味のあることなのではないか。最近はそんなふうに思うことも増えている。

  ◇     ◇     ◇

そして私には「原体験」もある。今からもう50年近く前、幼稚園の頃の遠い出来事である。

当ブログ2月14日付記事で書いたように、私はもともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。学校でみんなでいっせいに何かやるときに、自分だけついて行けないことがしばしばあった。懸命に努力しても、追いつけなかった。なぜだろうと考えたが、理由はわからないままだった。

特に苦手で、イヤでたまらなかったのがマラソンだった。通っていた幼稚園では、毎日、園をスタートし、決められたコースを1周して園まで戻ってくるマラソンがあった。雨が降れば中止になるので、ビリ常連の私はいつも雨を願っていた。

それでも一時期までは同じように走るのが遅かった同級生の女の子と、ビリになるのがイヤで競っていた時期もあった。仮に智子ちゃんと呼んでおこう。

私と智子ちゃんはいつもビリ争いの常連だった。毎日ビリが続くのがイヤで、私は智子ちゃんを出し抜くにはどのタイミングでスパートをかけるのがいいか、いろいろ試していた。スパートが早すぎて息切れし、ゴールまでに逆転されたので、翌日はゴール直前になってスパートをかけたがゴールまでに追いつけなかった。概して私の作戦は成功しないことがほとんどだった。

それでも、毎日ビリ固定がイヤだった私は、ある日、余力を残したまま、智子ちゃんにつかず離れずの位置をキープしておき、早くもなく遅くもない絶妙のタイミングで全力のスパートをかけた。今度こそ成功……と思った瞬間、悲劇は起きた。舗装状態が荒く、でこぼこになった路面につまずいて転んでしまったのだ。

智子ちゃんがどんどん遠ざかっていくのがわかった。起き上がろうとしたが、出血した傷が痛くて気力が萎えていくのがわかった。一方では先生が「何してるの! 速く走ってゴールして! 次の(お遊戯の)準備が間に合わないよ!」と叫んでいるのが聞こえてきた。ようやく起き上がったが走る気力もなく、よろよろと歩いてかなり時間をおいてゴールした。疲れ切っていて、先にゴールした智子ちゃんが声援を送ってくれていたことにも気づかないまま。そのことを知ったのはかなり後になってからだった。

「もうイヤだ! マラソンなんてしたくない!」

幼稚園から帰った私は母の前で号泣した。得意でもないことを集団生活の中で強いられ、疲労が限界に達していた。母には叱られるかと思ったが、意外にも何も言われなかった。代わりに言われたのは「負けるよりは勝つ方がいいに決まっているけれど、全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」。それを聞いて心が軽くなった気がした。

その翌日から、私は自分のペースで最後まで走りきることに専念した。スタート直後からズルズルと後退していく私を見て、智子ちゃんは最初、戸惑っていたが、2~3日経つと、私が競争を放棄したのだと理解したようだった。すると、驚くことに智子ちゃんも自分のペースで走るようになった。私がいる限りビリになることはないという安心感もあったと思う。先にゴールした智子ちゃんが応援する声が聞こえるようになった。毎日ビリでも、それが自分のいるべき場所なら仕方ないと、割り切ることができるようになった。私は2年保育だったが、年長になっても後で入園してきた1年生より足が遅く、卒園するまでずっとビリのまま終わった。智子ちゃんが2年目に何位だったのかは聞かなかったし知りたいとも思わなかった。

私に速く走らせることをあきらめた先生が、それまでは直前にしていたマラソンの後のお遊戯の準備を、朝一番に整えてからマラソンに臨むように変更してくれていたことを知ったのは、卒園する直前のことだった。迷惑をかけたのにお礼を言わないまま卒園してしまい、先生には申し訳ないことをしてしまったと今は思っている。

  ◇     ◇     ◇

半世紀近く前の遠い記憶を呼び起こしたのは、今また出世レースで自分がしんがりにいるらしいということに気づいたからである。20歳代前半で私を産んだため、母は後期高齢者に入ったが実家でまだ健在である。このことを話したら母はなんと言うだろうか。もし半世紀前と変わっていないなら、「あの日」と同じように言うはずである。「負けるよりは勝つ方がいいに決まっているけれど、全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だと。

今の私は、この母の言葉を拠り所にして生きる以外にないと思っている。大切なのは最後までやり抜くこと。目の前に与えられた仕事、課題にしっかりと向き合い、ひとつひとつ、結果につなげていくこと。結果に結びつかないときでも、腐らずに次につながる「何か」を残すこと。マラソンがイヤで号泣しながらも、2年間、1回も途中棄権はしなかった。転んでよろめきながらも走った回数と同じだけゴールをつかんだ。あの半世紀前の経験に学ぶことが、今の私には大切なことのように思う。

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路傍の雪が溶け、他人の幸せを祝う春

2024-03-30 23:43:23 | 日記
1月は行く、2月は逃げる、3月は去るの例え通り、早いもので今年もまもなく4分の1が終わる。私はこの4月も人事異動はなく、2013年4月に始まった北海道生活はついに12年目に突入する。

それなりに上手くいっていると思っていた職場の上司との関係は、結局、昨年8月のある「事件」をきっかけに壊れてしまい、修復に至らなかった。自分の行動が原因で起きたトラブルなので自業自得ではあるのだが、それ以来、私と冷たい関係だった上司も4月1日付で異動する。後任者は、北海道の最初の職場で直属の上司だった人物で、諸手を挙げて歓迎するほどいい人物というわけではなく、クセもあるが、以前一度無難にやれているので、あまり心配はしていない。

昨年8月の「事件」以来、プライベートでも20年以上にわたって馬車馬のように執筆活動を続けてきた「ある媒体」でトラブルが起き、休筆宣言に至るなどどうも歯車が狂った感じでぱっとしない。上司が代わることで心機一転の再スタートを切れるかどうかは微妙な感じがする。事態に今後の好転の見通しもなく、2024年は無理せず我慢の年だと割り切ることにする。

一方、自分が関わってきた他人に目を向けると、嬉しい出来事が立て続けに起きている。

自分が加盟している地域ユニオン(自由加盟の労働組合)に駆け込んできた26歳の若者がいる。札幌市内の「中抜き、中間搾取だけのペーパーカンパニー」、最大限好意的に評価しても「クソ会社」レベルに過ぎない会社に奴隷労働をさせられ、光熱費も払えないほどの困窮状態だった。ユニオン執行部が東京に所在しているため、「北海道班」としてこの間、緊急生活支援を引き出すための社会福祉協議会との交渉、生活保護申請のため区役所への2度の同行、未払賃金を支払わせるための「クソ会社」との交渉や情報収集(登記簿取得など)を昨年秋から半年近く続けてきた。どれも自分の人生で初めてのことだらけで、はっきり言って苦しかった。

だが、ここに来てようやく成果が出始めた。本人は発達障害と思われる行動パターンが随所に見られ「生きにくさ」を抱えていることもあり、生活保護認定・支給にこぎ着けた。未払い賃金の支払いにも目処が立ちつつある。ポイントは、本人が「生きにくさ」を抱えながらも懸命に働き、生きてきたことにある。

もうひとつは、同じ職場に勤務している高校の同級生がいる。クラスメートとして一緒に学び合った同学年の女性だが、4月1日付け人事で準管理職(課長補佐)に昇任する。私の職場で課長補佐が管理職に該当するかどうかは微妙なところではある。労働組合に加入できなくなるという意味では管理職扱いだが、管理職手当は支給されず、従来通り残業手当が支給されるという意味では管理職に当たらない。そのためここでは準管理職としているが、昇任であることには間違いない。

高校時代、同じ教室で学ぶ中で「派手さ、賑やかさはないが、一度決めたことは絶対に最後までやり抜く堅実な人物」だというのが、彼女に対する私の評価である。彼女は大学卒業後、ストレートで今の職場に入ったが、私は1年の就職浪人をしたので、同級生とはいえ彼女のほうが職場では1年先輩に当たる。私生活では、お子さんを授かった際に1年ほどの育児休暇を取ったにもかかわらず、私より早い昇任なのだからお見事というしかない。

こういう状況になったとき、人は2つのタイプに分かれる。自分より早く昇任する人に対し妬みの感情を抱く人と、素直におめでとうとお祝いできる人である。私はずっと後者でありたいと願ってきた。早く昇任する人には、子どもの頃から学級委員や班長、部活動の部長などを務めた経歴を持つ人が多いが、そもそも私はそんな地位とは子どもの頃からまったくといっていいほど無縁だった。今も地位や役職にはほぼ興味がなく、昇任なんて自分の性に合わず苦痛なだけなので、回避できるならできる限りそうしたいと思っている。

昔も今も、私の役割はどん底で奴隷労働を強いられている労働者に生活基盤を与えること、他人の幸せを祝うことだと思っている。誠実で他人を裏切らない生き方、働き方をしている人には必ず春が訪れる。人間社会もまだまだ捨てたものではないと思える2024年春となった。

いつの間にか路傍の雪も溶け、草花の芽吹く春がすぐそこまで来ている。私自身は代わり映えもせず、たいしていいこともない春だが、この記事を書いているうちに、ふわりと自分の身体が軽くなった気がした。冬来たりなば春遠からじ。そのうち自分にも春は来るだろう。

そんなわけで、北海道からの情報発信12年目となる当ブログを、今後もよろしくお願いしたい。

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年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味

2024-02-14 23:12:53 | 日記
1月11日付け当ブログ記事で取り上げた、昨年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。

結論から言えば、2003年頃から20年以上にわたって、絶え間なく、それこそ馬車馬のように執筆活動を続けてきた「ある媒体」から、年明け以降、離れている。理由はよくわからないが、なんだか酷く疲れたのだ。

仕事(本業)のほうはおおむね順調に行っており、ここが火を噴くことは考えられない。職場で労働組合役員も務めているが、こちらでも不穏な兆候は全くない。長年労働運動をやって行く中で、協調すべき場面と本気で闘うべき場面の見極めくらいはできるつもりだ。メリハリをつけた活動が大事で、こちらも順調に行っている。

先のブログ記事では「私の身辺で最近起きている出来事の中には、いくつか不穏な兆候を示しているものがある」とほのめかす程度に留めておいた。「不穏な兆候」は「ある媒体」での執筆活動周辺で起きており、火を噴くならここかな……と思っていたが、それが現実になった形だ。「一葉落ちて天下の秋を知る」(淮南子)という故事成語にあるように、変化が起きる直前には何かしら兆候がある。「こんなことになるなんて思わなかった」が口癖の人は、一度、「錆びたアンテナ」の大掃除をしてみることをお勧めする。

   ◇   ◇   ◇

もともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。学校でみんなでいっせいに何かやるときに、自分だけついて行けないことがしばしばあった。なぜだろうと考えたが、理由はわからない。懸命に努力しても、追いつけない。自分がやっと作業を終えたら、周りはすでに次のステージに行っていたという経験も一度や二度ではない。

まだ発達障害という概念さえなかった時代。動作が遅い子は「のろま」扱いか「変人」扱いのいずれかに甘んじなければならなかった。もし今の時代に生まれ、子ども時代を過ごしていれば発達障害と診断されたに違いないが、そう診断されることが幸せかどうかはまた別問題である。今はともかく社会生活を送れているので、あえてそのような診断を受ける必要はないと思っている。

文章を書くことは昔から嫌いではなかった。だからといって特段、好きだったわけでもないが、人並みにできる数少ないことのひとつだった。時間が経っても原稿用紙が真っ白のまま鉛筆が動かないクラスメートを見て「思ったことを書けばいいのに。なぜできないんだろう」と不思議に思うことはあった。だがそれは他人と比べて劣っていないことの証明になるだけで、優れていることの証明にはならない。人並みにできるというだけで、自分が優れていると思ったことはなかった。

転機が訪れたのは小学校3年生の時だった。私の住んでいた地方の小学校では、偶数学年に上がるときにはクラス替えがない。担任も同じ児童を2年続けて受け持つ。3年生でも2年生の時と同じ担任に当たったので、この時点で4年間、同じ教師が自分の担任になることが決まったわけだ。40代の女性教師。仮にO先生としておこう。

夏休みに入る前くらいだったと記憶する。O先生から職員室に来るように言われた。「またどうせ動作が遅いと怒られるんだろう」と思い、気が滅入ったが、呼ばれた以上行くしかない。が、行ってみると予想外の展開だった。見たことのないような笑顔で「あなたの書いた作文が上手なので、先生が少し直して県の作文コンクールに出していいかな?」というものだった。

自分の作文が、後にそんな大層なことになると思わなかった私は「いいですよ」と適当に返事をした。県のコンクールで佳作に選ばれ、賞状をもらった。佳作は金賞、銀賞、銅賞に次ぐ。自分が初めて周囲から承認される出来事だった。

その翌年、O先生はまた私の作品を同じコンクールに出したいと言ったので、私はまた「いいですよ」と返事をした。今度は入賞はならなかったが、それでも高順位に入ったという連絡をもらった。7位か8位くらいだったと思うがはっきりした記憶はない。

母親との三者面談で、O先生が「この子には作文の才能があります。佳作を取ったときはまぐれかもしれないと思ったけれど、2年続けてこんな作文を書くのはまぐれではありません」と言うのがわかった。学校からの帰り道、「誰に似たのかしら」と母が不思議がっていたのを今でも覚えている。

その後しばらく、自分にそんな能力があることは忘れていた。文章を書くことは好きで続けていたが、駄文を量産しているだけだと思っていた。

2度目の転機は、高校2年の時だった。県立高校で、国公立大文系進学クラスに入った。最近の状況はわからないが、当時は二次試験で小論文を出題する国公立大学が多かったため、このクラスに入った生徒は週2回、「国語表現」という作文の授業を受けなければならなかった。担当したのは、またも40代の女性教師。仮にT先生としておく。O先生と同じくらいの年齢だったが、雰囲気はまったく異なっている。平たく言えば、O先生は母親みたいな雰囲気なのに対し、T先生は年の離れた姉のような雰囲気だった。

クラス全員が作文を書き、T先生の添削を受けた後のものを、全員の前で読んで発表する。他の生徒は感想を書き提出。自分以外の生徒全員の書いた感想が、後日、本人に渡される。授業はそんな形式で進められた。

ある日の放課後、係の用事で職員室に行ったときに、T先生に呼び止められた。担任でもなく、帰宅部で部活動もしていなかった私にとって顧問の関係でもないT先生に呼び止められる理由は作文以外に思い浮かばない。T先生は、その日たまたま空いていた隣の先生の席に着席するよう私に促すと、言った。

「次回の授業あたりであなたにも発表をしてもらいますけど、私が読んでほとんど添削する必要のない作文を見たのは久しぶりです。他の生徒の作文は、誤字脱字があったり、導入部分と本論とで論旨が正反対になっていたり、基本的な部分で破たんしているのも結構あるし、特に男子に多いんだけど『書いてる本人だけが面白くて、聞いてる他人は全然面白くない』というタイプのものが結構あるの。それに比べて、あなたのは面白くはないけど論旨が明快な上、一貫しているし、誤字脱字もない。少しだけ添削はしたけど、強いて言えばあなたの表現が国語担当として個人的に気に入るかそうでないかというのが理由で、破たんしているわけじゃないから、添削しないでおこうと思えばそれでもすんでしまう程度のものです」。

「久しぶりというのは、どのくらいですか」と私が聞くと、T先生は「そうね。私は20年くらいこの仕事をして、いろんな生徒の作文を見てきたけど、あなたレベルの子は、5年に1人いるかいないかくらいじゃないかな。当たり前だけど、高校には1年生から3年生まで、この3年間に入学してきた人しかいないわけだから、5年に1人レベルということは、要するにこの学校の在校生であなたより上手い人は、ほぼいないということです。・・・正直、ここだけの話にしておいてほしいんだけど、先生方の中にも文章が上手くない人がいて、あなたのほうが上手いって思うレベルの先生方が、割といるんだよね」。

T先生のこの言葉に私は衝撃を受けた。話すべきかどうか迷ったが、小学校の時に県の作文コンクールで佳作を取ったことを思い切って話すと「今回のあなたの作文見てると、嘘とも思えないね」と言われ、驚かれなかったことを覚えている。発表後、他の生徒が書いた40人分の感想用紙の束を渡されたが、内容に対する質問や意見はあっても、意味がわからないという不満は誰からもなかった。

自分の文章力に確信を持ったのはこのときだった。自分が長い間、抱いていた劣等感が「溶けていく」のがわかった。自分にはこんな得意分野があるのだから、他人と自分を比べる必要はないと思えるようになり、気持ちが楽になった。書くことが自分の居場所になった。

この経験がきっかけで新聞記者になりたいという夢を持ったが、大学時代に怠けすぎたせいか、他の職業の誘惑が大きかったせいか、結局その道には進まなかった。代わってその夢をかなえてくれたのが、「地域と労働運動」「レイバーネット日本」、そして今回離れることになった「ある媒体」だった。権力や支配者の不正を追及するのは労力がかかり、リスクも負うが達成したときの充実感は大きく、何物にも代えがたい財産だ。私が書かなければ埋もれていたかもしれない事実がいくつもあることは、当ブログの過去記事を読んでいただくだけでもご理解いただけるだろう。投稿後10年以上経ってもいまだに読まれ続けている記事もある。

「広く薄く」の何でも屋でありつつも、これだけは絶対に誰にも負けないという得意分野を1つ2つ持つことが、ライターとして生き残る秘訣といえる。もともと幼少時から鉄道ファンとして生きてきたため、鉄道・公共交通は自然と自分の専門分野になった。だが、文系で物理が選択肢にもならなかった自分が原発・原子力の分野を専門にすることになるとは夢にも思わなかった。福島第1原発事故は間違いなく自分の運命を変える出来事だった。ウソ・隠蔽・ごまかしに塗り固められたこの偏狭で有害な「ムラ」をペンの力で解体することが私の人生を懸けた仕事になるとの思いは「3・11」以降、一瞬たりとも揺らいだことがない。

   ◇   ◇   ◇

「ある媒体」での不穏な兆候は、昨年夏頃から出ていた。記事の本筋とは無関係で些末なことで揚げ足を取るような反応を示す人が多くなった。自分の書く文章には全身全霊を捧げている建前になっており、「ライターである以上、自分の書いた文章に一部でも『些末』な箇所があるなどと考えてはならない」との指摘を受けたら、おそらくそれには甘んじなければならないだろう。

だが、小説であれ新聞記事であれ、人が書く文章である以上、強調したい部分とそうでない部分、気持ちの乗っている箇所とそうでない箇所が生まれることは誰しも否定できない。そんなとき、自分があまり重きを置いていない部分、核心でない部分、気持ちの乗っていない部分に対して重箱の隅をつつくような指摘を、しかも短期間に連続して受けるというのはお世辞にも気持ちの良いことではない。

ひとつひとつはたいしたことではなく、心の奥底に沈めておけばすむようなことでも、蓄積するとそれが臨界点を超えてあふれ出すことがある。自分の中で、我慢がその臨界点に近づきつつあるという警報音が「不穏な兆候」の正体であることは、ライターとして割合早い段階から自覚していた。昨年12月23日夜に見た不穏な夢がその警告であることにも、うすうす気づいていた。

年が明け、私は「ある媒体」に対して休筆を宣言した。国際情勢から芸能ネタに至るまで、硬軟どんなテーマに関しても依頼者の要請に応じて書ける知識と力量は持っているつもりだが、いま思えばここ数年は「お仕事感」が強すぎて、「楽しく書く」というライターとしての生命力の源泉が枯れてきていた。

優れた文章、迫力のある文章には、揚げ足取りのような批評者をねじ伏せるだけの生命力がある。それが長年にわたってライターとして生き残ってきた私の率直な実感である。自分と読者、どちらの側も以前とそれほど変わっていないのに、ここに来てそのようなつまらない事態が表面化しつつあるのは、自分の書く原稿が以前のような力を失っているからではないか。だとすれば、今の私にとって必要なことは「お仕事感覚」の執筆が続くことにより枯れかけていた生命力の源泉を取り戻すことである。要するにライターとして「充電」が必要な時期に来ていると考えるに至ったのである。

「充電」には、好きなことを楽しく書くのが一番いい。私がどんなに忙しい中でも、このブログを閉鎖せず維持してきたのは、好きなことを楽しく書ける「ホームグラウンド」が必要だと認識しているからである。今年に入ってから、当ブログが昨年までとは比べものにならない頻度で更新されていることに、察しのいい読者諸氏はすでにお気づきかもしれない。

「ある媒体」に復帰するかどうかはもうしばらく様子を見たい。なによりも私自身が疲労を蓄積させることになった問題はなにひとつ解決されていないからである。以前と同じように、つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信ができたら、それが復帰の時である。

それでも書くことは好きであり、O先生、T先生と2人もの教師の「折り紙」もついている。動作が人より遅く、劣等感の塊だった私の能力に気づき、開花させ、承認という形で居場所をくれた2人の恩師は今どうしているのだろうか。小学生の時に賞を取ったこと、高校生の時に「5年に1人。今の在校生であなたより上手い人はおそらくいない」と言われたことは執筆を続ける原動力になっている。私が書くことをやめるのは、おそらく人生が終わるとき以外にないと思う。

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2024年新年目標、そして年末に見た奇妙な「夢」の話

2024-01-11 21:15:09 | 日記
2024年は帰省もでき、「年齢相応に衰えたものの年齢の割には元気」な親の顔も見られ、個人的にはいい正月だったが、新年早々、能登半島地震と羽田空港事故が起き、新年気分など吹き飛んでしまった。特に羽田空港事故に関しては、新年から2本(他の記事を含めると3本)の記事を「レイバーネット日本」に発表するなど、新年目標の発表どころではない多忙さの中にいる。

それでも当ブログにとっては恒例になっているし、昨日受診した人間ドックの結果も思いの外良好だったことから、やはり新年目標は発表すべきだと思っている。今年の目標は未乗車路線のうち5路線乗車とする。

2023年と同じだが、昨年は7月だけで11路線乗車と、我ながら狂っているとしか思えない勢いで乗車活動が進み、年の途中から目標を15路線に上方修正した。新規開業する「相鉄・東急新横浜線」、福岡市地下鉄七隈線延伸区間、宇都宮ライトレールのうち、相鉄・東急新横浜線だけでも乗りたいと控えめな目標にしていたが、結局、全部乗ることができた。昨年は上手く行きすぎたと思っている。2024年は、新規開業のような強いモチベーションを起こさせる路線もないので、2023年の新年目標同様、控えめなところからスタートさせたい。

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ところで、普段は夢を見ることはほとんどない私だが、年末年始は普段と環境や精神状態が違った状態になることが多いせいか、向こう数か月を占うようなメッセージ性の強い夢を見ることが多い。今年は年始にこそなかったものの、昨年末--12月23日の夜から24日の朝にかけて、また見た。

夢の内容も、それから3週間経っているのに、今なお鮮明に思い出せるほど画像がはっきりしており、忘れようにも忘れられないが、記憶は風化するものなので、今のうちにその内容を記録しておくとともに、例によって夢判断サイトに書かれている内容と併せ、自分なりの解釈を加えておきたい。

私個人の備忘録的な意味合いもあるので、興味のない方は読み飛ばしていただいてかまわない。

<2023年12月23日夜に見た夢の内容>

場所はショッピングセンターかどこかの立体駐車場の4~5階くらい。用事を終え、駐車場に停めていた自分の車に乗るため歩いていたところ、どこからか火の手が上がり、猛烈な勢いで自分のいる駐車場にまで燃え広がってきた(が、不思議と火災現場特有の、煙に巻かれるような息苦しさは感じなかった)。早く車を脱出させなければと思い、走って車に向かったが、出口が1か所しかない立体駐車場の、その出口にまで火が回っていて出せそうにない。やむを得ず車をあきらめ、まだ火の手の回っていない階段を伝って1階まで降りることができた。自分自身だけは焼死を免れたが、全体に火の手が回り、勢いよく燃える駐車場を呆然と見ていた。
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ここで夢が終わったため、自分の車が燃えたかどうかははっきりしないままだったが、全体的に見た夢の印象からは、全焼している可能性が最も高そうに思われた。

私は過去に一度だけ、自分が死ぬ夢を見たことがある。そのことは、かなり昔のことだが2005年12月12日付の当ブログ記事「怖い夢の話」に書いている。不思議と怖さは感じなかったが、このときも「新たな旅立ちが近づいています」という某夢判断サイトのメッセージを紹介しながら、それが何を示しているのかはその時点ではわからなかった。

今回も、メッセージ性の強い夢で気になったのでいくつかの夢判断サイトを回ってみた。夢の中では車が「自分自身の社会的地位や立場(特に仕事面)」を表すこと、燃える夢が基本的に凶夢である一方、火災の後には建物が建て替えられるなど「崩壊」と「再生」の両面の意味を持つことでは、ほぼすべてのサイトが一致していた。

車ごと燃えて自分が焼け死ぬ夢だと、2005年に見た夢と同じく「新たな旅立ち」を意味するが、今回は自分だけは逃げ出し辛くも難を逃れている。これは一見いいことのように思われるが、夢判断としては逆で「変化を拒絶し現状維持でいたい自分自身」を投影しているといくつかの夢判断サイトは指摘している。

これらを参考として、今回見た夢に自分なりの解釈を加えると、以下のようになる。

平凡に考えても、自分の仕事(本業)か、仕事に近い位置を占めている重要な活動のどこかで、近いうちに大きな転機がやってくる。それは、2005年の夢の半年後に起きたことが妻との結婚だったように、それ以前の自分の人生には二度と回帰不可能なほど決定的な転機の訪れを暗示している。

2005年の夢と異なり、今回、自分自身は死なずに車だけが全焼している。燃えさかる車の前から逃げ出すことで、自分自身としては変化を拒絶し、現状を維持したいと思っているが、そんな自分の意思と無関係に車が全焼(崩壊と再生)していることから、転機は自分が拒絶しようとしても否応なしに訪れる。

ほとんどの夢判断サイトが夢の中での「車」を社会的地位の象徴としている点で、転機は家庭生活などプライベートな領域ではなく、仕事や仕事に近いウェイトを占めている活動など、社会との接点を持っている領域で起きそうな予感がある。実際、私の身辺で最近起きている出来事の中には、いくつか不穏な兆候を示しているものがある。

一方で、夢に現れる「火災」に「再生」の意味が含まれているように、私にもおそらく「出口」「新たな道」が用意されている。来年の今ごろ、もしかすると私は今とはまったく異なる新しいステージに立っている可能性がある。とりあえず、それが何か今の段階ではわからないが、近く訪れるかもしれない転機に向け、心の準備だけはしておきたいと思う。

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【年末ご挨拶】今年も1年、お世話になりました

2023-12-31 23:22:37 | 日記
鉄道全線完乗実績まとめ、10大ニュースの発表も終わり、ようやく年末という気分になってきました。

2023年もあと30分足らずになりましたので、ここで年末のご挨拶を申し上げます。2023年に起きた出来事の評価は後世に委ねたいと思いますが、昨年に引き続き、歴史に残る激動の1年だったとともに、「今思えば、あの年が転機だった」と言われる年になりそうな気がします。

個人的には、新型コロナの5類以降によってほとんどの活動が対面に戻り、ここ数年来では最も忙しい1年でした。また、10大ニュース番外編に発表したとおり、2021年に続く2作目の著作を発表することができるなど、充実の1年だったと思っています。

なお、今年1月に義父が死去したため、今年は喪中です。年賀状が欠礼となりますことをご容赦ください。

間もなく新しい年となります。みなさま、よいお年をお迎えください。

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お正月こぼれ話~ブログ仲間と「闘うオフ会」②守田敏也さんと京都を歩く

2023-01-03 20:24:33 | 日記
1月2日。昨日に引き続き、今日もネット上だけのおつきあいだった方とリアルで初めてお会いする。昨日と異なり、今日は妻も同行している。ブログ「明日に向けて」管理人、守田敏也さんと10時に京都駅で落ち合う。守田さんは福島原発事故後にこのブログを立ち上げ、フリージャーナリストとして放射能被ばくの問題と向き合い続け、その危険性を訴える活動をほぼ休みなく続けてきた。

京都駅から地下鉄烏丸線で烏丸御池へ。東西線に乗り換え、東山で降りる。最初の訪問地、南禅寺を見る。

<写真>南禅寺


南禅寺内部を拝観後、お茶席(有料)で抹茶をご馳走になる。拝観後、近くの湯豆腐屋で昼食を取ろうとしたが、満席だったため、うどん屋「大力邸」に変更する。この店は、うどん屋を名乗っているものの、本業は精肉卸売業で高級牛肉に定評がある。守田さんは肉うどんを注文。私は別のうどんを注文したが、やっぱり肉うどんがよかったかなぁとも思う。

お腹を満たした後は、3人でしばし談義。守田さんはこれまで、原発問題を中心に発信、講演活動などを続けてきたが、最近はこれに加えて経済問題、特に社会的共通資本に対する問題意識が加わってきているという。拙著「地域における鉄道の復権 持続可能な社会への展望」(緑風出版)、「住民の足を守ろう―権利としての地域公共交通」(月刊「住民と自治」2022年8月号)の話をすると、ぜひ購入したいとのことだった。後日の送付を約束する。

午後からは銀閣寺を訪れる。京都には、中学時代に修学旅行で来ているが、二条城、清水寺などには行ったものの、銀閣寺はもちろん金閣寺も訪れていない(金閣寺と東映太秦映画村はどちらか1つだけと学校に言われ、まだ子どもだった当時の私たちは迷わず映画村を選んだ)。したがって、銀閣寺は今回、初訪問となる。

<写真>銀閣寺


それにしても、コロナ禍で中止されていた外国人の受け入れが再開されてまだ半年程度なのに、もうそこここに外国人観光客が往来しているのには驚かされる。最近は北海道も外国人が増えてきているが、この状況だと、コロナ以前、京都市営バスが観光客に占拠され、京都市民が乗れないなどといわれて騒ぎになった「観光公害」状態に戻るのも時間の問題だと思う。

銀閣寺を見た後、歩き疲れた私たちは喫茶店で歓談する。当ブログでも取り上げている昨年10月の国連特別報告者セシリア・ヒメネス・ダマリーさんによる「国内避難民の人権に関する訪日調査」など、原発や放射線被ばく、福島県内の状況や避難者の現状などが話題に上った。

午後4時00分京都発の特急「はるか41号」に乗るため、3時頃喫茶店を辞す。タクシーで今出川駅まで行き、地下鉄烏丸線で京都へ。何とかぎりぎり間に合う。関西空港から新千歳行きANA便で帰宅。帰省している間も北海道は温暖だったようで、路面にほとんど雪がなく、道外用に履いていた雪道用でない靴のまま帰宅できたのは驚きだった。改めて今年の冬の異常さを思う。

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お正月こぼれ話~ブログ仲間と「闘うオフ会」①大阪・釜ヶ崎越冬闘争の現場で

2023-01-02 23:07:45 | 日記
さて、今年の正月は3年ぶりに行動制限がなかったため、私も12月29日から久しぶりに実家に帰省した。数年前に後期高齢者入りした父に続き、今年は母も後期高齢者入りする。この年齢で五体満足ということはないが、幸い、見た限りではもう少し余生を送れそうな雰囲気で、良かったと思っている。

九州の自分の実家に帰った後、元日に出発し、妻の実家のある大阪に向かう。今回は諸事情で元日から1月2日までしか大阪に滞在できない。その上、元日の夕方から2日にかけて時間が空いてしまったため、関西方面でかねてからお会いしてみたいと思っていた方に連続してお会いすることができた。今回はその話をしておきたいと思う。

1人目は、ブログ「アフガン・イラク・北朝鮮と日本」管理人のプレカリアートさんという方である。JR福知山線脱線事故(2005年)当時に当ブログを知って以来、もう20年近くも当ブログの記事を読んでいただいている。私も、イラク戦争と前後して「アフガン・イラク・北朝鮮と日本」を時折閲覧するようになり、それは今なお続いている。政治的立場もきわめて近い方だと思って以前から親近感を抱いていた。書き込みからは、流通業に従事する非正規労働者の男性で、私と同じく鉄道ファンという人物像が見えていたが、それ以外のことはまったくわからない。正直なところ、会ってもらえるかどうかも含め、手探り状態だった。

12月に入って連絡を取ってみたところ、元日なら公休日なのでお会いできるとの返事があり、さすがに嬉しくなった。ネット上だけだった人と実際にお会いする体験をするのは、今はもう閉鎖されてしまったネットの掲示板で初めてのオフ会が開催された1999年以来のことだ。なんと20年以上ぶりである。

プレカリアートという言葉にはちゃんと意味がある。「不安定」を意味する英語のprecarious、またはイタリア語の precarioと労働者階級を意味するプロレタリアートを掛け合わせた造語で、非正規雇用が一般化した2000年代頃から使われるようになった。ただし、用語のニュアンスとしては階級意識を持ち、きちんと働いて生計を立てている非正規労働者が、誇りを持って自称するための用語である。プレカリアートユニオンという労働組合もあるくらいだ。

(まったくの余談だが、団塊世代の元学生運動家の間では、革命に役立たない落ちこぼれ労働者をルンペンプロレタリアート、略してルンプロと呼んでいた。マルクス自身がそう呼んでいたことに由来する。学生運動家が「ご通行中の労働者、学生、ルンプロ諸君! 我々は○○派です」などと街頭演説していた時代があった。ルンプロは蔑称であり、労働者が自分自身をそう呼ぶことは決してなかった。これに対し、プレカリアートは労働者が自称するのに恥ずかしくない用語であり、かつてのルンプロとはまったく違っている。)

待ち合わせ場所に現れたプレカリアートさんは、私より小柄な方で、かつて西成で日雇い労働をしていたイメージからはかけ離れていた。物腰も柔らかく、人格者であることはすぐにわかった。

しばらく、西成区の日雇い労働者の町、あいりん地区を案内していただいた。今では言われないと、ここがあいりん地区とはわからないくらいに街並みはきれいになっているが、プレカリアートさんによれば、かつては女性、いや男性でも夜間、ひとりで歩くのは危険なほど治安は悪かったという。時折、阪堺電車が走っていくのが見えた。今でこそ新型車両に置き換わったが、かつては「半壊」電軌と呼ばれていた時代もある。

<写真>あいりん労働センター争議団事務所前。建物の取り壊しの計画があり、労働者が阻止のため寝泊まりしている


<写真>あいりん地区から見える白い瀟洒なホテルは星野リゾートが建設。外国人富裕層が主に利用するという。
日雇労働者との間に「階級社会」が到来していることを見せつけられる


その後は釜ヶ崎で行われている越冬祭りの現場に2人で行く。日雇い労働者は、仕事がなくなる年末年始に生活が困窮することが多く、炊き出し支援が行われてきた。東京・山谷、名古屋・笹島、そしてこの大阪・釜ヶ崎が日本3大越冬闘争として知られている。会場で配られたパンフレットを見ると、この越冬祭りも53回目と長い歴史を持つ。

実はこの釜ヶ崎越冬闘争、過去2年は新型コロナのためステージ企画などの祭りは中止され、弁当配布だけの異例の形となっていた。行動制限が解除され、この年末はステージ企画、温かい食べ物の炊き出しが3年ぶりの復活。この支援を心待ちにしている労働者がいかに多かったかは、私にまで「炊き出しはどこでやっていますか」と尋ねてくる人がいたことからもわかる。3年ぶりに炊き出しが復活するとあってか、会場にいる労働者にどこか安堵の表情が見えたような気がしたのだ(もっとも、今回が初めての私には、過去との比較はできないものの、少なくとも悲壮感は見えなかった)。

プレカリアートさんから「炊き出しのカレーを食べませんか」とお誘いを受けた。私には正直、2つの意味でためらいがあった。1つは、日雇い労働者でもなく、安定した正規雇用を保障されている自分に炊き出しの列に並ぶ資格があるのか、というある種の「後ろめたさ」。もう1つは、自分が並ぶことで本来、食べられるはずだった誰かが食べられなくなるのではないかという「恐れ」だった。

だが、そのどちらも杞憂だった。日雇い労働者は無料で食べられるが、それ以外の人も100円を払えば炊き出しを利用できるという。しかも、大量に振る舞われ、既に1杯目を食べ終わった人たちがおかわりに長蛇の列をなしている。誰かがあぶれる心配もしなくて良さそうな雰囲気だった。

胃の摘出手術をして以来、極端にスパイスの効いた辛いものを食べると下痢をしてしまうことが多く、食べるかどうかに迷いもあった。だが、私のような立場の人間にとって、普通なら接点を持てないはずのプレカリアートさんとせっかくこのような形で労働者同士の連帯が芽生えようとしているのだ。一晩くらいなら影響があってもかまわない。それより労働者同士の連帯のほうが大事だ。食っちまえ! とばかりに口に運んだ。幸いなことに、カレーを食べたことによる体調悪化は見られなかった。術後6年経過し、少々の刺激物なら受け入れられるようになってきていることを、改めて確認できた。

<写真>釜ヶ崎越冬祭りにて、踊っているスタッフ。公園内では「参加者の顔が見える形での撮影・配信は禁止」となっていたが、今どき漢字で「夜露四苦」なんて……昔の暴走族みたいなノリで、面白くてつい撮影してしまいました。後ろ姿だし、お許しを……(ちなみにヤンキーや暴走族の場合は「夜露四苦」ではなく「夜露死苦」と書く場合が多いです……って、何を言ってんだか)


<写真>炊き出しで出されたカレー。おかわりで並ぶ労働者も多く、越冬闘争の重要さを思い知らされる。
もっとも、本当に重要なのは「休暇を取っても賃金の減ることのない」安定雇用だと思うが……


大阪という土地柄もあるのかもしれないが、労働者が煙草を吸っては、吸い殻をポイポイと公園内に捨てている。それを1本1本、拾って歩くスタッフもいるなど、越冬祭りには「秩序」と「カオス」が同居して不思議な魅力がある。祭り全体としては地域に迷惑をかけない形できちんと自己完結できていることも、この越冬闘争が長く続いている秘訣だと感じた。

夜のとばりが降り、カレーが配られ始める頃、自称「いおり」さんという年齢不詳の女性シンガーがステージに立つ。ここで歌い始めて10年ほど経つと自己紹介。「誰でも知っている曲を歌いま~す!」と宣言。THE BLUE HEARTSの「青空」、山本リンダの「こまっちゃうナ」「どうにもとまらない」をノリノリの熱唱。なるほど、私たちの年代でこれらの曲を知らない人はいないだろう。

ちなみに「青空」はTHE BLUE HEARTSのなかでも気に入っている1曲である。「生まれたところや皮膚や目の色で いったいこの僕の何がわかるというのだろう」という部分が、特に好きだ。つまらない差別や、ヘイトや、弱者へのバッシングを繰り返す愚か者への怒りがわいたときに聴くことにしている。

プレカリアートさんは、年末年始といっても公休日以外は出勤で、普段と変わらない。明日も仕事があるため、カレーを食べ終わった午後6時半頃、再会を期して別れた。

ブログを見ている限りでは、もっと尖ったキャラクターを想像していた。繊細な妻を会わせるのはちょっとどうかな、と思い、妻に同行を求めなかった理由もそこにある。だが、プレカリアートさんに事前に抱いていたイメージはいい意味で裏切られた。オフ会の楽しさ、醍醐味だ。次回、関西方面に来るときに、彼の負担にならない範囲でまた会えたら、と思う。

この国を動かしている「エリート」と呼ばれる人にこそ、ここで働いている人たちの姿を見てもらいたいと私は思っている。この国と社会の「もうひとつの姿」など、興味も知る気もないかもしれないが、不安定な雇用形態であっても、労働者としての自分自身に誇りを持って働いている人が日本経済を支えている。社長や総理大臣が1ヶ月くらい不在でも日本経済は動くが、この労働者たちが1日でもいなくなったら日本経済は決して動かないのだ。

プレカリアートさんとの出会いが心地よく、すがすがしかったため長文になってしまった。本当は、この翌日(1月2日)の京都での「オフ会パート2」についても書きたかったが、稿を改める。

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