当ブログをある程度の期間、ご覧のみなさまはお気づきかもしれないが、2020年初頭から運営方針を大きく変えている。昨年までは、管理人にとって2大ライフワークとなっている原子力問題と、公共交通問題に特化した書き込みにしてきた。しかし、この2つの問題はどちらも膠着状態で、当分の間解決の見込みはほぼない。そんななかで、解決の見込みがないとわかっている問題にばかり取り組み続けるというのは、よほど心身強健な人でないと難しい。管理人も、そんな状態が長く続き、仕事でも「詰んで」しまったため、メンタル異常気味になってしまった。
どのみち今年は東京オリンピック・パラリンピックのせいで海外はともかく9月まで国内情勢は動かないだろう。そう思い、今年は思ったことを気軽に書き綴るブログ本来のあり方に戻してみようと思ったのだ。
「逃げるは恥だが役に立つ?~離脱、脱出が2020年代のキーワードかもしれない」と題した2月1日付記事はある程度好評だったようだ。日本人は従来から逃げることを恥と捉えることが多い。むしろ負けるとわかっていても闘い、忠誠を誓った人/思想/イデオロギーと共に散る人、最後まで信念を曲げない人が賞賛される傾向にある。たとえその信念がどれだけ間違っていたとしても、またその闘いがどんなに自分に不利なルールの下で行われていたとしても、だ。
だが、果たしてそれは正しいあり方なのだろうか、という問いを立てたいと思って書いたのが2月1日の記事だった。いま自分が立っている場所でのゲームが著しく自分に不利な糞ルールで行われ、しかも内部からの改革でそれを自分有利にはならないとしても、せめて中立に近いものに改めていく道も否定されたとき、自分がその場所にとどまるべきかどうかはもっと正面から問われていいのではないか。
糞ルールの下で、いつか「負け」と判定されるときが来ることはわかっているのにそれに身をやつすのは、自分がピッチに立っている間に「負け」宣告を受けたくないだけのことが多い。いつまでもクソゲーを続けている間に消耗し、傷はどんどん広がっていく。ここでゲームから降りられたらどんなに楽だろう――そう思ったことは誰しもあるはずだ。今回、英国はその決断をしてEUというクソゲーから降りた。ヘンリー王子とメーガン妃も英王室というクソゲーから降りる決意をした。頑強に結婚に反対する保守オヤジたちといつまでも地上でクソゲーを続けるより、眞子さんも皇室から降りてもいい――そういう心境になりつつあるのではないか。
ボクシングやレスリングでは、タオルを投げてリングから降りることは敗北を意味する。だが、圧倒的に自分が不利なクソゲーを強制している相手からの一方的な「負け」宣告なんて知ったことか、自分には関係ねぇ、と割り切ってしまえば楽になる。そう考えれば、民主党政権崩壊後、なぜ日本の無党派層が誰に何を言われようが決して選挙に行かなくなったのかも理解できる。自民党だけがいつまでも勝ち続け、たまにそれ以外の政党が政権を取っても裏切られるクソゲーからは降りたほうが楽だからだ。
かくいう当ブログ管理人も、何度もこのクソゲーからは降りようと思った時期がある。自民党公認の5文字がポスターに入っているだけで、候補者が人間でなくても当選してしまうようなクソゲーに自分が参加する意味があるのか、と。最初から勝ち目のない選挙という究極のクソゲー。それでも当ブログ管理人が降りられないでいるのは、政治に無関心ではいられても無関係ではいられないからだ。それゆえ、当ブログ管理人はこのクソゲーには「プロテスト・ヴォート」(抗議投票)を超える意味はないと見て、自民党から最も遠い政策、理念を訴える政党への投票を抗議のためだけに続けてきた。
2020年代の大胆(?)予測~向こう10年の世界はこうなると題した1月25日付の記事は、誤解していただきたくないが、あくまでこのまま日本社会が進んだ場合に向こう10年代がどうなるかを予測するものであり、筆者の希望、願望は一切含まれていない。それなのに、そこを「誤読」した特に「左翼」陣営の人々からは、当ブログ管理人があたかも55年体制礼賛論者かと問い詰めるような批判を受けることがある。念のため言っておくが、当ブログ管理人は55年体制を礼賛などしていない。ただ、それでもこの体制が崩壊した後、それよりましな体制が一度でもこの日本社会に生まれたことがあるのかは問いたい。「他に適当な人がいない」から仕方なく安倍政権を支持している保守層と同じように、当ブログ管理人もまた、政権交代可能な保守2大政党制をめざして政治改革が進められてきたこの四半世紀、自民、公明、共産以外の各党が離合集散を繰り返してきた挙げ句に、何者も生み出さなかった歴史的経緯を検証する中から仕方なく「55年体制のほうがよりましだった」との結論に達したに過ぎないのだ。
いたずらに時間を浪費しただけに見えるこの四半世紀から、私たちはどんな教訓を汲み取らなければならないのだろうか。別の表現をすれば、なぜ日本には自民党に代わって政権を担いうる野党が育たないのだろうか。前置きが長くなってしまったが、2010年代を通じてずっと考え続けてきたことを今日はここに書いておきたいと思う。
政権交代可能な2大政党制が成立するためには当然ながらいくつかの前提条件がある。①官僚機構がどの政党に対してもフラットな立ち位置を取り得ること、②2大政党がいずれも全国的で強固な組織基盤を有していること、③世論が左右両極に分裂せず、対立型争点(国防、安全保障、エネルギー、民営化問題など)よりも合意型争点(政治改革、経済政策、社会福祉など)が優位であること――等は最低限必要な条件といえよう。しかし、これらのうち日本が現在満たしている条件がひとつでもあるだろうか。当ブログ管理人の答えは「ノー」である。
加えて、多くの政党が与党と野党のいずれをも長く経験し、与党の役割である政権運営と、野党の役割である与党監視、批判、チェックの役割をいずれも担えるようにならなければならない。しかし日本の場合、自民党には与党の経験、野党には野党の経験しかないから、お互いが別の役割を習得する機会がめぐってくることはほぼない。野党が政権運営の経験を積むためには一度チャンスを与えることが必要だが、日本人は未熟な新しい政権にも即結果を求め失敗を許さないから、結局未熟な勢力にはチャンスが与えられること自体がない。こうして、野党はさらに政権獲得の機会から遠ざけられるのである。
日本人が未熟な新しい勢力に政権をゆだねる気にならない、どんなに腐敗していても政権担当の豊富な経験がある老舗政党の政権がいつまでも続くのがいいと考えているなら(政権交代可能な2大政党制を求める人たちは「そうではない」と主張するだろうが、当ブログ管理人には多くの日本人がそう考えているとしか思えない)、取り得る選択はひとつしかない。自民党と野党のそれぞれを「政権担当に特化した部分最適政党」「与党監視、批判、チェックに特化した部分最適政党」として育成し、それこそ部品のように組み合わせながら全体最適を実現することである。なんだ、それじゃ55年体制そのまんまじゃないか、という人がいるかもしれないがその通りである。政権担当用の部品(自民党)とブレーカー(野党)を組み合わせて製品(政治体制)の暴走を防ぐ。55年体制は、部分最適はできても全体最適ができない日本人に最も向いている政治体制だったのである。
さしあたり、立憲民主党に対し「対案も出さずに批判だけするな」という攻撃をするのは控えたほうがいいように思う。むしろこの党を与党監視、批判、チェックに特化した部分最適政党として、150議席クラスに育てれば、自民党もうかうかしていられないと襟を正すだろう。立憲は、旧社会党のように「政権をめざさない宣言」をしてみたらどうだろうか。「自分が投票することで、間違って自民党以外に政権が渡る危険」から解放されれば、政権交代しても裏切られるのが怖くて選挙というクソゲーから降りていた多くの無党派層にピッチに戻るチャンス――自民党を政権に就けたまま、懲らしめるために選挙に行くという新たな選択肢――が生まれるからだ。
当ブログ管理人が、サラリーマンとして組織に勤めるようになって四半世紀が過ぎた。その四半世紀は、政権交代可能な保守2大政党制をめざして政治改革が進められてきた日本の歩みとほぼ重なる。その四半世紀、組織というものに身をゆだねて生きてきた当ブログ管理人もまた「本当に日本人は全体最適が苦手なんだな」とつくづく実感するのだ。各課で同じ作業をしていたり、同じ資料をあちこちでコピーしていたり、組織としての方針を出すために開催されたはずの会議が部署ごとの利害対立で機能不全を起こしたりする様子を幾度となく見てきた。各部署、各現場がそれぞれ勝手に自分たちの狭いテリトリーだけをうまく回すための「部分最適」なら日本人は他のどの民族よりも得意なのだが、組織を大所高所から見渡し、全体最適となるように調整する人がいない。完成品市場で負け続け、日本の製造業に最終的に部品産業しか残らなかったのも、狭いテリトリーだけの部分最適しかできない日本人の特性の結果かもしれない。
特に、危機管理、セキュリティ対策といった分野での日本の組織の行動を見ていると、苦手どころではなくもはや哀れみしか感じない。この分野に限っていえば、それこそ外国の民間セキュリティ会社に金でも払って任せたほうがはるかにうまくいくと思う。
この日本の苦手分野――危機管理、セキュリティ対策といった分野――は、政治に関していえば与党となったときの「政権担当能力」を表す典型的な指標である。そこで自民党に代わるまともな野党が育たない理由としては、結局のところ日本人には危機管理が苦手だからということに尽きる。自民党にしても「他よりまし」なだけで五十歩百歩であることは、新型コロナウィルス対応ひとつ見ても明らかだろう。
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翻って考えてみたい。日本ではどんな組織、どんな政党が強くなり生き残るのか。
現在、良くも悪くも安定している政党は自民党、公明党、共産党の3つである。共産党は、戦前から続く唯一の党。自民党は1955年に結成された。公明党は、1961年に前身となる公明政治連盟として発足後、1964年に現党名に変更された。現在、国会に議席を有する政党の中で、現党名になってからの歴史が長いほうから1位、2位、3位の政党である。メディアでは「江戸時代から300年続く老舗店」で看板を継いだ何代目店主の誰それさん、などの形で名店を紹介する番組や記事が多いが、これと同じである。「一度決めた看板は容易に変えないこと」が存続条件のひとつである。
2つ目は「時代に合わせて柔軟に目玉商品を変えること」である。メディアで取り上げられる老舗店は、創業時と今とで目玉商品が変わっていることが多い。「創業したときは○○だったんですが、今はそれよりも××ですね」というケースである。屋号が老舗としてのブランド価値を持つようになっても、時代は変わる。創業時の目玉商品や品揃えのままで長く商売を続けられるほど世間は甘くない。いつまでも潰れずに生き続ける老舗は、時代に合わせて目玉商品や品揃えを変えてきたからこそ現在までしぶとく生き残ってきたともいえる。
3つ目は「万人受けする品揃えとせず、一定層を固定客にできればよい」と割り切ることである。老舗店の多くは固定客でしぶとく生き残っている。店主が親から子へ、子から孫へと引き継がれるように、顧客も親の世代からずっとファン、という人は多い。
これを政党に置き換えると、「看板は時間が経てば経つほどブランドとして価値が出るので容易に変えてはならないが、目玉政策やマニフェストは時代に合わせて柔軟に変え、固定客をがっちり維持していくこと」がしぶとく生き残るための条件ということになる。自民、公明、共産の3党は、この条件を満たしているからこそ生き残っているのだ。
このうち日本共産党に関しては、興味深いエピソードがある。志位和夫委員長が30歳代の若手ながら初めて書記局長に登用されたのは1990年だった。その翌年には、東ヨーロッパ諸国での相次ぐ社会主義体制崩壊の影響を受け、西ヨーロッパ最大の共産党だったイタリア共産党が左翼民主党に名を変える。日本共産党もイタリア共産党にならい、党名を変更したほうがいいのでは? ――そう問う記者に対し、志位書記局長はこう答えたのだ。
「我々が(イタリア共産党のように)党名を変えたとしても、どうせあなた方マスコミは新党名の下にかっこ書きで「旧共産党」とお書きになるんでしょう? であるならば、我々は党名変更などせず、日本共産党のままで活動します」。
志位書記局長のこの発言には根拠がないわけではない。東ヨーロッパの社会主義国で一党支配していた政党には、共産党でない名称を名乗るケースもあった。だがこうした政党に対し、当時のマスコミは「東ドイツ社会主義統一党(共産党)」(新聞)、「ポーランドの事実上の共産党に当たる統一労働者党は、……」(テレビニュース)などと実際に報道していたからだ。どうせ「旧共産党」と呼ばれるなら共産党のままでいい……これまで見聞きしてきた各政党党首の記者会見における発言で、これほどすがすがしいものを当ブログ管理人は現在に至るまで知らない。
離合集散を繰り返してきた立憲民主党、国民民主党などの諸政党が、ネットを中心に今なお「旧民主党」「隠れ民主」などと呼ばれ続けている事実は、若かりし頃の志位書記局長のこの「読み」が正しかったことを物語っている。民主党系の諸政党がいつまでもまとまらず、彼らがめざす「大きな塊」にもなれないのは、「目玉商品を変えても看板変えるな」という老舗組織の法則の真逆――「失敗した過去の政策を変えることなく、看板だけ変える」を繰り返しているからだ。
そろそろ結論に入らなければならない。特にこの日本で、自民党に代わって政権交代可能な政党を育てるには10年や20年ではきかない長い年月を必要とする。場合によっては人間の一生に匹敵するほどの時間が必要かもしれない。「由緒あるこの党名を守り抜くためなら、死んでもいい」と党員、議員、支持者が思える程度には長く看板を維持することが必要だ。逆に、いくつかの目玉政策は維持しつつ、それ以外の政策は時代の変化に合わせて変えていく柔軟性はあっていい。そして、地道に地方から組織を作り、選挙の声が聞こえると演説を始めるのではなく、いつでもどこでも目玉政策を訴える活動を続ける。自分の生きている間に自民党を倒せなくてもいい、子どもや孫の世代にこの誇りある看板を引き継ぎ、自分たちの世代にできなかった打倒自民の夢を託す――そこまでの覚悟を持った人々が集うとき、初めて打倒自民は実現するのである。