以下は、3月11日、郡山市で開催された「
原発いらない!3.11福島県民大集会」での福島県民の発言である。
当事者として、いずれも強く心を揺り動かされる貴重な証言である。特に、まだ高校生の鈴木美穂さんが発した「原発がなければ、津波の被害にあった人を助けに行くことができました。それを思うと怒り、悲しみでいっぱいです。人の命も守れないのに、電力とか経済とかいっている場合じゃないはずです」の訴えを、当ブログは強く支持する。
組織に闘いを代行してもらったり、有名人の名声にすがったりするより、最も理不尽な経験をしているひとりひとりの住民が、当事者として前に出る。どのような闘いでも、そこからしか始まらないのだ。
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*菅野智子さん
私は小学生の2人の子どもを持つ母親です。3・11、原発事故を境に見には見えない放射能が降り注ぎ、自身や我が子が被ばくし、いずれ、影響が表れるのではないか、という不安がつきまとっていました。毎日、毎日、否応なく迫られる不安…、逃げる・逃げない・・・食べる・食べない、・・・洗濯物を外に干す、干さない・・・子どもにマスクをさせる・させない・・・など、さまざまな苦渋の選択をしなければなりませんでした。子どもたちは、前のように、自由に外遊びができません。学校の校庭で運動もできません。運動会も中止。
そこで、私たち家族は山形県の米沢市に、同居していたお姑さんと子どもたちと私の4人で自主避難しました。現在は借り上げ住宅に住んでいますが、避難生活は経済的な負担があり、二重生活や住宅ローンが重くのしかかります。仕事の都合で家計を支える父親は福島県に仕事があり、週末だけ子どもたちに会いに来ます。私は精神障害者の施設でいろいろな支援の仕事をしていますので、米沢市から福島まで、毎日、通勤しています。
子どもたちは2学期から米沢市の小学校に転校しました。「福島から来た子」と、いうことで、いじめに、あうのではないかと心配しましたが、一学期からすでに福島からの転校生もいたり、いじめの事実もなく、二学期からの転校生は十数名いました。学校の先生やお友達に温かく迎えられ、お友達も、あっと間にできて遊びにいったり、来たりしています。外で思いっきり遊ぶこともできます。米沢は雪も多く、生まれて初めての経験もありますが、「楽しい」と嬉しそうに話してくれます。中には学校や環境になじめず、福島に戻られた方もおります。
子どもたちは不満も言わず、元気に過ごしていますが、原発が無ければ、福島から米沢に来ることも、転校も無かったし、福島の友達と遊べた、米沢は放射能から逃げることも無く、外で遊べる、でも、「福島の方が楽しかった」と時折、さびしそうな顔をします。私たちは福島第一原子力発電所の事故が無ければ福島を離れることはありませんでした。
子どもをまもりたいと米沢に来たこと、それでも福島が好きだ、ということ、その気持ちは変わりません。
*菅野正寿さん
原発から約50キロの二本松で、専業農家をしています。原発事故から一年・・・とりわけ、自然循環と生態系を守り、健康な作物、健康な家畜を育んできた・・・何よりも、子どもたちの命と健康のために取り組んできた有機農業者への被害は深刻です。落ち葉は使えるのか? たい肥は使えるのか? 米ぬかは? 油粕は?・・・改めて、この福島の自然の大切さを感じています。自分の畑にさえ行くことができず、避難を余儀なくされている・・・私たちは、耕したくとも耕せません・・・
私たちは自然と向き合い、耕し、種をまき、農業の営みを続けてきました。放射線は予想以上に(※有機)農産物への影響を低く抑えることができました。新潟大学の山田教授をはじめ、日本有機農業学会の検証により、粘土質と腐食土の有機的な土壌ほど、作物が健全化されるのが分かってきました。つまり、有機農業が、再生の光、であることが、見えてきました。農業総合センターに有機農業推進室がある、全国的に誇れる、有機農業ケースです。
見えない放射能を測定して、見える化させることにより、「ああ、これが、孫に食べさせられる」と、どれだけ、農民が安心したか・・・夏の野菜も秋の野菜も、ほとんど0~30ベクレル・・・ただ、残念なことに福島県の特産である梅、柿、ゆず類は300ベクレル以上、キノコ類も菌糸が取り込みやすく、山の原木は、あと、何年、使えないのか・・・経営転換を迫られる農家、離農する農家も出ています。
1月に農水省が発表した福島県の調査では、98.4%が50ベクレル以下です。500ベクレル以上出た、わずか0.3%が大きく報道されたことにより、どれだけ農民を苦しめているか・・・私たちは、まるで「福島県民が加害者」のような、マスコミの報道に怒りを持っています。マスコミが追及すべきは電力会社であり、原発を国策として押し進めてきた国ではないか?
私たち人間は自然の中の一部です。太陽と土の恵みで作物が育つように、この自然に真っ向から対立するのが原発です。農業と原発、人間と原発は共存できません。
戦前、郷土の農民は、農民兵士として戦地で命を落とし、戦後、高度経済成長の下、高速道路に新幹線に、ビルの工事に、私たちの親たちは出稼ぎとして労働力を奪われ、過密化した都市に工業に労働力を供給しました。その構造は持続可能な社会でしょうか?
福島のきれいな海も約3500年も続いてきた黄金色の稲作業も、まさに林業も漁業も農民の血のにじむような営農の結果なのです。つまり、第一次産業を守ることが、原発の無い持続可能な社会をつくるのではないでしょうか?
私たちの親が、そのまた親たちが、30年後、50年後のために山に木を植え、田畑を耕してきたように、私たちもまた、子どもたちのために、この福島で、耕し続けていきたいと思うのです。そして、子どもたちの学校給食に、わたしたちの野菜を届けたい、孫たちに食べさせたい。そのために、しっかり除染をして、放射能を追い出して、耕すことが、福島の、私たち農民の復興ではないかと思っています。
生産者と消費者を分断するのではなく、都市も農村も、共に力を合わせて、農業を護り、再生可能なエネルギーを作り出して、地場産業を住民主体で作り出していこうではありませんか。
原発を推進してきた、大企業中心の日本の在り方を、今、変えなくて、いつ変えるのでしょうか? 今、転換せずに、転換するのでしょうか? 「がんばろう、日本」ではなく「変えよう! 日本」、今日を、その転換点にしていこうではありませんか?
*佐藤美恵さん
去年の3月11日、東北沿岸は巨大津波を受け、私の住む相馬町も甚大な被害を受けました。美しかった町の風情は跡かたもありません。私は相馬町で育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は毎年、水揚げが年間70億円あり、沿岸漁業では全国有数の規模を誇っていました。私は、その市場で水揚げした魚をさばき、家に戻りました。その時、あの、地震が起こったのです。
消防車が「津波が来るので避難してくださ~い」と、巡回していました。私は「本当に津波なんか、来るのかあ?」と半信半疑で遠くの海を眺めると、真っ黒な波がすご~く山のように見えたのです。「駄目だあ、逃げろ~」と息子は子どもを抱き抱え、私は夫と共にやっと高台へ逃げたのです。そこから見た光景はまるで地獄のようでした。その頃、弟は自分の船を護るために必死で船を沖へ出したのです。沖では仲間と励まし合い、津波が落ち付くのを待ち、やっと帰ってこれたのは、3日後でした。しかし、両親は逃げ遅れ、家ごと波にのまれて、帰らぬ人となりました。本当に残念でなりません。
そして、船を津波から守った漁師たちは、9月になれば、何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つ一つそろえ、頑張ってきました。しかし、放射能がそれを許しません。毎週サンプリングして「来月からは大丈夫だろう、船を出せる」と期待しては、だめだ、という暮らしでした。市場は変わり果てた姿のままです。
元通りになるまでは、まだまだ時間がかかりますが、私たちは1日も早い漁業の復興を望んでいます。現在、漁業者は海の瓦礫清掃に出てています。しかし、夫たちはもう一度、漁師として働きたい、私は市場で夫の取ってきた魚を売る、活気ある仕事がしたいのです。そして、もう一度、あの美味しかった福島の魚を、全国の皆さんに送り届けたいのです。
*菅野哲さん
私は今、飯館村から福島に避難しています。飯館村では高原野菜を作ってました。しかし、今回の、原発事故で全てを、失ってしまいました。飯館村の農家は、ほとんどが農地も、牛も、全てを、失って、涙を流して、廃業しました。もう、の飯館村で農業を営むことはできないのです。避難しても、何もすることが無いんです。農家は、農業をやることが仕事です。どうやって、生きろ、というのですか? 誰も教えてくれません。
事故から1年がたちます。飯館村は、去年の3月16日の時点で、44、7マイクロシーベルトです。この高い放射線量の、中に、飯館村村民は、ほおっておかれたんです。被曝をさせられたんです・・・誰の責任ですか? さらには、水道水まで飲まされてきたのです。加えて、学者は・・・国の行政も「安全だ」といってきました。どこに安全があるんでしょうか? これを、どうしてくれるんですか? 答えてほしい。
国民に、国も、学者も、政治家全てが、正しく教え、正しく道をひくべきであります。死の灰を撒き散らしておいて、「放射能は無主物だ」という(※裁判で東電が主張)・・・何事ですか? 原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。
今は大手電力(会社)が双葉町、相馬町に入っています。「除染」、「除染」・・・歌の文句のようです。私たち暮らしについては、住民の希望は何一つ聞いていません。希望の持てる施策は無いのですか? こんなことで許せますか?
まだまだ、長生きでたはずの村の高齢者が、次から次と他界していきます。うちに帰れないで、悲しくも旅立ちます。早く・・・早く、放射能が心配がなくて、元のように美しい村として、安心して、安全で暮らすことができる・・そういう生活の場所を、新しい村を、私たちに建設してください。
飯館村は放射能汚染です。そこでは暮らせません。新しい所を求めなければならないのです。国も行政も、子どもの健康と若者が未来に希望を持って暮らすことができる、そういう生活ができる、住民の意向を十分に反映した、そういう施策を要求します。
この悲惨な原発事故を2度と起こしたくありませんし、この事態を風化させたくありません。国民は忘れてはならないんです。
福島県の皆さん、全国の皆さん、特に福島県の皆さん、県民が一丸となって、もっと、もっと、全国に訴えていきましょう!
*鈴木美穂さん
わたしの地元は郡山ですが、サッカーをしたくて富岡高校に進学しました。寮生活をしながらサッカーに明け暮れ、仲間と切磋琢磨の、充実した生活でした。地震が起きたのは体育の授業中でした。
避難している時、まさか、原発が爆発するなんて予想もできませんでした。私は、この、震災が起きるまで、原発のことは何も理解していませんでした。避難する時、自衛隊や消防車が次々と、すれ違って行く光景は、現実とは思えませんでした。小さな、黒い包みを配っている人たちがいました。それは、おそらく、安定ヨウソ剤だと思います。配っている様子は、とてもあわただしく、焦っているようで、私は、やっと、事態の深刻さが飲み込めました。
1号機が爆発し、川口町も危なくなり、郡山まで避難することになりました。送ってくれた先生は泣いていました。先生には原発で働く知人がいるのです。原発事故を終わらせることができるのは、作業員の人たちだと思います。でも、その作業員は私の友人の両親や、誰かの大事な人だったりします。こうしている今も、危険な事故現場で働いている人がいます。そのことを考えると私は胸が痛みます。
私は転校しましたが、すぐに、学校にもなじむことができました。でも、私は、被災者になりました。被災者ということで、様々なイベントに招待されもしましたが、正直、かえって自分が被災者であることを義務付けられるようで、それが一番、問題でした。「がんばれ」という言葉も嫌いでした。
時がたつにつれ、原発事故の、人災ともいえる側面が明らかになってきています。原発がなければ、津波の被害にあった人を助けに行くことができました。それを思うと怒り、悲しみでいっぱいです。人の命も守れないのに、電力とか経済とかいっている場合じゃないはずです。
(※昨年)3月11日の朝、私は寝坊して急いで学校に行ったことを覚えています。天気は晴れていて、また、いつものような一日が始まろうとしていました。しかし、その日常に戻ることはできません。線量が高い郡山で、生活し続けることに不安を持っていますが、おじいちゃん、おばあちゃんを置いて移住することはできません。
私は原発について、何も知りませんでしたが、今、ここに立っています。私たちの未来を一緒に考えていきましょう。
*橘柳子さん
浪江町は原発の無い町、しかし、原発が隣接する町です。私は敗戦で引き上げて以来、浪江町に住んでいました。現在は本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9カ所の避難所を転々としました。あの原発事故の時の、被災者の多くは、百人いれば百人の、千人いれば千人の、苦しみと、悲しみの物語があります・・・語りたくとも語れない、泣きたくとも涙が出ない、辛い思いを、みんな、抱えています。
津波で多くの人が亡くなったところは、原発から直線で7キロの距離です。でも、原発事故後の対応のために、外を捜索も出来ずに、消防団をはじめ、救助の人たちは諦めねばならなかったのです。3月11日は「津波による高台への避難指示」、3月12日は、「避難してください」のみの町内放送でした。「なぜ?」が、無かったのです。したがって、ほとんどの町民は2・3日したら帰れるだろう、と思って、着のみ着のまま、避難しました。そこから、そのまま長い避難生活になるとは、どれほどの人が考えたでしょうか・・・
もっとも・・・町長へも・・・国からも東電からも避難指示の連絡は無かった、とのことです。町長は、「テレビに映ったのを見て初めて知りました」ということでした。なぜ、浪江にだけ、連絡が無かったのでしょう? どこからも連絡が無かったのでしょうか? 原発事故を知らせたくなかったのでしょうか? 疑問です。
そのため、避難も、また悲劇的です。115号線という道路を避難したのですが、そこは放射線の最も高い所ばかりでした。最初の避難場所には3日間いました。16日に避難場所の変更、携帯電話は一切通じませんでしたから、誰とも連絡がとりようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。12日と14日の太陽の光が、チクチクと肌を刺すようだったこのが、今でも忘れられません。
12日の避難は、私にとって、戦争を連想しました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で集結場所に向かいました。今度の事故の避難は徒歩が、車になっただけで、延々と続く車の列と、その数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして、私は思いました。国家政策により、二度も棄民されてしまう恐怖です。いつの時も、国策で苦しみ、悲しむのは、罪のない弱い民衆なのです。
脱原発の運動をした人にも、しなかった人にも、原発があった地域にも無かった地域にも、福島第一原発事故の被害は、くまなく覆いました。そして、不幸と再生の中で、差別と分断を、感じる時があります。見逃すことなく、注意していくことが、今後の課題ではないでしょうか?
「福島は・・・東北は、もっと声を、出すべきだ」と言われます。でも、喪失感のみ、心を覆っているのです。声も出せないのです。健康がすぐれない中で、原因や機構の追及は困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え、脱原発、反原発の追求が生きていくことが唯一の希望かもしれません。
先の戦争で、子どもたちが「おとうさんやお母さんは戦争に反対しなかった、と?」と、聞いたように、「お父さんお母さんは原発に反対しなかった、ど?」と言うでしょう。地震国に54基もの原発をつくった日本、そして事故により、日々、放射能に汚染され続ける国の子どもの当然の質問だと思います。
子どもたちの未来のために、人類とは共存できない核を使う原発は、いらない、との意思を示すこと、いったん、事故が起これば、放射能を出し続け、その放射能の被害と甚大さは福島原発事故で確認できたはずです。
この苦しみ悲しみを、日本に限って言えば、他の県の人々には、特に子どもたちには体験させる必要もない。膨大なカネを原発に向けるのではなく、再生可能なエネルギーの開発に向けていくべきです。なぜ、今、原発稼働をするという考えはどこから来るのでしょうか? 他のことを考えることができないほど、原発の影は長―いというのでしょうか?
でも、立ち止まって考えましょう。地震は止められないけど、原発は、人の意思で、人の力で、止められるはずです。
私たちは、ただ静かに、故郷で、過ごしたかっただけです。長―い間、いつくしんできた地域の歴史も、文化も、財産も我々を守ってきた優しい自然も、少しの豊かさでいい。子どもや自然を大事にした社会こそが望まれます。
どうぞ、全国の皆さん、脱原発、反原発に関心を持ち、お心を寄せてください。ささやかでいい、確かな一歩を踏み出すために力をお寄せください。そして、もう少しの間、寄り添ってください。危機は、あまりにも深いのです。