安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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スカイマークの経営破綻は安全・労働者軽視の帰結だ~公共交通事業者は安全・労働者重視の原点に返れ

2015-01-31 22:13:12 | 鉄道・公共交通/交通政策
<安全問題研究会コメント>
スカイマークの経営破綻は安全・労働者軽視の帰結だ~公共交通事業者は安全・労働者重視の原点に返れ~

1.昨年以来、経営危機が続いていたスカイマークは、2015年1月28日、裁判所に民事再生手続きの開始を申し立て、事実上経営破綻した。航空業界における価格破壊の草分けとなり、メインバンク(主要取引銀行)を持たない無借金経営を誇るなど、異色の存在として知られた公共交通の「風雲児」は、公共性の強い企業としてあってはならない前近代的ワンマン経営の末、無残な最後を迎えた。

2.スカイマークは、IT業界出身の西久保慎一社長によるワンマンかつ奇想天外な経営方針で世間の話題を集める一方、常に論議を呼び続けた。格安運賃の設定により、従来、航空機に無縁だった層に航空サービスへの道を開いたが、一方で、安全と労働者を軽視する姿勢は最後まで一貫していた。

3.とりわけ、日本社会に衝撃を与えたのは、2010年、上空を飛行中に機長らが運航と無関係な客室乗務員を操縦席に立ち入らせた上、前方注視を怠り、全乗務員が後ろを向いて記念撮影をした事実が発覚したことである。風邪のため声の出なくなった客室乗務員の交代要員を会社に要求するパイロットを乗務から外した上に即日解雇する許しがたい暴挙も行った(このとき解雇された機長からはその後、訴訟を起こされ、スカイマークは全面敗訴した)。2006年には、亀裂が発見された機体をそのまま運航し続けるなど、信じがたい安全軽視の経営体制だった。
<サムネイル写真=運行中に前方注視を怠り、後ろを向いて記念撮影する乗務員(国交省提供)>

4.2008年6月、スカイマークはわずか2名の機長が体調不良で欠勤しただけで168便が運休する事態を引き起こした。ぎりぎりの人員で綱渡りの運航を続ける現場への想像力も配慮もなく、スカイマーク労働者から、乗客の命を守る公共交通従事者としての誇りを奪った。最近では、女性客室乗務員の制服をミニスカートに変更するなど、女性労働者を蔑視し、その尊厳を傷つける経営方針を何ら恥じることなく打ち出した。労働者を機械の部品かショーの見せ物のように扱う西久保ワンマン体制にとって破綻は必然の帰結である。

5.とはいえ、このような安全・労働者軽視の運航体制はスカイマーク特有のものではなく、他の航空会社、ひいては鉄道・陸上交通も含めた公共交通全体に共通する課題である。高速バスの相次ぐ事故は社会問題となり、タクシー労働者を巡っては、先日、歩合制による不当な残業手当カットを違法と認める判決が言い渡された。規制緩和と競争政策の下で、今日、すべての公共交通は事故の危機に瀕している。格安な公共交通は命の犠牲なくして成り立たないことを、私たち利用者も知らなければならない。

6.安全問題研究会は、一昨年から昨年にかけ、JR北海道の安全問題を巡って北海道運輸局への要請や相次ぐ事故の原因分析、山本太郎参議院議員を通じた質問主意書の提出、国土交通省との二度にわたる交渉などを行ってきた。そこから見えてきたのは、規制緩和、際限なき競争と首切りがはびこる公共交通の実態がありながら、格安ツアーバス制度の廃止を除いて何ら手を打つことなく放置している安全無視の交通行政の姿だった。国土交通省は、二度の交渉と二度の質問主意書、計4回にわたって提起した当研究会の質問にまともに回答できなかった。国鉄「改革」の成果について「駅ビルがきれいになったこと」「駅員の言葉遣いが良くなったこと」としか答えられないなど、監督官庁としてきわめて無責任な恥ずべき姿をさらけ出した。

7.今年は、御巣鷹への日航ジャンボ機墜落から30年、JR福知山線脱線事故と羽越線事故から10年の節目の年である。来る3月27日には、検察審査会による強制起訴を受けた井手正敬氏らJR西日本歴代3社長に対する控訴審判決が大阪高裁で言い渡されるなど、公共交通の安全問題が再び大きくクローズアップされる年になる。JR福知山線事故遺族が提起した組織罰法制の整備に対しては、福島原発事故被害者や、韓国・セウォル号事故遺族の一部も強い関心を抱いており、国際連帯も重要である。

8.一方、安倍政権の下で、成長戦略に位置づけられたリニア新幹線の建設強行や、2015年度政府予算案で整備新幹線に4500億円もの関連費が措置されるなど、再び昭和の時代に戻ったかのような公共事業ばらまき体制が強まっている。年金・介護報酬を引き下げてまで時代錯誤の公共事業に狂奔し、国民生活を破壊する安倍政権と対決し、真に国民が求める分野へ予算を振り向けさせるための闘いを強化しなければならない。

9.当研究会は、質問主意書・要請書の連続提出、JR元社長の裁判傍聴、御巣鷹への慰霊登山など例年にも増して活発な活動を通じ、世論喚起に努めていく。スカイマーク問題を契機に、再び公共交通の安全向上を目指して闘う決意である。

2015年1月31日
安全問題研究会

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2015年は歴史的地殻変動の年か? ~1強多弱体制の中で、私たちがなすべきこと

2015-01-25 22:37:19 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2015年2月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新しい年、2015年を迎えた。第二次大戦後、西暦で末尾に5のつく年は、印象深い出来事、後の時代に振り返ってみると歴史の転換点となった出来事が内外ともに多いような気がする。1945年は敗戦、55年は55年体制による自民一党支配体制の成立。75年はベトナム戦争終結、85年は日航機事故と、円安ドル高時代から円高ドル安時代への転換点となった「プラザ合意」があった。そして、95年は阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件、2005年は小泉郵政選挙の年だった。

 これらの出来事がなぜ歴史の転換点なのか。これらの出来事を通じて、私たちがそれまで当たり前に持っていた「何か」を失うとともに、歴史が世界と日本を不可逆的に新しい時代に向けて、いわば「突き飛ばす」役割を担っていたと考えられるからである。敗戦は言うまでもなく、55年体制の成立は、日本国民が「政権交代の可能性」を失う出来事だったし、ベトナム戦争終結は米国一強支配体制の終わりを意味した。日航機事故は、世界一安全と言われた日本の公共交通を揺るがす事件だったし、プラザ合意は「日本株式会社」に対して外需から内需への転換を強く促すとともに、日本が何か作れば米国が無条件に買ってくれる時代の終わりを意味した。阪神・淡路大震災は、世界の地震の1割が集中する日本の安全が砂上の楼閣であることを知らしめた出来事であり、地下鉄サリン事件と併せて「水と安全はタダ」と考えられていた日本の良き時代の終焉を強く印象づけた。小泉郵政選挙のあった2005年は、後から見ると、努力していい大学を出れば誰でも正社員になれ、結婚して家庭を作り、安らかに最期を迎えられる時代が終わったことを日本国民に強く意識させた年だった。

 そして2015年――私たちはどんな転換点を迎え、どんな「当たり前」を失うのだろうか。実は、その萌芽は昨年からこの新年にかけてすでに出ている。国内では、集団的自衛権の行使に向けた関連法整備によって「平和はタダ」だと思っていた「専守防衛」の時代の本当の終わり(それは同時に、憲法9条にかろうじて取り付けられていた生命維持装置が自民・安倍政権によって取り外されることを意味する)。そして海外では、帝国主義的領土拡張を目指す各国・各勢力(イスラム国などの「非国家」勢力含む)の野望がぶつかり合い、ひしめき合う第二次帝国主義の時代の幕開けと、それに伴う戦後体制の終わり――後の時代に振り返ったとき、2015年はそのように総括されそうな気がする。新年早々、連続発生したフランスのテロ事件は、その明らかな象徴である。

 ●60年間一党支配でいいのか?

 フランスのテロ事件、イスラム国の動向について、筆者は現時点ではもう少し情勢を見極めたいと思っているので、詳しい論評は今後に譲り、本稿では主に国内政治に限って論じる。55年体制成立から今年で60年――この間、細川・羽田・鳩山・菅・野田政権の1527日間を除いて、自民党は60年間政権を独占してきた。

 最近、インターネットで話題となったのが、「Dominant(支配者)」と題された、戦後の主要国支配勢力の変遷をまとめた一覧表だ。米国・カナダ・オーストラリア・英国・ドイツ(旧西ドイツ含む)・フランス・イタリア・インド・ブラジル・日本・中国・ロシア(旧ソ連含む)の12カ国における戦後の支配勢力の変遷が、どの時代にどの政党が与党となったかという視点からまとめられている。作成したのは英語圏の市民と思われる。

 この表を見ると、中国・旧ソ連・日本・イタリアを除く各国では、政権与党が定期的に交代している。特に米英2国は二大政党が定期的に政権を担当、政権担当期間もほぼ等しく、二大政党制と言われるゆえんだ。カナダ、オーストラリアも、二大政党の政権担当期間にやや偏りがあるが、純粋な形での二大政党制といえる。旧西ドイツも、キリスト教民主同盟と社会民主党との間で定期的に政権が交代しており、二大政党制に見えるが、東西統一後のドイツは左翼党などの反体制政党が影響力を強めており、当コラム筆者はやや異なる見解を持っている(詳説する紙幅がないが、変形した分極的多党制との見解である)。この表の作成者は、米英に加え、カナダ・オーストラリア、ドイツを“Two-party system”(二大政党制)に分類、多党化が著しく政権が定期的に交代しているイタリア・インド・ブラジルを“Multi-party system”(多党制)としている(ただし、ジョヴァンニ・サルトーリは国民会議派による長期政権時代のインドを一党優位政党制としていた。インドにおける国民会議派の影響力は近年、著しく低下しており、現状のインドを多党制とすることに筆者は同意する)。中国を“dominant-party system”(直訳すれば「支配政党制」と訳されるが、その語感はサルトーリが提唱したヘゲモニー政党制に近い)としていることにも筆者は特に異論はない。

 興味深いのは日本とロシアだ。日本は“Single-party system”(一党制)、ソ連崩壊後のロシアに至っては“Monarchy”(君主制)に分類されている。エリツィン、プーチンの両大統領は「君主」というわけだ。これはさすがにロシアに対する偏見といわなければならないが、この表からは、英語圏の市民が主要国の政治体制をどのように見ているか窺うことができ、大変興味深い。

 この表の作成者にどのような政治的背景があるのか、またこの表の作成者が英語圏の市民の「マジョリティ」であるのかはわからないが、英語圏の少なくない市民が日本を「一党制」と見ているのなら重大な問題だといえる。サルトーリが「現代政党学」日本語版を上梓した1977年の時点で、自民党とともに長期政権を維持していた主要国の政党にはイタリアのキリスト教民主党(DC)、インドの国民会議派(INC)があるが、DCはすでに解党、INCも影響力を大幅に低下させ、もはや長期一党支配は不可能になっている。実際、この表を見ると、自民党より支配期間が長いのはもはや中国共産党(1949年から政権担当)、旧ソ連共産党(1917~1991年)しかない。ソ連共産党の支配期間は74年で終わっているから、自民党政権があと18年続いたら、その支配期間はソ連共産党を上回ることになる。西側主要国でこのような事態に陥っているのはもちろん日本だけである。「60年間、ずっと一党支配のままでいいのか」という真剣な問いが発せられるべき時期に来ている。

 ●実質的な一党独裁

 60年もの長期間、実質的な一党支配が続く日本では、自民党政権成立以前を知っている人は若くても70代であり、すでにほとんどの日本国民は自民党政権であるのが当然と思っている。このことがもたらす弊害は決して小さくなく、日本社会の隅々にまで及んでいるが、その中で最大のものは、実質的な政策立案をしている官僚が「自民党政権以外」用の政策集を持たないことである。

 民主主義国家では、政策は政治家が作り、官僚はその執行部隊となるのが望ましいが、日本では戦前・戦後を通じて政策の立案は官僚が行ってきた。そのこと自体は仕方のないことだといえるが、諸外国のように政権交代が頻繁に行われるならば、官僚は政権交代を想定し、「現野党が政権に就いたらどのような政策集が必要になるだろうか」と意識しながら代替の政策集を持つものである。しかし、日本の官僚たちは自民党以外が政権に就くときのことなど全く想定しておらず、したがってその場合の政策集もない。

 このようなことを書くと、「それは筆者の思い過ごし、思い込みではないのか」と反論する人もいるかもしれないが、私の主張を裏付けるエピソードがある。ある某省若手官僚が中途で退官して選挙に出ることになった。退職の意思を上司に伝えた際、どの党から出るのかと尋ねられたこの官僚が民主党と答えると、上司から「官僚が途中退官して選挙に出るなら政権与党(自民党)からであるべきで、そうでないなら官僚に専念すべきだ」と言われた、というのだ。

 このエピソードは、霞ヶ関の官僚たちが現在の政界をどのように見ているかを示す格好のものだと思う。我々は自民党政権のために政策集を作っているのであり、自民党政権のために政策集を作れないような人物は我々の組織には必要がない、という傲慢な本性が透けて見える。自民党以外に政権が渡ることを想定するどころかそのイメージを描くことすらできず、上は事務次官から下は末端係員に至るまで、自民党のために働くことイコール国民のために働くことだと考える文化が染み渡っている。非自民政権(93年の細川~羽田政権、2009年の民主党政権)ができた際、2回とも霞ヶ関が完全な機能停止に陥ってしまった背景にはこうした事情がある。

 与党に反対することを政治の重要な機能と認め、野党を“Her Majesty's Official Opposition”(王立反対党)と呼んで制度化した英国には、野党が総選挙の際、公約に財源の裏付けがあるかどうか、事前に財務省と接触して確認できる制度があるという。政権獲得後、財源が足りずに公約が実現できなくなることを防ぐため制度化されているのだ。

 このような制度が全くない日本では、与野党の政治的リソース――有能な人物・人脈、資金、有益な情報などの資産――の差は定期的な政権交代によってしか解消することができないが、60年近くも長期一党支配が続いた結果、これらはすべて自民党に集中し、野党には行き渡らなくなってしまった。自民党に有利な諸制度の改革もいまや全く不可能な状態だ。

 74年間にわたって一党支配が続いたソ連で、共産党が一党独裁を放棄した後、非共産党政権の受け皿となったのが結局は共産党出身のエリツィンであったように、もし日本で自民党政権が倒れるとしたら、自民党が割れ、旧自民党勢力の中から有能な人物が出現して「古巣」を倒す、というシナリオしかあり得ないような気がする。勝者と敗者が完全に固定化した日本の政治状況は、その意味でも旧ソ連と同じ実質的一党独裁体制といえよう。

 ●私たちの闘い方は?

 さて、ここまで、日本の政治の特殊性を諸外国との比較の中で見てきた。競合的政党制として、政党間に自由競争が認められているにもかかわらず、日本は自民党とそれ以外との間に実質的な競争が存在しないまま、60年もの長期にわたり事実上の「一党独裁」を許してきた。筆者が今回、わざわざ多大な時間をかけ、このような考察や比較検討をしてきたのは、結局のところ、日本の市民の闘い方に対し、果たしてこれでいいのかという疑問が膨らんできたからである。確かに3.11以降の反原発運動などを見ると、かつてない規模、かつてない多様性と創意工夫、かつてない粘り強さで日本の市民はよくやっている。しかし、このような破局的事態をもたらした政治を変えるためにはもう一段の飛躍が必要であり、その飛躍を実現するために何をすべきかを考える過程で、日本の政治システムを諸外国と比較検討する作業を避けて通れなかったためである。

 筆者が感じた日本の市民の闘い方に対する疑問とは、ひとことで言えば「吹けば飛ぶような弱小野党に陳情や要請を繰り返すばかりで、なぜ巨大政権与党である自民党に直接物申し、圧力をかけないのか」というものである。自民党本部を誰がどのような目的で訪れたか「定点観測」していると、陳情活動のため訪れるのは業界団体ばかり。市民団体やNGO、NPOなどが自民党本部を訪れ、要請や陳情活動をしたという話はほとんど聞かない。彼らが行くのは野党の議員や院内集会などが多いが、野党に力があった55年体制当時ならともかく、野党をすべて合わせても自民党の半分にもならない現状で、かつてと同じような行動を繰り返していたのでは結果が出なくて当然ではないだろうか。

 小選挙区制に対する批判も出尽くした感がある。小選挙区制はダメだ、あるいは小選挙区制だから仕方ないと嘆くばかりでなく、1強多弱という情勢を踏まえた新たな闘い方を提起しなければならないのである。野党を相手にするなとまで言うつもりはないが、市民団体やNPOは、今後は野党が会いたいと申し入れてきたら会ってやる程度でいいような気がする。

 自民党にしてみれば、自分たちに要求書のひとつも持ってこない人たちの意見など聞く義理も義務もないのであり、毎日のように陳情に来る業界団体のほうに顔が向くのは当然である。筆者が仕事上関係しているある業界団体は、利権を少しでも多く確保するため、毎日のように自民党本部を訪れ、要請・陳情を繰り返している。利権にタダであずかれるほど政治は甘くない、そのためには他の業界団体より1回でも多く自民党本部を訪れ、圧力をかけることが大切だと、彼らはよく知っている。彼ら業界団体のこの「厚かましさ」を、市民も少し見習うべきだろう。

 諸外国に目を転じても、例えば、1989年の「東欧革命」のとき、独裁政権に対する怒りを爆発させたブカレスト市民は、ルーマニア共産党本部の閉ざされた門を乗り越え、次々に中になだれ込んだ。そこでブカレスト市民は、自分たちは決して食べるどころか、長年にわたって見ることさえできなかった高級チョコレートや高級パンが、党幹部用として秘匿されているのを発見したのだ。チャウシェスク時代、ルーマニアは「3つのF」が支配する国だといわれた。ルーマニア語で飢え(Foame)、寒さ(Frig)、そして恐怖(Frica)だ。ルーマニアを「飢えと寒さと恐怖」の国に変えた残忍な独裁者ニコラエ・チャウシェスクは、1989年12月、吹き荒れる嵐の中で、ついに処刑される。

 日本の市民がブカレスト市民と同じことをする必要はないが、「このような事態を作り上げたのが共産党なのだから、怒りを表明するために共産党本部になだれ込む」という彼らの闘い方には大いに共感できる。私たちもブカレスト市民のように、「60年にわたってやりたい放題を尽くしてきた自民党のせいでこのような事態になったのだから、怒りを表明するために自民党本部になだれ込む」という闘い方をすべきではないだろうか。選挙にある程度の期待が持てる諸外国の市民と異なり、実質的な一党独裁で非競争状態の日本では、この先、何度選挙を繰り返しても勝つのは自民党であり選挙に実質的意味はない。そうである以上、私たちがお手本にすべきなのは、同じように一党独裁体制の下で闘ってきた市民のほうであろう。中国の市民の闘いなども参考になるかもしれない。

 政府が国会に提出する法案も、「事前審査」と称して自民党内に設けられた各部会がその内容を審議する。時には修正などの注文がつくこともあり、形骸化した国会よりはるかに踏み込んだ審議が行われている。実質的な法案審議の場が自民党内の部会であり、国会はその追認機関という現状では、自民党内の部会における法案審議を市民がしっかり監視し、物申していくことも必要だろう。「あんな政治的腐臭の漂う場所になんか行きたくもない」という市民の気持ちもわからないわけではないが、今後長期にわたって政権交代が起きそうもない日本で、市民が政治的要求を実現させていくためには、自民党に直接圧力をかけ、「私たちの要求を受け入れなければタダでは済まない」という政治的雰囲気を作り出していく方向で、市民も従来の発想を切り替える時期に来ていると思う。

(黒鉄好・2015年1月18日)

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東京地検が再び東電を不起訴に;福島原発告訴団 団長声明

2015-01-23 21:11:56 | 原発問題/一般
福島原発告訴団が行っていた告訴・告発がいったん不起訴となり、その後、検察審査会が勝又恒久元会長ら3人の旧経営陣について「起訴相当」と議決したのを受けて、行っていた再捜査で、東京地検は1月22日、またも全員を不起訴とする決定を行いました。

これに関し、福島原発告訴団が「団長声明」を発表したので、転載します。原文は福島原発告訴団サイトにあります。

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東京地検不起訴処分に対する団長声明

2015年1月22日

 東京地検による再度の不起訴処分に対し、大変憤りを感じています。

 7省庁や推本など、国の機関が福島沖の大津波を想定するよう発表しており、東電は貞観型の津波が敷地を超える可能性があり、対策が必要だという認識を持っていたことが明らかになっています。

 重要設備の高台設置や建屋の水密化をしても浸水被害を防げないとしていますが、浸水をしても冷温停止にこぎつけるだけの対策がされていれば、被害は最小限に抑えることができました。何も対策を取らなかったことの責任が問われなくてよいのでしょうか。

 どこまでを予見できたとするか、被害を回避できたかどうかを、地検の密室の中の判断に任せてよいのでしょうか。公開の裁判の中で判断されるべきではないでしょうか。地検は一度目の不起訴処分の説明の際も、「東電は捜査に協力的だったから強制捜査をしなかった」と答えるなど、被害者に向き合わず、加害者の方を向いています。

 検察審査会の起訴相当の議決は国民の意思を表しています。その議決を検察は無視したことになります。

 再度、検察審査会の判断に期待します。検察行政のチェックを市民が行います。市民による検察審査会の良識を信じています。

 この事故の責任がきちんと司法の場で問われることを、被害者は心から望んでいます。

福島原発告訴団団長 武藤類子
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なお、東京地検が発表した「不起訴決定理由書」はこちら(福島原発告訴団サイト)

この不起訴決定理由書を読んで唖然とした。勝又氏ら3人を起訴相当とした東京第5検察審査会の議決書(昨年7月31日、福島原発告訴団サイト)と読み比べてほしい。

事実に基づき、淡々と証拠を積み上げて3人の不作為の罪を論証した議決書に対し、「専門家が予測不可能と言っていたから予測不可能」と主観的に決めつけるだけの不起訴理由書。どちらがプロの検事かわからない。

私は、この不起訴決定理由書を読んで、かつて日本最強の捜査機関と言われた検察が復活する日は二度と来ないと確信した。不起訴にするにしても、もう少しまともな理由を書いてくると思っていたのだが…。政治的だとか言う以前に、検事の能力的な面でこれはないだろう、というのが実感だ。これがあの東京地検かと思うと、涙を禁じ得ない。

なお、この不起訴決定とその後の見通しについては、いずれ、このブログでお知らせする。

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【転載記事】飛幡祐規のコラム : パリ連続襲撃事件の悲劇~考えつづけていること

2015-01-20 22:21:48 | その他社会・時事
先日ご紹介したコリン・コバヤシ氏の論考に続き、同じくパリ在住の日本人、飛幡祐規(たかはたゆうき)さんによるパリ連続襲撃事件に関する論考をご紹介します。レイバーネット日本からの転載です。なお、リンク先のレイバーネット日本サイトでは、写真・画像も見ることができます。

なお、当コラム筆者は、日本に一時帰国中の飛幡祐規さんと、都内で一度、お会いした記憶があります(2006年頃だったと思います)。レイバーネット日本サイトにおける、コラム常連執筆者同士という間柄でもあります。

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飛幡祐規・パリの窓から~パリ連続襲撃事件の悲劇~考えつづけていること(レイバーネット日本)

 パリで起きた諷刺週刊紙「シャルリー・エブド」とそれにつづく連続襲撃事件(1月7日~9日)について、短い文章で語ることはとても難しい。パリに40年暮らし、この悲劇のあと深い哀しみにくれる者のひとりとして、まず三つの事件の犠牲者全員に哀悼の念を捧げる。そして、事件の背景にあるフランス社会のさまざな側面について、いくつか書き留めておきたい。

1)「シャルリー・エブド」のエスプリ

 「シャルリー・エブド」の編集部が襲撃されたのは、2006年以来、預言者ムハンマドの諷刺漫画を繰り返し掲載したからだが、その問題に入る前にまず、この諷刺漫画新聞へのテロがなぜ、全国400万人近くの市民が自発的に路上に繰り出すほどの衝撃を与えたのか、考えてみたい。実売数3万のマイナーな同紙(より有名な諷刺新聞「カナール・アンシェネ」の発行部数は40万部近く)は近年、若い層にはほとんど読まれず、深刻な経営困難に陥っていた。

 「シャルリー・エブド」は1960年発刊の前身紙「アラキリ(腹切り)」の時代から、挑発的な諷刺画で何度も発禁処分や名誉毀損の訴えを受けた。たとえば1970年、ド・ゴール元大統領死去時の非礼なタイトルのせいで「アラキリ」が発禁となったため、「シャルリー・エブド」に改名。政治家や軍隊、宗教を徹底的に「笑いもの」にし、セックスを奔放に描き、70年代はカウンター・カルチャーの象徴のひとつになった。政治的には左派でアナーキーな性格とはいえ、「シャルリー」の精髄はむしろ、すべての権力や宗教への「不敬」と(ブラック)ユーモアだろう。イラストレーターと筆者それぞれの個性も強く、下品や悪趣味、マッチョな部分やどぎつさが目立つときもある。この無礼千万の悪ガキ的な冗談やギャグを「笑う」感覚も、フランス人のユーモアの一面なのだ。(むろん笑えない人、嫌悪する人たちもいる。)

 それに、殺害されたヴォランスキ(80歳)とカビュ(75歳)は「アラキリ」発刊時からの歴史的メンバーで、広く大衆に愛されたイラストレーターだった。彼らが出演するテレビ番組を子ども時代に見て、反逆的なエスプリと(ときに)絶妙なユーモアの諷刺画に親しむようになった人々もいる。カビュは兵役でアルジェリア戦争に行かされた体験を原点に、反軍隊や反原発の諷刺画を数多く描いた。1970年代、彼はノルマンディー地方のフラマンヴィル原発の建設反対デモにも参加した。2012年に「シャルリー」は「原子力の詐欺」と題した特集号(表紙の諷刺画を描いたティヌスも犠牲者)を出している。

 1月7日の夕方、友人たちから「レピュブリック(共和国)広場に行こう」と携帯メッセージやメールが次々と入り、わたしも広場に足を運んだ。フランスはテロを何度も経験しているが、新聞の編集部への攻撃というショック(プレスへの爆弾テロやジャーナリスト襲撃はこれまでもあったが、死者が出たのは初めて)に加え、表現の自由を体現していた犠牲者たちに愛着の深かった人も多い。友人の中には泣いた人もいた。わたし自身、1990年代のはじめ、カビュのイラストを拙著に使わせてもらったことがあり、会ったときの温かい人柄が記憶に残っている。また、同じく犠牲者となった経済学者のベルナール・マリスの言葉を別の本で紹介したが、彼は10年間の廃刊期の後に1992年に復刊した「シャルリー」の中心メンバーのひとりだった。マリスは、いま日本で注目されているトマ・ピケティよりずっと過激に、辛辣かつユーモアあふれる口調でネオリベラル資本主義と「御用」経済学者を批判した。1992年以降の「シャルリー」の諷刺の対象は、極右の国民戦線、ネオリベラル経済、生産主義、宗教などにわたり、反権力・権威、反ファシズム、環境保護運動などのエスプリを(卑猥な性表現が多い点も)持続していた。同紙を「反宗教」の面だけ、預言者の諷刺画だけに特徴づけて語ることはできないと思う。

2)諷刺と「非宗教(ライシテ)」、「反宗教(アンチ・クレリカリスム)

 しかし、彼らはまさに預言者の諷刺画のせいで殺戮された。ことの始まりは2005年の秋、デンマークの日刊紙が預言者の諷刺画を掲載したことに対する抗議運動だ。2006年初頭、イスラム圏諸国と宗教団体に抗議やボイコットが広がった。フランスでは2006年2月、「フランス・ソワール」紙につづいて「シャルリー」が諷刺画を掲載し、大きな議論をよんだ。事件の状況と背景は当時書いたもの(下のリンク)を参照してほしいが、背後にイスラム組織によるマニピュレートがあったことも否めないだろう。しかし、「シャルリー」が預言者ムハンマドとテロリズムを結びつけた諷刺画も掲載したのは、哲学者エチエンヌ・バリバールが言うところの「軽率・不用心」だったといえるかもしれない。
http://www.nttdata.com/jp/ja/diary/diary2006/02/20060207.html

 「シャルリー」は一貫して、すべての宗教権威の愚かさを笑う自由を主張してきた。2006年以降、イスラム原理主義の過激派から脅迫を受けても意に介さず、2011年11月には事務所が放火された。それでも表現の自由と「非宗教(ライシテ)」は譲れないと、原理主義者やジハーディスト(聖戦義勇兵)、ときに預言者の諷刺をつづけた。そのため、国内で高まっている「イスラモフォビア(イスラム嫌悪)」を助長すると批判を受けていた。

 反宗教・非宗教は、「シャルリー」が受け継ぐアナーキズムの特徴の一つであるだけでなく、諷刺画の伝統においても重要な要素だ。フランスに限らずヨーロッパでは、ルネッサンス期から画家がローマ教皇を諷刺し(ホルバインの版画など)、フランスでは18世紀末の石版印刷発明後、新聞・雑誌の発達と共に、19世紀に諷刺画(カリカチュア)のジャンルが確立した。ちなみに、猥褻画も印刷技術の普及と共に広まった。一方、表現・言論の自由は、大革命時の人権宣言(1789年)で基本的人権に設定された後も、長い闘いによって勝ち取られてきた。たとえば七月王政下(1830~48年)の1832年、ルイ・フィリップ王の諷刺画を描いたオノレ・ドーミエは監獄に6か月幽閉され、1835年には政治的諷刺画の検閲法が復活した。プレスと表現の自由を保証する法律は1881年、第二共和政と第二帝政をへた第三共和政のときに制定された。

 その19世紀末はまた、強力なカトリック教会(大革命で財産を没収されたとはいえ)の勢力を退けて政教分離、フランス語の表現では「非宗教(ライシテ)」が共和国の原則として成立した時期である。しかし、1905年の「非宗教」に関する法律で政教分離と信仰の自由が定められた後も、カトリック系勢力と「反宗教」側の対立はつづき、宗教権威を「笑う」歌や諷刺画の文化が定着した。貨幣に「我々は神を信じる」と刻まれ、日常に聖書の引用があふれるアメリカと異なり、フランスの歴史には人文主義者ラブレーや啓蒙思想家ヴォルテールなどによる宗教(カトリック)勢力への批判と闘いが痕跡をとどめている。発禁文学の象徴であるサド侯爵(1740~1814)も、過激な「反宗教」主義者だった。「シャルリー」がこだわる表現の自由や非宗教は、そうした「反宗教」文化を受け継いでいると言えるだろう。

 「シャルリー」は近年、再び宗教が勢力を得ていること(キリスト教系保守の人々の、同性婚に対する強力な反対もその一例)に、大きな苛立ちを覚えたにちがいない。そこで、イスラム原理主義への諷刺攻撃を、非宗教の闘いの一貫だととらえたようだ。しかし、カトリック・ユダヤ・イスラムの三宗教を同列に並べるのではなく、それぞれの宗教の歴史的・社会的・政治的な文脈に留意する必要があったのではないだろうか。キリスト教は十字軍、異端裁判、宗教戦争など血なまぐさい歴史といくつもの革命と議会政治の末、ようやく世俗化されたのである。カトリック教の権威は諷刺には慣れていて、たまに狂信的な信者が映画館に爆弾を仕掛けたりするが、嘲笑に動じない。一方、イスラムはフランス第2の宗教(信者約500万人といわれる)になってから、まだ日が浅いのだ。原理主義に限定して諷刺したとしても、「シャルリー」を見たこともないフランスのイスラム教徒は、自分が信仰する「イスラムが侮辱された」と感じるのだという。

 ムスリム系の人々の多くは、元植民地からの移民やその子孫だ。フランス社会の底辺で働き、差別を受けやすく、9.11の連続テロ以降はとりわけ、疑いの目を向けられやすい。さらに近年、イスラム教徒や移民全部を過激なイスラムと混同して敵視する、差別的な排外ナショナリズムが煽られている。国民戦線など極右政党・団体にかぎらず、保守政治家や文化人の「イスラモフォビア(イスラム嫌悪)」発言がメディアで頻繁に流され、そうした本がベストセラーになってしまうほどなのだ。

 わたしは、「シャルリー」が反イスラム感情に便乗したという見方には、断じて賛成できない。しかし、彼らが、自分たちが嫌悪している極右・反動の「イスラム嫌悪勢力」に利用される危険や、自分たちの諷刺画が象徴的暴力になりうるという現実に目を向けなかったのはなぜなのか、事件が起きてから考えつづけている。アラブ系フランス人向けラジオ「ブールFM」のジャーナリストは、「シャルリー」はイスラム諸国や団体が抗議をすればするほど、「宗教勢力には絶対に譲らないぞ」と頑な姿勢に陥ったのではないかと語っている。批判する人たちと話し合えばよかったのに、と。

 「シャルリー」のしばしば猥褻なブラックユーモアとの世界と、処女性や貞節が絶対視されるムスリム系の人々の世界のあいだには、メトロや郵便局ですれちがう同じ社会に住んでいながら、あまりにも深い溝がある。しかし、諷刺画家をはじめ現在の編集部のメンバーはみんな、人間的な魅力にあふれる人たちだったという。表現の自由がフランスで「貴重な」権利であることを彼らが語り、ムスリム系の人たちと対話する場を重ねていくことはできなかったのだろうか?

 「シャルリー」は不幸にも、恐怖や憎しみは伝染しやすいのに、ユーモアや笑いがすべての人に通じるものではないという現実にも、あまり注意を払わなかったようだ。たとえば、500万部(700万部に届く?)発行された事件後の「シャルリー」最新号の表紙の諷刺画を、日本のメディアがいかに誤訳したか、諷刺画とテキストがどれほど多様な「読み」を内包しているかを、パリ在住の作家・翻訳家の関口涼子さんがすばらしく明敏に解説している。「すべて赦したよ、水に流そう」と読むべきところを、日本の新聞は、ムハンマドが「私はシャルリー」の標語を持ち、「すべて許される」と書いてあるから、預言者の諷刺も許されるという意味だろう、と解釈したのだ。関口さんはこの例をとおして、イメージが文化を越えてどのように読まれていくか、文化翻訳の問題を見事に指摘している。
http://synodos.jp/international/12340

 フランス人の夫とわたしもこの表紙を見てほっとしたのだが、日本のメディアは曲解し、イスラム諸国では続々と抗議が起きたのだから、やはりユーモアは「普遍化」されにくいのである。ちなみに、これまで彼らの諷刺画を嫌悪してきたフランス人が、この「シャルリー」最新号を我れ先に買い求めたのを、笑った人は多い。しかし、倒産寸前だった「シャルリー」が反イスラムを売れネタとしてきたという見方は、ぜんぜん「笑えない」。

 フランス社会で今やマイナーになった1968年五月革命のエスプリを体現する諷刺画家たち、国家の儀式や教会が大嫌いだった彼らのために、ノートル・ダム聖堂は弔鐘を鳴らし、彼らは「国民的英雄」になった。本人たちはさぞかし笑い転げているだろうと、諷刺画がたくさん描かれた。

 *これは、ヴォランスキ、カビュ、シャルブなど殺されたイラストレーターたちが占い師のところに行ったら、「あんたたち、テロリストに殺されて、ノートルダムの弔鐘が鳴らされ、オランド大統領、ヴァルス首相、サルコジ元大統領、コペ、メルケル首相、カムロン首相、ネタンヤフ首相まで来る行進があり、 三色旗がふられてラ・マルセイエーズが歌われるよ。あんたたちをパンテオンに埋葬しようと提案され、ナスダックとアカデミー・フランセーズが「私はシャルリー」と言い、ローマ教皇はあんたたちのために祈るよ・・・」と言われて、彼らは笑いくずれる。(作家 Dutreix)

3)共和国の理念

 「シャルリー」襲撃の翌日、パリの南郊外で警官を殺害した者により、2日後の1月9日にはユダヤ食品スーパー襲撃事件が起きて、犠牲者は17人になった。後者は反ユダヤ主義の行為であり、2012年3月に起きた反ユダヤの襲撃事件の記憶を思い起こさせた。犯人たちはいずれも、過激なイスラムに影響(洗脳?)された移民系のフランス人だった。

 フランスで生まれ育った彼らはなぜ、人殺しという究極の暴力行為にいたるほど、フランスとその機構すべてを憎んだのだろうか? 事件の要因のひとつに、フランス社会から排除されたと感じている若者の生きにくさがあると思う。犯人たちは児童援助のシステム(里親委託、施設)や公教育、刑務所など共和国の機構で長年を過ごしたが、それらはいずれも彼らを「迎え入れる」ことに失敗した。

 9.11につづくアフガニスタンとイラク戦争以降、フランスでは移民系にかぎらず、イスラム過激派に惹かれ、ジハーディスト(聖戦義勇兵)としてシリアなどに出向く者も出てきた。イスラエル/パレスチナ紛争、フランスのアフリカへの出兵などの世界情勢のなかで、欧米国家の「テロとの戦争」を不当に感じる人は多い。これらの問題についてここでは展開しないが、多くの若者にとって共和国の理念「自由・平等・友愛」が意味をなさない状況や、世界情勢などについては、コリン・コバヤシさんのテキストも参考になるだろう。
http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2015/01/350.html

 前述した排外ナショナリズムの煽りのなかで、今回のテロによって反イスラム感情が強まる危険は大きい。その一方で、反ユダヤ行為の再発を怖れる人々もいる。だからこそ、「混同を避けよう」という声が上がった。政府は、はじめ複数の市民団体がよびかけた1月11日の追悼デモ(共和国の行進)の中心に、世界各国の首脳(言論・表現の自由を迫害する国も含めて)を迎えて「テロに反する儀式」を設けた。しかし、そんな政治的な思惑とは関係なしに、フランスの市民は自発的に路上に繰り出し、パリで170万人、全国で400人近くという、1944年8月のパリ解放以来の巨大な行進になった。

 このデモのスローガンは「私はシャルリー」、「反テロ」だったかのように伝えられたが、「反テロ」と書かれたプラカードはひとつもなかった。また、「私はシャルリー」が多様な内容をあらわすことも、日本ではよく理解されていないようだ。この表現は、音楽雑誌のアート・ディレクターが、絵のために人を殺すことができることと知ったショックのなかで生み出した。彼にとってそれは、「私は自由だ、私は怖くない」を意味した。事件の日の夕方、レピュブリック広場で会った友人のひとりはすでに、「私はシャルリー」をもっていた。ボールペンや鉛筆を掲げた人々は、表現のために殺すことへの抗議と、犠牲者への連帯をあらわしていた。以後、各自が「私はシャルリー」を自分なりの意味をこめて使った。みんながこの表現を「自分のものに」したのだ。

 だから1月11日の追悼デモでは、「私はシャルリー、警官、イスラム教徒、ユダヤ人」(みんな共和国の市民、連帯しようの意)や、「大きくなったら僕はシャルリーになるんだ」、「我思う、ゆえに我はシャルリーである」といったバリエーションだけでなく、「戦争ではなくてユーモアを」、「流されるべきは血でなくてインク」、「芸術は人間的だ」など、工夫をこらした表現が掲げられた。ポール・エリュアールの詩「自由」の句もあった。また、インターネットなどで「私はシャルリーでない」と表明した人もいた。

 これほど大勢の多様な人々、出身、階層、宗教、思想の異なるさまざまな老若男女(生まれて初めてデモに来た人も大勢いた)をデモで見たのは、初めてだった。ときおり拍手がわき上がり、国歌「ラ・マルセイエーズ」を景気づけのように歌う人たちがいる。でも、国歌を歌うのが嫌いな人も大勢いるし、あまり歌詞を知らないから、大合唱にはならない。けっして「一体」ではないフランスの市民は、ともに歩いたこの歴史的な日、自由や友愛という共和国の理念に対する愛着を示したようにわたしは感じた。

 むろん、翌日からすぐに「テロとの戦争」という言葉が多発された。非宗教についての討論が組まれた。しかし一方で、「テロに対する戦争と表現してはならない」という意見や、学校での1分の黙祷に反発した生徒たちにどう対応するかを語る、歴史・地理の先生の話もメディアで紹介された。自分が共和国の一員だとは思えない、排除されたと感じている人々と、どうやってともに生きていくのか。まずは対話を始め、対話しつづけていかなければ、植民地支配やアルジェリア戦争などの「過ぎ去らない過去」が亡霊のように出現しつづけるだろう。

 力が尽きてきたので、ここでひとまず筆を置くが、最後に一つけ加えておきたい。巨大デモでスローガンにならなかった共和国の理念は、平等である。不平等がますます広がる現在の消費社会は、願望を殺すと指摘されている。願望を殺された人間は、死を望むようになるのではないだろうか。そんなことも考えつづけている。

    2015年1月18日 飛幡祐規(たかはたゆうき)

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【転載記事】350万のフランス市民が街を行進したあと、残されたものは?

2015-01-18 21:38:48 | その他社会・時事
フランス・パリで起きた連続テロ事件について、現地に在住している市民運動家、コリン・コバヤシ氏による論考が、当ブログ筆者の元に回ってきました。すでにネット転載もされており、当ブログへの掲載にも問題はないものと判断したので、以下にご紹介します。なお、週刊「AERA」誌でこの事件が取り上げられる際、以下の論考の一部が引用される、とのことです。

コリン・コバヤシ氏は、フランスが社会党・オランド政権成立後も中央アフリカ・マリ共和国等へ軍事介入を続けていることがテロ事件の背景にあると指摘しています。当ブログもこの見解に同意します。この事実は、同時に、日本が集団的自衛権行使を可能とする法整備を行い、世界のどこでも戦争に参加するようになった場合にどのようなことが起きるかを示す「警告」でもあります。

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パリ二つのテロ事件後報告~350万のフランス市民が街を行進したあと、残されたものは?

コリン・コバヤシ

 一月七日に起こった風刺漫画の週刊新聞社<シャルリー・エブド>に対する襲撃と十二名の虐殺、続いて起きたヴァンセンヌでのもう一つの拉致事件で客四名、警官一名、合計十七名が殺された二つのテロ事件は、フランスのみならず、世界に衝撃を与えたことは周知のとおりである。

 だが、現在、湾岸に空母シャルル・ドゴールを派遣してイラクで空爆を行ない、マリから周辺四カ国で軍隊を展開させているフランスは複数の戦線で戦争中なのだ。国内だけが静かでありうるはずがない。テロの可能性は早くから指摘されていたが、年明け早々にこのような形で、しかも国内から出現したテロリストによって、警備の薄くなった<シャルリー・エブド>とユダヤ系食品スーパー<ハイパー・カシェール>(カシェールはユダヤの戒律に則った食料)を狙って急展開してくるとは、さすがの治安当局も予期できなかったようだ。

 襲撃が特殊部隊の早い投入によって早期に決着をみた翌日、パリでは<共和制的行進>が提唱され、170万人とも言われる市民が巨大な行進に参加した。これは十九世紀末のヴィクトル・ユゴーの国葬や大戦後のパリ解放時の動員としか比較できないほどの希有な大きなうねりだった。むろん、この呼びかけ以前に7日の襲撃の夜に既に、誰に呼びかけられたわけでもなく多くの市民が自発的に共和国広場に集まり、哀悼と義憤の意を表したことも特記しておくべきだろう。また全国でも百万単位の人々が自発的に街に出た。一九八七年、朝日新聞阪神支局に赤報隊のテロリストが小尻記者を撃ち殺し、別の記者に重傷を負わせたとき、何人の日本人が「言論の自由」を擁護するために集まったといえるのか。

 一月十一日のフランスの大行進の性格は何か、市民のこうした動きをどのように見るベきなのか。また今後、どのような課題が山積みされているのだろうか。

 まず最近は、アルジェリア系ユダヤ家庭出身の政治記者で作家エリック・ゼンムールが書いた排他主義(アラブ移民は万単位で本国に送り返すべきといった)に基づいたエッセイ「フランスの自殺」(昨十月に出版)がベストセラーになり、また同じような排他的姿勢の作家ミシェル・ウーエルベックの書いた小説「従属」(2022年の大統領選で、イスラム教徒の大統領候補が勝利し、仏政権がイスラム教に乗っ取られるという空想話)の刊行が待たれていて(本書は事件の当日一月七日に発売された)、マスコミでも大きく騒がれており、ルペン率いる極右翼政党が台頭しているというフランスの社会的背景があったことを無視できない。その矢先に、これらの事件が発生したのだ。

 フランス国民の一部で当然の如く迎えられた「イスラム恐怖症」は、たしかに、衝撃を受けたフランス市民の大半がテロを許すべからざるものとして立ち上がることに拍車をかけたかもしれない。とはいえ、「イスラム恐怖症」に陥ることなく、民主主義、言論の自由を擁護しようと自発的に無言で参集した無数のフランス市民の主体性は、大いに称揚されていい。市民の大半が「私はシャルリー」というスローガン一色に染まったわけではなかったし、大きな横断幕を持っているわけでもなかった。若者たちも多く参加したこのデモは、ほとんど無言で犠牲者への哀悼を示していた。時折拍手を皆ですることはあっても、シュプレヒコールはなかった。フランス人はそもそも一丸となって何かをやることが好きではない。そして狙われた<シャルリー・エブド>は、そういうことが一番嫌いないわば異端の新聞である。読者数が少なく、経済的にも急迫していたのが実情だ。 

 この<共和的行進>の性格は、当然、三つの柱:自由・平等・友愛、そしてフランス特有の国定である世俗性に範を求めた行進であったことは言うまでもない。これに強く反応した市民たちも多いのだ。しかしこれら最初の三つのモットーは、どれも「ひどく困難であり、日毎に築かねばならないもの」[1]である。これについては後述する。

 またオランド大統領を筆頭に仏政府が広くこの行進への参加を呼びかけ、三十カ国以上の元首や代表が参加した。これは仏政府がたしかに政治的回収をフル回転させたといえる。欧米が唱える「テロへの戦争」を正当化するために、ナトー事務局長や欧州主要国の元首たちを招き、その上に、国際裁判にかけられれば戦争犯罪人になりえるネタンヤフ・イスラエル首相、 −この首相は、「私たち戦いはあなた方の戦いと同じだ」と主張するつもりなのだ− やリーベルマン国防相さえも一緒に行進するとなると、この行進の意味はすれ変わってしまう。ネタンヤフ首相の自主的参加表明に驚いたオランド大統領がパレスチナのアッバス自治政府議長に急遽参加を要請し、かろうじてバランスをとった。また、この行進は「言論の自由」を守るためでもあったが、言論を封殺している元首たちも多く参加した。エルドワン・トルコ首相は、どの国よりも多くの記者を投獄しているし、イスラエル軍は、昨年ガザだけで十六人の記者を殺している。ヨルダンのアブダラ国王は、パレスチナ人記者を十五年の刑に処した。こうして他にもリストはふくれあがる[2]。こうした元首たちがどうして他国に来て言論の自由を守れと主張する権利があるというのだろうか。この元首たちの参集は、結果として移民系(とりわけマグレブの)フランス市民たちのボイコットを引き起こした。 

 しばらく欧 米と中東は常に緊張関係にある。一九四八年から続いているイスラエル/パレスチナ紛争に加え、一九九◯年の湾岸戦争以来、アフガン、イラク戦争、イスラエルの二度のガザ攻撃などで、合計、数十万規模の犠牲者が出ている。そしてイスラムとユダヤとの抗争の上に、さらにイスラム教宗派間の争いが激化しているという複雑な事情がある。とりわけ、アメリカ合州国のパレスチナ/イスラエルの和平交渉の重なる失敗、そしてイラク、アフガン戦争での大失策は、西洋とイスラム世界に深刻な悪影響を長期に渡って及ぼしている。アメリカ合州国に追随するヨーロッパは、独自の解決策が提案できないばかりか、アメリカと同じようにイスラエルを擁護して来た。だが、昨夏のイスラエルによる無防備といっていいガザへの集中的な空爆は、明らかに国際世論の大きな反発と憤激を起こしたが、これに対してフランス政府はイスラエルを批判の一語も漏らさなかった。そのことが今回のユダヤ系スーパー攻撃の遠因になっているといっても過言でないだろう。アフリカでは、欧米は問題が発生すると軍事的介入をするだけで、抜本的な解決策を計らない。自国の権益を護持するために軍事力を投入し(例えばニジェールのウラン)、外交的解決をしなくなっている。このような状況が、冷戦後の世界の変化の中で、社会は旧来の意味での国家間戦争ばかりでなく、あらゆる場所で戦闘的な状況が生まれやすい「好戦的な社会」[3]になったと指摘されている。

 「テロとの戦争」を主張する指導層の間では、「反ユダヤ主義」というスローガンもコンビになっている。しかし、これは作為的な同一視というべきだろう。「反ユダヤ主義」は、ヨーロッパの白人社会で歴史的に発生して来たものだ。もし中東アラブ世界にユダヤ人排撃があるなら、それは「反ユダヤ主義」のせいというよりは、シオニスト国家イスラエルが、パレスチナ人を暴力的に差別し、抑圧し、軍事力によって植民地化して来たからに他ならない。むろん、イスラエルの中東植民地戦争が従来の「反ユダヤ主義」を助長している可能性はある。このような指導層や同じ潮流の人たちの間では、今回の事件をフランスの9・11と例える人さえいるが、根拠のないたとえに過ぎない。フランスではパトリオット法が成立する可能性は、今のところ、低い。しかし人間社会で起こることが、このフランス社会だけには絶対起こらないという保障はないのだ。

 ただ変化の兆しはある。欧州諸国がパレスチナを国家として認知し始め、フランスも国民議会は欧州連合は認知に向かうべきという決議を出している。また国連の機能が民主的でない、旧体制のままになっている安保理事会を再編し、国連に民主的な力を持たせるべきであるという論調も一段と強くなって来ている[4]。

 フランスの若者がなぜテロリストになったのか、その原因はいくつか考えられる。昨年夏のイスラエルによる一方的なガザ攻撃、無差別空爆の不正義について、マグレブ系移民の二世、三世であるフランス人たちが無関心であるわけがない。口で人権宣言や民主主義をいくら唱えたところで、前述したようにイスラエルの攻撃を容認し、同じアラブ民族の虐げられた状況に対して何の改善の努力もせず、具体的外交さえしない母国フランスがダブル・スタンダードを使っているではないかという不満は、言うまでもなく募って来ているのだ。そのうえ、経済不況が蔓延している中で、郊外に集中して居住している移民系の家族や若者たちは偏見と人種差別にさらされ、国は移民の統合政策に失敗し、三十年以上、彼らを放置してきたからだ。その結果、慢性的な就職難と失業に悩まされている以上、鬱憤が破裂寸前になっているとしても当然なのである。国の無為無策が、若者の不良化を促進させ、恐怖と憎悪をあおり立て、テロリストとなる温床を作っているのは、言うまでもなく不正義を放置している国際社会とフランス国家自身である。

 ところで、週刊新聞社<シャ ルリー・エブド>は、以前からイスラムホビーに類する風刺画を載せていた。2006年、マホメットの風刺画を公表して、フランスのイスラム宗教団体から禁止の要請があった。また翌年には追訴された。2011 年には火炎瓶が投げ込まれるなど、<イスラム嫌い>であり、脅迫も受け、当局からも警告されているにもかかわらず、予言者を風刺する漫画を出し続けた。彼らはあらゆる宗教に反対するという立場から、すべての宗教風刺をするのだが、とりわけイスラム教風刺にはかなりの力を入れて来た。漫画記者たちは、六九年の創立以来、世俗性を基本として来たことは確かだが、イスラム教とユダヤ教の扱いは平等だったろうか。また平等に扱ったからといって済む問題ではないだろう。たとえば、デンマークの新聞に掲載された右派の漫画家が書いた手榴弾をターバンに撒いたモハメット像は、どう見てもイスラム・イコール・テロリストという誤解を生じさせるアマルガムがあることを否定できない。この風刺漫画を載せてしまった<シャルリー・エブド>の判断は良かっただろうか。編集長シャルブは、一月最初の号で、「フランスにはまだテロがないよ」と表題された下に、ひげを生やしたイスラム戦士が「ちょい待てよ。新年の祈願の挨拶は一月末まで期限があるんだ」と言わせた漫画を書いているが、これなどはまさに誘い水をしたと思えるほど不幸な一致だ。楽しませてくれる風刺画もあるこの週刊新聞の掲載内容には、今後、厳密な分析と批判が課されているといえる。

 ところで今回の漫画家虐殺に絡んで言えば、一九八七年、パレスチナの有名な漫画家ナジ・アル・アリをロンドンで暗殺したのはイスラエル諜報機関モサドだが[5]、この事件は欧州のマスコミの関心を引かなかったし、今回のような市民の自発的なデモは起こらなかった。ましてや国際世論ではほとんど無視されてしまった。

 この度の事件は、 新聞社<シャルリー・エブド>に対する攻撃という意味で、表現の自由、言論の自由の問題に触れないわけにはいかない。ジョン・シチュアート・ミルの「自由論」に倣えば、自由とは相手を侮辱する自由を前提としている。その侮辱が損害とならない限りにおいて、自由は許される。ただし、この侮辱と損害の境の線引きは難しい。時と場合によっては、この侮辱は危険を覚悟しないとできない。哲学者エチエンヌ・バリバールが指摘するように、挑発的な表現がすでに烙印を押された数百万の人々に辱められたという感情を繰り返し植え付けるなら、シャルブ(『シャルリー・ヘブド』編集長)と彼の仲間たちは、こうした事態に対して<不用心>だったのではないか[6]、という仮定は成り立つ。「言論の自由を断固として守る」としても、この指摘は至極真っ当だと思える。

 最後に、世界化しているジハード(聖戦)を唱えるイスラム世界の聖戦派について考えねばならない。聖戦派は、西洋と対抗する中で歴史的に古くから存在して来た。欧米の警察、軍隊は世界的なネットワークを使って聖戦派の明日のテロを防ごうと躍起になっている。たしかにサラフィー派などのような急進派には気をつけざるを得ない。だが武器や資金を出しているのは、カタールやサウジ・アラビアを通じて欧米からのルートがあると指摘されてもいる[7]。聖戦派がとくに台頭して来る真の理由は何だろうか。本来、イスラム教徒たち自身がこうした急進的なテロ活動の最大の犠牲者であることは言うまでもないが[8]、こうした極端な狂気に近いアクションが出て来るとしたら、やはりその要因は必然的に社会の中にあるとみるべきだろう。テロ行為は自然発生するものではない。必ず政治的、社会的理由がある。発生するその社会に相当のひずみが生じているからこそ、そこに狂気が発生する要因が生まれるのだ。今日の数的成果と利益のみを追求する資本主義、終わらない北側諸国の暴力的な植民地主義の上にあぐらをかいて、己の立場を正当化し、相手をテロリストと決めつけて武力による解決のみをめざすなら、事態は決して沈静化に向かわないないだろう。そしてこうした状況がまさに前述した<好戦的な社会>を生み出しているとするなら、共和制の三原則とはまったく逆の、不自由、不平等、不友愛がまかり通ることにならないだろうか。生命をいとわない、愛情の片鱗もない人生を生き甲斐と勘違いしてしまうような教育を若者たちに与えていないだろうか。そのことこそわたしたちは深く省察すべきだろう。

[1] レジス・ドブレ:インタビュー、フランス・キュルチュール放送、2015年1月12日

[2] 「国境なき記者団」2014年殺された記者報告、「アムネスティー・インターナショナル」Newsの報告から。

[3] < Etat du monde 2015>, La Découverte, Bertrand Badie, Dominique Vidal

[4] 『ユマニテ』1月11日号、ドミニク・ヴィダル

[5] BBC News : http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/july/22/newsid_2516000/2516089.stm

[6] 『リベラシオン』紙、2015年1月11日

[7] « L’état du monde 2015 », La Découverte:輸出国ではドイツ、フランス、イギリス、カナダ。リヤドは米国、ヨーロッパから大量に武器を買っている。

[8] この二つのテロ事件の後、二十件以上のモスケやアラブ人に対する嫌がらせ、恐喝、攻撃があった。

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【管理人よりお知らせ】福島原発告訴団が、原子力安全・保安院関係者など9名を追加で刑事告発しました

2015-01-14 23:38:23 | 原発問題/一般
管理人よりお知らせです。

福島原発告訴団は、13日、東京電力関係者、経産省原子力安全・保安院関係者など9名について、業務上過失致死傷罪により東京地検に追加で刑事告発しました。

福島原発告訴団は、2012年6月、11月の刑事告訴・告発の際には、東京電力に加え、原子力委員会関係者など政府(規制当局)関係者も含めた33名を刑事告発しました。一方、2013年9月に行った汚染水漏出に関する公害罪法違反容疑での告発は、東京電力関係者のみとし、政府関係者の告発は行っていませんでした。

しかし、その後、いわゆる「吉田調書」に関する朝日新聞の一連の報道を巡る問題をきっかけに、政府事故調査委員会の聴取記録書が公開され、また、国会事故調査委員会の協力調査員であった添田孝史氏による「原発と大津波 警告を葬った人々」(岩波書店)の刊行ともあいまって、次第に政府の責任が明白になってきました。これらの資料により、政府が東日本大震災以前から津波による事故発生の危険性を認識していたこと、津波対策を進言していた担当者の意見を、彼らに圧力をかけてまで退けた結果、有効な津波対策が行われず、事故に至ったことが裏付けられました。

このため、福島原発の安全対策に実務レベルで携わっていた東電社員3人、原子力安全・保安院職員4人、原子力安全委員会職員(廃止)1人、電気事業連合会の津波対策担当者1人の計9人について、業務上過失致死傷罪で告訴・告発したものです。

なお、今回の告訴・告発については、ジャーナリスト小石勝朗さんが、「マガジン9」サイトで詳しく解説しています。大変参考になりますので、ぜひご覧ください。

小石勝朗の「放浪記」第40回~内部での「口封じ」疑惑まで浮上した原子力安全・保安院~原発事故の第2次刑事告訴が明かした新事実(マガジン9)

この他、各メディアの報道です。

「想定超える津波予測できた」 担当者らを新たに告発(TBS)

「巨大津波対策怠った」東電担当者らを告訴・告発(テレビ朝日)

福島原発告訴団の追加告訴対象者名公表。旧保安院審議官ら9人(Finance Greenwatch)

東電担当者ら新たに告訴=福島原発事故―市民団体(時事)

東電社員ら9人を業務上過失致死傷罪で追加告訴 福島原発告訴団(産経)

保安院元幹部ら4人を追加告訴 福島原発告訴団(朝日)

<東日本大震災>福島第1原発事故 9人を告訴・告発 業務上過失致死傷容疑 /福島(毎日)

<圧力発言>旧保安院職員ら9人告訴・告発(河北新報)

福島原発事故、再び刑事告発 東電関係者ら9人(福島民友)

「津波対策怠った」新たに9人告訴~福島原発告訴団(Our-Planet TV)

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【管理人よりお知らせ】サイト更新について

2015-01-13 21:35:58 | 運営方針・お知らせ
管理人よりお知らせです。

久しぶりですが、「罪団法人 汽車旅と温泉を愛する会」サイトを更新しました。

更新したのは、鉄道系コンテンツのうち「鉄道全線完全乗車活動の記録」「鉄道コラム」です。このうち「鉄道コラム」には、「追悼・種村直樹さん~日本最初のレイルウェイ・ライター」を掲載しました(当ブログには掲載済みです)。

鉄道全線完全乗車活動の記録は、2012年以来、2年ぶりの更新です。この間の実績を盛り込みました。JRに関しては、北海道の乗車活動が進んだことから、大幅に達成率が上がりました。ただ、今後は北陸・北海道新幹線の開業などで達成率は下がる見込みです。

また、私鉄も大幅に上昇し、7割の大台を超えました。「生きているうちに達成」の目標が見えてきたと思います。

今後とも、「罪団法人 汽車旅と温泉を愛する会」をよろしくお願いいたします。

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2015年 新年目標

2015-01-04 17:24:40 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
例年通り、昨年(2014年)の目標達成度の点検と2015年の新年目標を発表します。まずは昨年の総括から。

1.鉄道
12月29日付記事のとおり、未達成に終わりました。ただし、JR線に限れば達成できました。

2.その他
年明け当初に目標として掲げたネット小説の執筆に関しては、4月に目標から撤回したので、ここでは評価の対象としません。

続いて2015年目標です。

1.鉄道
全線完乗は、北海道の未乗車JR線をすべて乗り、北海道を終わらせること。また、本州でもJR線1線を目標とします。北海道勤務も3年目となるので、このあたりで終わらせたいです。

2.その他
(1)今年は、御巣鷹への日航機墜落事故から30年、JR福知山線脱線事故から10年の節目の年です。8月に御巣鷹山への慰霊登山を是非行いたいと考えています。

(2)昨年、一度は掲げながら挫折したネット小説に再チャレンジします。すでに、話法や表現などを見直した結果、ライトノベルとしては問題なく公表できる水準になったと思います。ラノベなんて…と初めは思っていましたが、気負わず、好きなように書くことを優先したいと思います。

概要のみ紹介しますと、最初は主人公とヒロイン(いずれも中学生)の平凡な学園恋愛ものとしてスタートします。第1部ではラノベとして2人の学園生活や恋愛模様を中心に、主人公の成長ぶりを描くことがメインになります。現在、10話程度まで書き上げています。

第2部(未定)では、高校生となった2人の成長を引き続き描きますが、成長はむしろヒロイン側が中心となる予定です。

第2部まででいったん完結としますが、当ブログ管理人にはさらに第3部の構想もあります。このあたりはいつ、どんな形で始められるのか、それ以前に執筆自体があり得るのか…? 私にもわかりません。

第1部の公表は、執筆状況を見ながら「汽車旅と温泉を愛する会」で順次、行っていく予定です。その際は当ブログでお知らせします。

今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

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明けましておめでとうございます

2015-01-01 23:34:27 | 日記
元日も夜も更けてのご挨拶となりましたが、2015年、明けましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。

当ブログも早いもので今年、開設9年となります。その時々の政治経済社会情勢をそれなりに刻んで来たと自負していますが、ここ最近はネットでの情報発信に限界も感じており、新たな形での情報発信のあり方を見いだせる1年にできればと思っています。

なお、今年の新年目標等は、改めて発表いたします。

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