(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2022年6月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)
ロシアによるウクライナ侵略に端を発した戦争は、本誌が読者のお手元に届く頃には3か月を迎える。「危惧されるのは、お互いのメンツがぶつかったまま、落としどころが見つからず、消耗戦に突入して犠牲者数だけが積み上がることである」(本誌4月号拙稿)という予測通りの展開になってきた。
これまでにいろいろな識者がメディアに出演しては、無責任な言説を垂れ流す姿を見せつけられた。4月以降、そうした言説にうんざりしてメディアのウクライナ報道からは意識的に距離を置いている。ただ、この間の世界情勢を見る中で、いくつか明瞭になってきたこともある。先の読めないことに一喜一憂しても仕方ないので、今回は論点整理の意味も込め、現時点で明瞭になってきたことに絞って論じておきたい。
●パンデミックの「出口」としての世界大戦
約2年前の2020年3月――新型コロナウィルスの感染が急拡大し、初の緊急事態宣言が出される情勢の中で、筆者はこう論じている。少し長くなるが抜粋・再掲しておこう。
『世界史的に見ると、1720年代にはペストの大流行があった。1820年前後にはコレラが世界的猛威を振るった。1920年代には「スペイン風邪」が大流行。そして今回のコロナウィルス大流行だ。未知の伝染病流行は、まるで計ったように正確に100年周期で起きている。
歴史的資料が少なすぎて検証が困難な1720年代の事情や、人間以外の動物の動向も無視して近代以降の人類史だけで見ると、1820年代のコレラ流行時はフランス革命とアメリカ独立から半世紀弱という時代だった。アメリカは次第に国際社会で力を付けつつあったが、1823年、モンロー大統領が自国第一主義を採り、国際社会には積極的に関わらない、とする有名な「モンロー主義」宣言をしている。また、1920年代のスペイン風邪流行当時は第1次大戦が終了した直後で世界は疲弊していた。アメリカは第1次大戦に最終段階になって参戦、ヨーロッパがみずから始めながら終了させられないでいた大戦に終止符を打ったことで国際的な威信を高めたが、100年続いたモンロー主義を転換して積極的に国際社会の秩序づくりに関わるには至っていなかった。そして、今回のコロナウィルス大流行も、EUから英国が離脱、トランプ政権が「自国ファースト」を唱え、国際社会との関わりを縮小させる方向性を強める中で起きている。
こうしてみると、世界的な伝染病の大流行は、内政、外交ともに国際協調よりも自国優先の内向きの政策を採り、国際社会でリーダーシップを取る意思のない国が大勢を占める時期に起きていることが見えてくる。国際社会の「覇者」が交代局面を迎えている時期に大流行が起きているという共通点も見逃せない。』
世界は今なおコロナ禍の中にある。アフリカなど途上国には最初のワクチン接種さえできていない国や地域が多くある。新型コロナの確認からまだ2年しか経っていない以上、当然のことであろう。
しかし、ウクライナ戦争をきっかけとして、先進国の目は一気にウクライナに集中し、コロナ禍はすでに後景に退いてしまったかに見える。しかし、本稿筆者はコロナ禍の「後景化」にはっきり反対を表明する。コロナ禍とウクライナ戦争には密接な関連があるからだ。
筆者の見るところ、ちょうど1世紀前の時代と今の時代は怖いほど酷似している。1918年2月から1920年4月までの2年2か月間がスペイン風邪の流行期間とされている。スペイン風邪で失われた命の数は2500万に及び、それは第1次世界大戦における死者数(1千万人)よりも多かったことを、多くの記録が今に伝えている。
スペイン風邪の収束後、世界は一気に不安定化した。世界経済はやや遅れ、1929年10月に起きたウォール街での株大暴落をきっかけに世界恐慌が始まった。この混乱の中から、ヒトラーが完全に民主的な選挙で首相の座を射止めたのは1933年。6年後、ナチスによるポーランド侵攻を発端に、世界は第2次大戦に突入していった。
パンデミックは人と人との距離を広げ、対面でのコミュニケーションを困難にする。第1次大戦後の講和条約の締結について協議するパリ講和会議はパンデミックが継続する中で行われた。ウィルスを恐れるあまりに各国首脳が本音で協議できず、敗戦国ドイツに巨額の賠償を負わせる条項が盛り込まれたという(注1)。この巨額の賠償こそ、ドイツでのハイパーインフレの原因となり、ヒトラーの台頭を招くのである。
1世紀後の今日、ロシアのプーチン大統領に忖度なく正しい情報を報告し、信頼を置いていた側近との関係がコロナ禍で疎遠となる中で、プーチン大統領が次第に孤立を深め、正しい情報に基づく適切な判断ができなくなっていったとの指摘もある。やはり歴史は繰り返している。コロナ禍の影響を捨象したまま、今回のウクライナ戦争を「情報から閉ざされた専制的指導者による孤立的事象」として読み解くことは事態の評価を誤らせることになりかねない。だからこそ本稿筆者はコロナ禍の「後景化」は時期尚早だと考えている。
●核の時代には、過去2回の大戦と同じ解決策は採れない
世界史を理解している人であれば、過去2回の世界大戦がヨーロッパから始まったこと、みずから戦争を引き起こしながら、ヨーロッパは自分たちで戦争を終結させられなかったことは認識していることだろう。過去2回の大戦では、両陣営の戦力が均衡していたところに、2回とも米国が参戦したことが帰趨を決めた。過去2回の大戦当時と比べ、政治的発言力も国際社会における威信もさらに低下させたヨーロッパに、独力で今回の戦争を終結させる力があるようには、筆者にはとても見えない。
そのように考えると、今回も過去2回の大戦と同じように、停戦、終戦にはヨーロッパ外の勢力による働きかけが必要になりそうだ。ロシア、ウクライナのどちらにも利害関係を持たず中立的な第三国が望ましいが、世界は今、1世紀前とは比較にならないほど広範かつ複雑な利害関係で結ばれている。完全な中立国はないと見ておく必要がある。さしあたり、仲介が可能なのは中国、インドの他、NATO(北大西洋条約機構)加盟国でありながら非欧米的で独自の文化を持つトルコ、マクロン大統領がプーチン大統領と定期的に電話会談を続けているフランスなどが候補になりそうだ。いずれにしても、米国に付き従うだけの「属国コバンザメ外交」の経験しか持たない日本がその任にないことだけははっきりとしている。ろくな外交ができない日本が、いたずらに戦争拡大をあおり、危険な軍事援助を続けることは破滅を招く行為だと知る必要がある。
前々号でも述べたが、たとえそれが国際法で禁止されている力による一方的現状変更であったとしても、戦争では当事者の一方だけが絶対的な悪ということはない。ましてや、過去の日本によるアジア侵略戦争を「欧米列強による圧迫からアジアを解放するための聖戦だった」などと主張している連中が、今回のロシアによる侵略を否定していることは恥さらし以外の何ものでもない。
過去2回の大戦のような米国の直接的参戦という事態は断じて避けなければならない。過去2回の大戦と違うのは、人類を全滅させられる膨大な量の核兵器を持つ米ロ両国の直接対決につながるからだ。このまま推移すれば、戦争と同時に人類も終末を迎えかねない。
●危機は長期化する
ヨーロッパ外で今回のウクライナ戦争の仲介に動けそうな国々や国際機関は、本稿執筆時点でまだ浮上していない。今回のウクライナ戦争はある程度長期化するかもしれない。世界は不安定化しており、それに伴って人類滅亡の危機と当面「隣り合わせ」で生活していくしかない状態も今後かなり長期にわたって続くと覚悟しなければならない。
今日明日にも世界が破滅しておかしくないのに、誰もがそこから目を背け、危機など存在しないかのように毎日を享楽的に生きる――40歳以下の若い世代にとって、この不気味で奇妙な感覚は理解しがたいだろう。だが本稿筆者(50歳代)より上の世代にははっきりした記憶があるはずだ。懐かしくも二度と戻ってきてほしくないと思っていた東西冷戦時代のあの感覚である。東西両陣営のトップは核という最終兵器を背景に神経戦を繰り広げた。「緊張激化」と「デタント(緊張緩和)」という文字が新聞紙面を交互に飾った。突発的な事件が起きるたびに、今度こそ世界の終わりかと身構えた。またあの時代に戻るのかと思うと憂鬱になる。
しかも、これから始まる「第2次冷戦」はかつての東西冷戦よりはるかに不確実性が高いと筆者は思う。東西冷戦には資本主義対社会主義という明確な対決軸、イデオロギー対立が存在した。自分たちの理想とする社会を実現させるためには人類滅亡を回避しなければならないというある種の抑制が機能していた。哲学的な表現になるが、本能よりもイデオロギーという「超自我」(注2)を優先する必要に迫られていた。
しかし、当時の世界に存在した「超自我」は現在はない。世界は当時より今のほうがずっと本能的に動いている。日本ではまだ自覚されていないが、米国では国家権力によるあらゆる規制・介入を撤廃し、本能の赴くまま動物のように生きさせるよう主張する「リバタリアン」がすでに無視できない政治勢力として台頭している。本稿の主題ではないため今回は紹介のみにとどめるが、リバタリアニズム(自然的自由至上主義)はすでに日本でも若年男性層の大半を捉えていると筆者は見ており、10年後は日本でも政治的一大勢力としてはっきり自覚されると思う。大胆にいえば人々の分断線は、現在の米国のように、10年後は日本でもリバタリアンとそれ以外の人々との間に引かれることになろう。
●日本型組織には結局、危機管理はできない
日常化した危機が多くの予測不可能な変数を持ち、事態はどのような方向にも転化しうる。そのような不確実性の時代は、本誌読者の大半が生きているうちは続くのではないかと筆者は考えている。起こりうる事態のすべてに備え、全方位的な危機管理を長期にわたって続けなければならない今回のような事態は、いわゆる日本的組織が最も苦手とするもののひとつである。多くの日本的組織は「リソースは限られているのに、すべての危機への対処などできるわけがない」として、結局は何もしないことを選択するであろう。岸田政権が何もしていないのに空前の支持率を続けていることを不思議に思う読者が多いかもしれない。しかし筆者の分析は逆であり、岸田政権は何もしない「からこそ」高支持率を維持しているのである。
今振り返ってみると、昨年秋の総選挙直前に行われた自民党総裁選は、日本的組織のリーダー選出の典型例に見える。可もなく不可もない、どんぐりの背比べのようなトップ候補が並び立つが、積極的に何かにチャレンジしようとした人から順に失敗して減点され、レースから脱落していく。何もしなかった人が最後まで生き残り、リーダーに選ばれる。そのようなリーダー選びをした日本的組織の脆さは事故や不祥事などの危機に顕在化する。対応を誤り市場から退出させられる組織の姿を私たちは何度も見てきた。
問題なのは、評価が減点主義的で危機に脆い組織の多くが「競争相手がいない」ことだけを理由に生きながらえていることである。大事故を起こしたJR西日本や東京電力、多くの日本の市民にとって災厄の発信地でしかない自民党など、耐用年数が切れたと思われる日本的組織の多くが今なお1丁目1番地にいる。交代させたくても代わりとなる勢力は存在せず、浮上する気配もない。
このような時代に、特に自分の所属、帰属している組織が日本型である場合、構成員は所属組織に自分の運命を委ねてはならない。自分の頭で考え、自分の足で歩かなければならない。たとえそれがどんなに困難な道のりだったとしても。
●ウクライナ前には戻れない中で、私たちはどう生きるべきか
2022年2月24日を境に世界は新たな段階に突入した。コロナ前に戻りたいと夢想してもそれが叶わないのと同じように、ウクライナ戦争前に戻りたいとする願望も叶えられることはない。新たな不確実性の時代の中から、私たちは未来につながる何かを得なければならない。
「いいかい。社会というのはそんなに簡単に変わるものじゃないんだ。社会の中で人は生きるために食べなければならない。食べるためには労働しなければならない。その労働のあり方、生活様式こそが私たちの社会の下部構造を作っている。その下部構造の上に、社会の姿という上部構造が見えるに過ぎない。だからこそ、たかが1回の選挙や、10回くらいのデモや集会ごときで社会が変わるとしたら、そのことのほうが嘘っぽくて僕には信じられないよ」。
昨年11月。本稿筆者も執筆陣に加わり、共著として出版された「地域における鉄道の復権-持続可能な社会への展望」出版記念を兼ねた合評会で、主催者団体である札幌唯物論研究会会長から筆者はこのような言葉をいただいた。「こんなに努力をしているのに、どうして世の中は変わらず、自民党も倒せないんでしょうか」という私の疑問に対する会長からの「回答」だった。さすがは唯物論者と感心するとともに、うわべだけの政権交代などを追い求めるくらいなら、きちんと政治的足場を固めた上で、その足場を基礎に変革への種をまこうという決意が固まった。
自民党がそこまでして政権にしがみつきたいなら勝手にすればいい。その代わり私たちは自民党政権70年で腐りきった日本社会の土壌を入れ替える「除染活動」をしたい。下部構造を変えない限り、腐った土壌の上にどんな種をまいても腐った花しか咲かないからだ。きれいな花(=上部構造)を見たいなら、土(=下部構造)をきれいにしなければならない。ガーデニングの世界では当たり前のことだ。
政治も同じである。あちこちで市民と対話し、支持を広げ、民主的な地域を生み出す。原発や化石燃料で作られる大手電力会社の電気の使用をやめ、再生エネルギーで発電している地産地消の電力会社に切り替える。市場でお金を出し、生活必需品と「命がけの交換」をする暮らしから、自分たちで耕し、生産する自給自足の暮らしに変えていく。選挙よりも、そしておそらくデモや集会よりも何倍も大切なことのように私には思われる。
変革はおそらく、その道のずっと先にある。人々がその労働に応じてではなく、必要に応じて受け取れる新しい社会が到来し、国家が死滅するときまで自民党はしぶとく生き延びるのだろう。でも私はそれでいいと思っている。いずれは地球上のすべての人々が社会主義経済の下で暮らすべきであるという私の信念は揺らがないどころか、ウクライナ戦争以降はますます強まっている。
注1)「
ウイルスがまいた第2次大戦の種 歴史生かせぬ宰相ら」(2020年12月11日付「朝日」記事)
注2)精神分析学の開祖であるオーストリアの精神科学者フロイトは、人間の心を「本能」「自我」「超自我」の3領域に区分。規範意識に基づき、自我を通じて本能を抑制する働きをする領域を超自我と名付けた。本稿では、国家間の紛争に暴力、実力で決着をつけたいと望む国家指導者の本能に対し、それを抑制するイデオロギーなどの規範を超自我に例えて論じている。
(2022年5月15日)