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華々しく報道された「北海道新幹線開業」の影で~JR北海道、「実質的倒産状態」に このままでは北の鉄路がすべて消える

2016-06-25 21:12:38 | 鉄道・公共交通/交通政策
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2016年7月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 本誌2015年8月号で拙稿「ついにJR北海道崩壊が始まった~「選択と集中」提言で噴出する赤字ローカル線問題」を執筆してからほぼ1年が経過した。この間、今年3月には北海道新幹線(新青森~新函館北斗)が開業。それを伝える華々しい報道が洪水のように流された。

 だが、そうしている間にも事態は急速に悪化の一途をたどっており、もはやJR北海道の自力再建の道は完全に閉ざされたように見える。華々しい新幹線開業の影で何が起きているのか。ローカル線の運命はどうなろうとしているのか。国民にとってベストの解決法はあるのか。それを明らかにするのが本稿の目的である。

 ●実質倒産状態の赤字会社が「赤字の新事業を立ち上げ」

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 さて問題です。

 毎年300億円の赤字を出している会社が、先月から新規事業を始めました。しかしこの新規事業ではさらに毎年50億円ずつの赤字が見込まれ、毎年350億円ずつの赤字が続くことがわかっています。しかも15年間。その新規事業開始を皆で大喜びしている会社があります。どこの会社でしょうか。

 そして、その新規事業に関する報道はこんな感じでご祝儀ムード一色。

 「『夢に近づいた』『歴史的な日』。北海道新幹線が開業した26日、最北の新幹線の駅となった新函館北斗(北海道北斗市)では乗客らが目を輝かせた――」

 みんな状況をわかって「目を輝かせている」んでしょうかね?

(出典:「北海道新幹線を廃止せよ~日本にこれ以上、高速鉄道は必要ありません」(「東洋経済オンライン」2016年4月29日付け記事)
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 この記事の執筆者は投資銀行家の「ぐっちー」氏である。日頃から資産運用家として、各企業の経営状態、財務状況を厳しく見極めることを生業としてきた彼のような人物にとって、赤字会社がさらなる巨額の赤字新規事業を立ち上げる姿は愚行としか映らないだろう。

 JR北海道の経営は危機的状況にある。社内に設けられた諮問機関「JR北海道再生推進会議」が、事業の「選択と集中」を加速するよう島田修社長に建議したのは2015年6月のことだ。それとほぼ時を同じくして、JR北海道は2016~2018年度までの3年間に安全投資に必要な額が2600億円に上るとの試算をまとめ、国に必要な支援を求めた。これに対し、国は、その46%に当たる1200億円の緊急支援を決める。内訳は、車両・レールの修繕・更新や枕木のPC(コンクリート)化に600億円、建物や設備の修繕費用に600億円と見積もられた。

 この国による1200億円の緊急支援に関しては、2015年9月、北海道新聞の報道によって衝撃の事実が判明する。社員の給与支払等に充てるための手元資金が2015年度末にマイナスに転じ、2018年度末には1122億円のマイナスとなって経営破たん状態に陥るとの試算をJR北海道が社内で密かにとりまとめていた。しかも、この試算は2015年初めには行われていたというのだ。前述した国による緊急支援の額は、JRが試算した手元資金のマイナス額とほぼ符合する。進退窮まったJR北海道が、再生推進会議という「外部有識者」のお墨付きを得た上で、一気に赤字線の整理に乗りだそうとする一連の流れも見えてきた。

 これとは別に、JR北海道は、石勝線特急列車火災事故が起きた2011年以降2020年までの間の第1次支援策として、「株主」である独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(鉄道・運輸機構)から600億円の無利子貸付と助成金を受けているが、JR北海道はすでにこの600億円もほぼ使い切ってしまった。2015年に行われた「安全投資緊急支援」1200億円も、その内情が「手元資金枯渇対策」であることを考えると、どれだけが実際に安全投資に使われるかは予断を許さない。総合的に見て、JR北海道の経営危機は一段と深刻さを増している。

 それにしても、社員の給与支払のための手元資金さえ一時、枯渇寸前に陥ったと聞き驚かされる。純粋な民間企業でもし給与遅配が起きれば、その企業は「倒産直前」と判定されるのが常識であり、中小企業なら社長が夜逃げしてもおかしくないケースだ。鉄道・運輸機構が全株式を保有している「国有企業」であるためか、メディアも政府もおおっぴらに口にはしないが、事ここに至った以上、筆者は今のJR北海道が事実上の倒産状態にあると見て差し支えないものと判断している。

 「ビジネスジャーナル」誌は、「早晩企業として事業の継続ができなくなり、鉄道サービスを提供するという当社の使命を果たすことができなくなってしまう」とのJR北海道のコメントとともに、「数年後には、JR北海道の救済が重要な政治的テーマに浮上してきそうである」と結論づけている(参考記事)。これは、ゴシップメディアにありがちな荒唐無稽な予測ではなく、客観的な現状認識から出発した「最もあり得べき未来」である。

 ●新幹線開業の影で~トイレ掃除もまともにできない在来線

 筆者自身、この間、JR北海道の事実上の「経営破たん」を象徴するような出来事に遭遇した。今年4月9日から10日にかけて、開業直後の北海道新幹線、新函館北斗~新青森間に乗車したときのことだ。

 新函館北斗駅まではJR室蘭本線・函館本線を走る在来線特急「北斗」でつなぐことにし、乗車前に「北斗」と新幹線の特急券をまとめて購入したところ、人気の高い窓側席があっけなく取れて驚く。開業からわずか半月なのにガラガラ状態、先行きが不安になるスタートだった。

 さらに驚愕の出来事が起きたのは、青森県内の有名温泉地で1泊した帰途、10日に乗車した「北斗17号」でのこと。車内トイレ(男性用)に入ったところ、猛烈な悪臭が襲ってきたのだ。男性用で、わずか数十秒間の滞在だから事なきを得たものの、最低でも数分間の滞在を強いられる女性用であれば、気分を悪くする人も出るのではないか――そんなふうに思わせるほどの悪臭だった。

 在来線列車の車内トイレと言えば、国鉄時代はほとんどが水洗方式ではなく、特急列車用車両でも多くは線路上への垂れ流しだった。「停車中は使用しないで下さい」という注意書きの横に「使用中は停車しないで下さい」という落書きがしてあるのを見たことがある。清掃状態がよくないと悪臭がすることは構造上珍しくなかった。保線作業員が列車の通過のたびに汚物を浴びることもあった。国鉄末期、「たるみ国鉄」「怠ける国労組合員」などと激しくバッシングされた勤務時間内の入浴は、こうした過酷な労働環境に対し、国鉄労働者が長年にわたって勝ち取ってきた当然の権利であった。

 現在の列車トイレ事情は当時と様変わりしており、国鉄から継承した車両でも、すべて循環式と呼ばれる方式に改造されている。汚物タンクを備え、車両基地で交換・洗浄するものだが、こうした方式であるにもかかわらず強い悪臭がするのは、車両基地で汚物タンクを交換・洗浄する人的/時間的余裕もないまま、車両が次の運用に就かざるを得ない状況にあることを物語っている。背景にあるのはもちろん要員不足と車両不足だ。

 筆者は、JR北海道の厳しい経営状態もさることながら、こうした「現場崩壊」に強い衝撃を受けた。2011年の石勝線列車火災、2013年から始まった一連の脱線事故などの安全崩壊、そしてトイレ掃除体制の崩壊――これらはすべて、ボロボロになりながらも、JRの運行現場を辛うじて首の皮一枚で守ってきた、文字通り「最後の一線」が、今まさに切れようとしていることを意味しているからだ。

 もうひとつ、この「事件」に筆者が強い衝撃を受けたのは、あらゆる組織の栄枯盛衰はトイレを見ればわかるといわれていることが念頭にあったからである。

 かつて、懸命にトイレ掃除に励む国鉄労働者の姿を描いた「便所掃除」(作/濱口國男)という詩があった。国鉄が戦後の復興期を脱しようとしていた1953年に書かれたものだ。『便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ といった母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも知れません』というこの詩の内容が、鉄建公団訴訟関係の集会を終えた後、原告団員らの居酒屋談義で話題になっていたことを思い出した。労働者にやる気を出させる職場環境作りがいかに大切かという文脈での談義だった記憶がある。この詩が書かれた後の1960年代が、国鉄にとって黄金時代と言われたことは決して偶然ではない。

 その後、国鉄末期になって分割民営化が取り沙汰され、労使の信頼関係も崩壊して職場が荒廃するにつれ、駅のトイレも「4K」(臭い、汚い、暗い、怖い)と言われるようになった。若い女性がひとりで入る場所ではないと言われるほど荒廃したトイレもあった。その後の国鉄が、急坂を転がり落ちるように分割民営化に向かっていったことはご存じの通りだ。

 4月10日、「北斗17号」車内トイレで出会った出来事が、筆者にはどうしても国鉄末期の「4K」トイレと重なる。もしも歴史が繰り返すなら、分割民営化への片道切符を渡された末期の国鉄と同じように、JR北海道にももはや自力再建の道は残されていないような気がする。この会社が走っているのは、この先、分岐点もなく、「破たん」という名の終着駅に向かってまっすぐ伸びる1本のレールなのではないだろうか。

 ●誰がJR北海道を殺したか

 誰がJR北海道をこのような状態に追いやったのか。国鉄分割民営化の時点から、この日が来ることはわかっていた。1987年のJR発足時、JR7社の営業収入全体に占めるJR北海道の割合は2.5%、JR四国が1%、JR九州が3.6%であった。JR北海道全体の営業収入は919億円で東京駅の収入(約1000億円)より少なく、JR四国全体の乗客数は品川駅の乗客数とほぼ同じ程度。JR東日本だけでJR7社の営業収入の43.1%を占める状況だった。早くも民営化初年度である1987年度のJR7社決算を見たある運輸省幹部が、「羊羹の切り方を間違えた」と発言したと伝えられている。運輸省自身が初年度から国鉄分割のあり方について、誤りを認めざるを得ないほど、JR7社の経営格差は歴然としていた。

 JR7社体制が、鉄道100年の計のため考案されたスキームなどではなく、単に役員ポストを増やすためであり、闘う労働組合つぶしのために過ぎなかったことは、JR不採用問題の経過の中で余すところなく暴露されている。もともと20~30年スパンでの歴史的検証にすら耐えうるものでなかったことは明らかだ。JR北海道をこのような状況に至らしめた最大の原因が分割民営化策にあったことは今さら指摘するまでもない。

 しかし、仮にそうだとしても、本誌読者の中にはこのような疑問を抱く方もいるかもしれない。「JR7社に経営格差があることなど発足時からわかっていたこと。なぜ、ここに来て急にJR北海道の経営危機が深刻化したのか?」と。

 筆者は、一部の本誌読者が抱いているかもしれないこうした疑問を、取るに足りないとして一笑に付することはできない。こうした格差の存在が予想されていたからこそ、国鉄を葬った者たちは、JR三島会社(北海道・四国・九州)に対しては旧国鉄の債務の返済を免除し、経営的自立が無理と知っていたからこそ経営安定基金を用意したのである。低金利時代になり、経営安定基金の運用益が十分確保できなくなってからも、国は国鉄改革の失敗と言われないよう、様々な三島会社支援策を講じてきた。JR発足当時、盛岡から博多までであった新幹線が函館から鹿児島まで伸びるなど、日本の鉄道ネットワーク自体が大きく姿を変える中で、それでも分割民営化20年の2007年頃まではそうした弥縫策が辛うじて機能し、JR7社体制の破たんは巧妙に覆い隠されてきた。そうした中、一部の本誌読者からそのような疑問が出されても当然だと思われるからだ。

 そうした一部読者の疑問に、回答とまでは言えなくとも重要な示唆を与えてくれる資料がある。『会計検査院法第30条の2の規定に基づく報告書~北海道、四国、九州各旅客鉄道株式会社の経営状況等について』と題する資料がそれだ。会計検査院が、JR三島会社に対する調査の結果をとりまとめ、今年2月に公表したものである(注1)。

 以下の資料は、この報告書から表7(営業損益等の推移(JR北海道))及び表10(三島会社の輸送密度の推移)を抜き出したものである。わかりやすくするため、筆者が2008(平成20)年と2009(平成21)年の間に線を引いた。ここに線を引いた理由は、この年を境に「断層ができている」と形容してもよいほど急激なJR北海道の業績と輸送密度の悪化が確認できるからである。JR北海道の「鉄道収益」(表7の最上段)はこのとき823億円から788億円へ、一気に35億円も減少しており、これ以降、800億円台は回復できないままだ。

 輸送密度自体もこのとき、1日当たり4872人から4715人へ、一気に157人も減少している。こちらも2003(平成15)~2008(平成20)年まで続けてきた4800人台を、その後一度も回復できていない。



 2008年から2009年にかけていったい何が起きたのか。リーマン・ショックと、その後の景気対策として、麻生政権が「高速道路通行料金上限1000円制度」を導入したのがこの年だ。リーマン・ショックによる行楽需要、移動需要の減退に、1000円高速制度が追い打ちをかけたのである。

 さらに重大な事実がこの表には隠されている。「鉄道収益」が2009年、一気に35億円減少したにもかかわらず、「鉄道事業営業損益」は287億円の赤字(2008年)から275億円の赤字(2009年)へ、逆に12億円も改善しているのだ。その差額47億円を、JR北海道がコスト削減によって捻出したことが示されている。このときの強引なコスト削減が何を対象としていたか――それは、この2年後に起きる石勝線列車火災、4年後に起きる大沼駅列車脱線などの一連の事故を見れば明らかだ。

 JR北海道は、みずからを産み落とした国鉄改革によってじわじわと基礎体力を奪われ、リーマン・ショックと「1000円高速」によってとどめを刺された。明確なビジョンを持たない場当たり的な道路優遇政策が、時として公共交通を徹底的に破壊することが示されたといえよう。

 ●強まる新自由主義者からの「選択と集中」攻撃

 一方、北の鉄路存続を願う北海道民の思いと裏腹に、JR北海道の鉄道事業に対して新自由主義者らによる攻撃が強まっている。とりわけ、再生推進会議のメンバーでもある高向巌・北海道商工会議所連合会会頭は札付きの新自由主義者であり、JR北海道は鉄道事業そのものから撤退せよと言わんばかりの主張を連日、繰り広げている。高向会頭は「(JR北海道は赤字ローカル線を)廃止してバスに転換すべきです。こう言うと批判が出ますが、あなたは乗っているんですかと言いたい」と述べている。

 それならば問おう。「乗っていなければ鉄道の存続を要求してはならない」と言うなら、男性は産婦人科の増設を要求してはならないのか。子育てを終えた高齢者世代が、自分の息子や娘世代のために保育所の増設を要求してはならないのか。否だろう。自分のライフステージの中で一時期しか使わないものであったとしても、他の誰かがどこかで必要としているものはみんなで維持すべきであり、それが社会政策のあり方である。

 今年5月31日に開催された第9回再生推進会議の議事録に目を通すと、もはや北海道のローカル線の廃止は既定路線であり、残されているのは沿線住民に対する「説明」だけであるかのような議論が公然と行われている。議論を主導しているのが高向会頭ら新自由主義者であることは想像に難くない。そこには、貴重な道民の足である鉄路を、厳しい冬期間も含めて維持していくための視点はない。

 そのくせ、高向会頭は、北海道新幹線の札幌延伸を前倒しするよう執拗に各方面に働きかけている。冒頭に示したように、毎年50億円の赤字が出続けるにもかかわらずだ。

 英国におけるサッチャリズムの研究で知られる経済学者・森嶋通夫は「緊縮財政」を標榜するサッチャー首相の下で中央政府の支出が逆に増えたこと、その増大の原因が防衛費であったことを指摘している(注2)。

 「小さな政府」論者に政治を任せて、国の財政赤字が実際に縮小した例を筆者は知らない。なぜなら、森嶋が正しく指摘しているように、新自由主義者は軍事費(日本の場合はこれに加えて道路、公共事業も)だけはいつでも歳出削減の例外にするからだ。このような馬鹿げた新自由主義者には即刻退場を宣告しなければならない。

 ●留萌線一部区間、廃止へ~廃止ドミノを防ぐために

 北海道では、JR北海道の強硬姿勢を前に、ついに留萌線の一部区間(留萌~増毛、16.7km)の12月4日限りの廃止が決まった。沿線自治体は表立った反対の動きを組織化するどころか、代替交通確保などの条件闘争さえできずに終わった。JRからは廃止後の駅周辺整備費や定期券差額補助の他、既存の路線バスが走っていない区間への代替バス運行費として5千万円などの対策が示されたが、これも廃止後10年分の手当に過ぎず、早晩、地域社会丸ごと消滅の危機に見舞われるだろう。

 北海道内メディアで最近、最後に残された公共交通であるデマンドバスさえ廃止に追い込まれようとしている北見市近郊のある集落の事例が報道された。そこでは、高齢化による運転手不足でデマンド方式(必要のつど、住民がタクシーのように呼んで利用する方式)のマイクロバスの廃止が決まったという。このデマンドバスが唯一の公共交通だった住民の中には、「このバスがなくなったらもうここには住めない」「自分は神奈川出身なので、北海道を出て神奈川に帰ることも考えている」と悲痛な声を上げる人もいる。公共交通の廃止が、辛くも残っている限界集落の息の根を止めようとしている。「2040年までに全国で半数の自治体が若い女性の不足によって消滅する」とする日本創成会議の試算も公表され、昨年、大きな反響を呼んだ。今、北海道で起きていることは、これから先、全国で起きるであろう「地方消滅の時代」の序曲に過ぎない。

 こうした中、留萌線で始まったJRローカル線廃止の流れを、ドミノになる前に食い止めようとする動きも道内自治体レベルで出始めた。今はまだ、本稿などを通じてその内容を明らかにすることはできないが、住民主体の講演学習会、町村会を通じた自治体間での情報共有の動きなどがそれだ。筆者が講師を務めた苫小牧市での後援会は、全労連苫小牧支部が主催、会場には国鉄闘争を闘った全動労(現・建交労鉄道本部)争議団関係者の姿もあった。実質的倒産状態に陥り、当事者能力を失ったJR北海道を間に挟む形で、再生推進会議内部の新自由主義者と、公共交通を守ろうとする市民・労働者・自治体の闘いが始まった。この闘いを発展させられるかどうかが、道内JRローカル線の今後の帰趨を決めることになる。

 ●JR発足30年~今すぐJR体制再編の論議を

 来年、2017年は、いよいよ国鉄分割民営化~JR発足から30年になる。30年という歳月は、JR7社体制というひとつの「スキーム」を検証するには十分すぎるといえよう。実際、国鉄解体を仕掛けた政府・権力の側からの、JR7社体制「再編開始」のための観測気球と思われるような動きも、ここに来て出始めている。

 鉄道ファン向け趣味雑誌における「有識者」の論調の変化もそのひとつだろう。月刊「鉄道ジャーナル」2016年5月号(3月発売)掲載の「JRの会社間格差の拡大」と題する記事(著者は亜細亜大学講師の佐藤信之氏)では、「JR北海道再生私案」として企業形態の変更が提案されている。国鉄「改革」以来、一度も分割民営化とJR体制に否定的見解を示したことがなかった佐藤氏の目にも、JR北海道の現状のままでの再建は不可能と映ったようだ。

 だが問題はその中身だ。佐藤氏は、上下一体で経営されている現状のJR北海道を上下分離し、「上」(列車運行部門)をJR東日本・貨物、道内経済界が共同出資する「新生JR」へ、「下」(施設保有・管理部門)を国・北海道・沿線自治体が共同出資する「保有会社」に変更せよと主張する。一見、もっともらしい改革案のように見えるが、現状のJR北海道を上下一体で鉄道・運輸機構(実質的には国)が保有していることを考えるならば、「上」は国からJR・道内経済界へ、「下」は国から国・道・沿線自治体へ移行するよう求める「佐藤私案」はさらなる民営化の徹底としか呼べないものである。JR北海道の経営危機をさらなる新自由主義的改革で乗り切るよう主張する許しがたいものだ。

 佐藤氏がなぜこのような新自由主義的改革を主張しているかについては多くの説明を要しないであろう。佐藤氏が教鞭を執る亜細亜大学の理事長を、2007年に死去するまであの瀬島龍三が務めていたという事実を指摘するだけで十分だ。言うまでもないが、瀬島は、国鉄改革が議論されていた1980年代中期、「これで放っておいても国労は自然につぶれる。だから、国鉄改革の目的が国労つぶしだということを絶対に公の場では口にしないように」と中曽根首相(当時)に「進言」した人物である。「瀬島イズム」に骨の髄まで侵された新自由主義者の佐藤氏に、道民本位のJR改革など求めるだけ無駄というものだ。

 高向会頭や佐藤氏のような、声高にJR北海道の新自由主義的改革を主張する連中にこれ以上好き勝手な発言を許しておけば、JR体制の再編がこうした新自由主義的方向に一気に流し込まれるおそれがある。真に過疎地を含めた市民の交通権を守る方向からの「対案」を、私たちが早急にとりまとめなければならない。

 事実上の倒産会社となったJR北海道からはもはや何も出て来ず、このまま手をこまぬいていると、道内全鉄路が会社もろとも沈んでいくことになる。さしあたり、目指すべき方向性はJR北海道の「破たん処理」であり、その後は再国有化か、最低でも「下」を国有化する上下分離に踏み切るべきである。前述した北見市郊外の集落のように、公共交通がなくなることで地域社会が崩壊の危機に瀕するようなことがあってはならない。過疎地の交通権の死守を至上命題として、全道的合意を取り付けられるよう急ぐべきであろう。

 JR北海道の破たん処理と再国有化を、政治マターに押し上げることも必要だ。国鉄分割民営化の際も、旧運輸省では無理と見た中曽根官邸の主導で国鉄再建監理委員会が設置された。JR7社体制の再編を行うにしても、国土交通省にその役割を担うのは困難と言わざるを得ない。内閣府あたりに「JR再編・再国有化委員会」のような組織を作り、政治主導で行わなければ実のある対策とはならないだろう。

 経営破たんしたJR北海道を救済するための再編といった後ろ向きの理由では、政治マターに押し上げるのは難しいかもしれない。政治は何よりも「華」を求めるからだ。夢を描くことも必要な気がする。

 筆者は「貨物新幹線」構想を提唱したいと思う。JR発足当時は盛岡から博多までしか行けなかった新幹線で、今では函館から鹿児島まで行くことができる。東海道新幹線を1時間あたり1本くらい間引いてもよいから、函館発東京行き、東京発鹿児島行きの貨物新幹線を走らせてはどうだろうか。函館港で今朝、揚がったばかりの新鮮なイカを、夜には鹿児島一の繁華街・天文館の料亭で食べる――そんな夢のようなことが可能な時代が、実はすでに来ている。トラック業界が深刻な人手不足に陥り、指定した期日通りに宅配便が届かないことも普通になりつつある現在、こうした問題を一気に解決する手段としても検討に値すると思う。

 技術的にそんなことが可能なのか、と思われる向きには、可能だと筆者は答える。すでに在来線では、機関車に牽引されるのではなく、電車と同じように貨車に直接モーターを乗せて走行する貨物電車「スーパーレールカーゴ」が東海道本線に1日1往復、走っている。この貨物電車をベースに、車輪の幅を新幹線と同じ標準軌(1435mm軌間)に広げ、電気方式を東海道本線用の直流1500Vから新幹線用の交流25000Vに改造すれば、明日にでも実現できるだろう。もちろん、(1)東京駅で東海道新幹線と東北新幹線のレールがつながっていないため、東京を挟んで貨物を輸送するためにはどこかで「積み替え」が必要、(2)東海道・山陽・九州新幹線が交流60Hzであるのに対し、東北・北海道新幹線が交流50Hzである――など、実現には解決しなければならない問題も多い。だが筆者はそれほど難しい問題だとは思わない。在来線では、直流、交流50Hz、交流60Hzの3電源方式すべてを走行できる車両もあり、その技術の応用ですむからだ。

 新幹線が貨物輸送に使われるようになると、旅客と貨物を別会社に分けている現在のJR7社体制は決定的にその意味を失う。新技術の投入と、未来に向けた新しい輸送体制を構築するための前向きなJR7社体制再編という夢を描くなら、一気に政治マターにできるかもしれない。もちろん、交通弱者の移動権確保という大原則は決して譲ることができない。

 いずれにせよ、来年のJR発足30年に向けて、いろいろな動きが今後、出てくるだろう。新自由主義者たちに翻弄されることなく、私たちが再編の主導権を握れるように、本誌読者のみなさんも、そろそろ「頭の体操」を始めておいていただきたいと思う。それと同時に、北海道のJR路線のこれ以上の廃止を許さず維持していくため、必要なアイデアや提言があれば、いつでもいただきたいと思っている。

注1)会計検査院は、民間企業であっても、国からの出資が半分以上を占める法人や、「国が出資している法人がさらに出資している法人」にはいつでも検査・調査に入ることができる。JR三島会社は国が出資している鉄道・運輸機構が全株式を所有しており、「国が出資している法人がさらに出資している法人」に該当する。

注2)「サッチャー時代のイギリス」(森嶋通夫・著、岩波新書、1988年)

(黒鉄好・2016年6月17日)

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大黒摩季、6年ぶり活動再開へ

2016-06-20 21:27:17 | 芸能・スポーツ
大黒摩季6年ぶりに活動再開…手術で子宮腺筋症完治(スポーツ報知)

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 子宮疾患の治療のため活動休止中だったシンガー・ソングライターの大黒摩季(46)が、6年ぶりに歌手活動を再開させることが19日、分かった。5年にわたる投薬治療と手術の結果、子宮腺筋症が完治したため復帰を決意。原点回帰の思いが強く、8月に故郷の北海道で復活ライブを行う。

 大黒は2010年11月から子宮疾患と不妊治療のため、歌手活動を休止して投薬などを続けてきたが、昨年11月の手術で子宮腺筋症が完治したのを受け、満を持して復帰を決断した。

 約6年ぶりの歌手活動再開に決意のコメントを寄せた。「現役時代の自分がどんなだったのかも忘れてしまう程に離れた世界故、焦らずゆっくりと。再び歌える喜びをかみ締めながら一歩一歩、着実に、新たな大黒摩季を創っていきたい」。妊活は継続するが、一時中断して音楽を最優先に進んでいく。「私が音の世界に戻ることで、心の過労がルーティーンになってしまっている同年代はもちろん、思うように生ききれない殺伐とした世の中の体温が、1℃でも上がってくれたら最高です」と熱いパフォーマンスを約束した。

 昨年の手術後から、リハビリと並行してボイストレーニング、体力づくりなど復帰に向けた準備を開始。発売は未定だが、精力的に制作活動に取り組み、新曲のレコーディングも始めている。長年酷使してきた声帯も休養中に回復し、歌声を聴いたレコード会社関係者は「全盛期の歌声だね」と太鼓判を押すほど。一番の魅力だったハイトーン・ボイスもよみがえった。

 原点回帰として、92年のデビュー時から99年まで在籍したレコード会社「ビーイング」とタッグを組み、地元の北海道から復活の第一歩を踏み出す。8月11日にファンクラブ限定ライブ(札幌・ベッシーホール)、同13日にはライジングサン・ロック・フェスティバル(石狩湾新港樽川ふ頭)に出演する。大黒は「幼い子供が立ち上がり、歩き始めた―、それくらいの心もとない境地ながら、ファンの皆さんとのいとしく熱いライブを描くとじっとしてもいられない」と心待ちの様子。「故郷の温かい懐に抱かれながら、この胸が張り裂けんばかりに蓄電したロックエネルギーを大放出し、思う存分大きな音と戯れて熱いスタートを切りたい」と気合を込めた。

 ◆大黒 摩季(おおぐろ・まき)1969年12月31日、札幌市生まれ。46歳。92年に「STOP MOTION」でデビュー。同年「DA・KA・RA」が110万枚のセールスを記録。「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「ら・ら・ら」などヒット曲多数。03年11月に一般男性と結婚。活動休止中は新人アーティスト育成や北海道・長沼中学校の新校歌「希望の丘」を寄贈した。
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長年の大黒摩季ファンを公言してきた当ブログ管理人にとって、これはかなり嬉しいニュースだ。場合によっては今年一番嬉しいニュースかもしれない。病気で仕方ないとはいえ、無期限活動休止から6年を過ぎ、そろそろ復帰は無理かな……と思い始めた矢先だった。

驚いたのは、復帰がビーイングからだということ。ビーイングは大黒摩季にとって、自分の才能を見いだしてくれた恩義あるレコード会社である一方、初期にはバックコーラスばかりでなかなかデビューさせてもらえなかった。しびれを切らした大黒摩季が、「STOP MOTION」の録音テープを置き土産に、米国に飛んでしまったこともあるほどだ(ちなみに、このときの録音テープを大黒摩季の米国滞在中に聴いた社長が、大黒摩季を呼び戻したことが、後にデビューにつながる)。

会社の方針で、メディア露出はダメ、ジャケットの顔写真に正面からのものはないなど、制約も多かった。90年代後期に「充電期間」を置いた後は東芝EMIに移籍、ビーイングを離れた。そのような経緯をたどっているだけに、ビーイングからの復帰というのはかなりの「サプライズ」と言えよう。

『長年酷使してきた声帯も休養中に回復し、歌声を聴いたレコード会社関係者は「全盛期の歌声だね」と太鼓判を押すほど。一番の魅力だったハイトーン・ボイスもよみがえった』とは、にわかには信じがたいが、これが事実なら、かなり期待できると思う。

メディア露出がほとんどないため、「作詞作曲担当、ビジュアル担当、歌担当と大黒摩季は3人いる」などという都市伝説が流れた時期もあった。それだけに、1997年8月1日、レインボースクエア有明で行われた初の野外ライブに参加したときの興奮と感動は、20年近く経った今も忘れることができない。ライブ中盤に入った夜8時、「ミュージックステーション」の生中継が入った。「大黒摩季って、ホントにいたんだね~」と驚いたように言う司会のタモリの姿が有明のスクリーンに映し出され、会場がどっと沸いたのを覚えている。今はビックサイトなどの建物が建ち並ぶ有明地区が、開発途上でまだ更地に近かった、今からは考えられない時代だった。

ちなみに、当ブログ管理人は九州の地元で就職4年目の年だった。この有明ライブのためだけに、九州から上京した。進学でも就職でも地元を出たことがなかった私が、生まれて初めて東京を訪れたのがこの有明ライブの時だった。どうしても乗ってみたかった、九州初東京行きの寝台特急に初めて乗ったのもこのとき。そういう意味では、今も思い出がたくさん詰まった忘れられないライブだった(このときはまだ、半年後に自分が転勤で横浜勤務になるなんて、まったく思っていなかった)。有明ライブが終わってすぐ、私は大黒摩季ファンクラブの会員になった。ファンクラブなるものに籍を置くのも、これが初めての体験だった。

「充電期間」を終え、東芝EMIに移籍した後の大黒摩季は、ビーイング時代からは想像もできないほど露出も増え、ファンにとってはそれまでの「神秘的な存在」から「身近なロックアーティスト」に姿を変えた。だが、それと引き替えるように声量は下がり、迷走が始まった。2000年代終わり、無期限休業に入る直前には、過去の自分の楽曲さえキーを下げなければ歌えないほどで、ファンを続けるのが最もつらい時期だった。アルバムが出るたびに、ファンを続けていけるか、何度も自信を失いかけた。当ブログの過去ログにも、かなり辛辣なことを書いている時期がある。

無期限活動休止に入った後、私はいつしか1年1回更新のファンクラブも更新せず、自然退会するままに任せてしまった。90年代終わりの「充電期間」にもやめたいと思わなかったファンクラブを辞めてしまうほど、大黒摩季から心が離れた時期もあることを、正直に告白しなければならないだろう。

大黒摩季をはじめビーイングの黄金時代だった90年代はまた、日本の音楽シーンの黄金時代でもあった。小室哲哉にけん引され、ミリオンセラーが次々と飛び出し、CDが飛ぶように売れた時代だった。だが、大黒摩季が活動休止に入る頃、様相は一変し、CD売上は冬の時代に入っていた。大黒摩季が抜けてしまった「穴」を埋める存在は、芸能界・音楽界に見当たらなかった。2010年代の日本の音楽シーンには「歌手」はいても「アーティスト」は不在だった。

大黒摩季が活動休止してから、私は音楽自体を聴かなくなり、次第に身の回りの生活から音楽が消えていった。車を運転しながら聴くFMラジオも、せっかくの高音質がもったいなく思うほど情報番組ばかりになり、音楽番組は激減した(ややもすると、音質の良くないAMラジオのほうがよく音楽を流している)。印象にも記憶にも残らない「J-POP」ばかりの日本の音楽シーンに、もし今、大黒摩季がいてくれたら……と思ったことは、この間、一度や二度ではなかった。その思いは、無期限活動休止から時間が経てば経つほど強まっていった。その意味では、私もまた心の奥底で、大黒摩季が帰ってくるのを待っていたのだと思う。

帰るべき場所があり、ファンがいつまでも待ってくれている。その場所に、病気を完治させ、満を持して帰る。これ以上の幸せはないと思う。復帰のパートナーにビーイングを選んだのも、何となく感覚的に理解できる。大黒摩季にとって、過去に色々あったとしても、帰るべき場所であるとともに、自分の最もよき理解者。きっと、明るい未来が待っていそうな気がする。とりあえず、8月13日の「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2016 in EZO」には参加したいと思う。

ファンクラブにも、おそらく復帰することになるだろう。ただ、無期限活動休止の6年間にも、大黒摩季を見捨てず、我慢してずっと待っていたファンのみなさん、ファンクラブに留まって復帰を信じて待っていたファンのみなさんからすると、私は「落伍者」だし、「最も苦しいときに支えてあげなくて、何がファンなのか」という人がもしいたら、その咎めは甘んじて受けるしかないと思っている。でも、こうして復帰のニュースを聞くと、やっぱり戻りたい。会場が一体となって、ひとつの家族のようだったあの「輪」の中に、戻りたくて戻りたくて仕方なくなってきたのだ。こんな私を、ファンとして、再び迎えてくれるなら、大黒摩季と同じように「原点」に戻って、また1からやり直す道を私に与えてほしいと思っている。

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この間の熊本、函館の地震について

2016-06-18 23:49:55 | 気象・地震
少し時間が経ってしまったが、いかにブログにの記事を書く気が起きないといっても、地震の解説記事まで書かないというわけにも行かない。

「平成28年(2016年)熊本地震」について(第40報)-平成28年6月12日22時08分頃の熊本県熊本地方の地震-(気象庁報道発表)

今回の熊本地震の大きな特徴(従来の地震と違う点)は、断層の動きが複雑なことだ。過去の地震では、例えば本震が「北東-南西方向の圧力軸を持つ逆断層型」だった場合、その後に起こる余震も同じく「北東-南西方向」になる場合が多い。東日本大震災もそうしたケースの地震で、余震の際に断層の動く方向は、ほとんど本震と同じだった。

ところが、今回の熊本地震に限っては、この法則が当てはまらない。最初の大きな地震である4月14日午後9時26分頃の地震(震度7、報道発表)は「南北方向に張力軸を持つ横ずれ断層型」だったし、2回目の震度7を記録した4月16日1時25分頃の地震(報道発表では最大震度6強となっているが、後に7に訂正)では「横ずれ断層型」は同じであるものの、張力軸の方向は北西-南東方向に変わっている。

そして、この日の地震では「東北東-西南西方向に圧力軸を持つ逆断層型」となっており、軸の方向だけでなく、横ずれ断層型から逆断層型へ地震のメカニズムも変わっている。

このように、熊本地震が過去に例を見ないのは、いろいろな断層が複雑に絡み合い、互いに影響を与えながら連鎖的に地震を起こしているという点である。軸の方向や地震のメカニズムを見る限り、過去の地震のように単なる「余震」と片付けていいのかかなり疑問に思われるケースだ。それぞれの地震を別個のものと捉えた方が理にかなっているような気がする。

これが単なる余震でないとすると、熊本では、今後もさらに中規模程度の地震はたびたび発生する可能性がある。引き続き警戒をしてほしい。

平成28年6月16日14時21分頃の内浦湾の地震について(気象庁報道発表)

当ブログ管理人の携帯電話でも緊急地震速報が鳴り、驚いたが、幸い、函館からはかなり遠いため揺れはなかった。1923年の観測開始以来、この地域での震度6強以上は初めてというから驚く。1923年といえば関東大震災の年。その後慌てて観測体制を全国に広げたのだろう。

震源から見て、北米プレート内部での地震だ。東日本大震災を引き起こした海溝より内側(西側)であり、逆断層型なのは納得できる。今後の推移は予断を許さないが、余震には警戒をしてほしい。

また、北米プレート内部での地震だけに、東日本大震災の余震域に若干の影響があるかもしれない。

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離合集散から奇妙な安定へ?~最近の国内政治に思うこと

2016-06-10 23:08:13 | その他社会・時事
ここ最近、ブログの記事を書く気にまったくなれない。仕事は年度替わりの繁忙期をやっと脱しつつあるし、この間、「保育園落ちた。日本死ね!」ブログがきっかけで保育所問題がクローズアップされるということは確かにあった。

しかし、もはやブログごときではどうにもならないほど、安倍1強体制は安泰で、揺るぎないような気がする。こんなところで無駄にエネルギーを浪費するより、ここしばらくは自分の得意分野(公共交通問題)に集中し、情勢が変わるのを待つ方が得策のように思う。労働組合など大きな組織に身を置いて、与えられた任務を全うしながら、ここ最近は日高線など北海道内ローカル線問題に集中している。

政治的には我慢の時だ。あきらめてはならないが、早急に成果を求めず、将来に向けて地道に種をまく時期だと思う。種をまき、水をやり続けていれば、暖かくなったときいっせいに花が咲くように、政治情勢が大きく開けると信じて。

そんなどうしようもない政治情勢だが、55年体制が崩壊した93年以降、ほぼ四半世紀にわたって繰り広げられてきた、野党の「離合集散」の時代がようやく終わり、不安定だった日本の政局に安定期が訪れそうな気が、最近してきた。中学生の時に政治に目覚めて以降、30年間、政治をウォッチしてきた皮膚感覚で、確たる根拠はないが、皮膚感覚というのは案外侮れない。

というのも、今年3月に、民主党と維新の党が合併し、民進党となったが、ここで与党に反対することを主な仕事にする主要な「反対野党」「抵抗野党」の数が、民進、共産、社民、生活と4つになったからだ。

ここで、当ブログ管理人が想起したのが、55年体制当時も主要な反対野党が社会、公明、共産、民社の4つだったという事実である。当時と違うのは、公明党が野党から与党に変わったこと、野党第2党に浮上した共産党の発言力が増し、55年体制当時のように野党間協議の場から共産党を閉め出すことができなくなった点だろう。55年体制当時の4野党が、最も少数だった民社党でも常時、2桁の議席を持っていたのに対し、現在の野党3党以下――社民、生活両党――が1桁の議席数にあえいでいる点も、違いと言えば違いだ。こうした政党を「主要」野党と表現することには、さすがの当ブログにも抵抗がある。

(なお、日本を元気にする会、日本のこころを大切にする党(旧次世代の党)、新党改革の右派系3党は、与党と協力的であり、当ブログは野党と定義していない。政権を担当していないにもかかわらず、内閣不信任決議案に反対するような政党は、ヨーロッパ諸国であれば「閣外協力」として与党の一員とみなされることが多いという事情も参考にしている。)

55年体制は、初めは自社2大政党体制として出発したが、共産党が勢力を伸ばし、公明政治連盟(後、公明党に改称)も結成され国会進出。さらに、社会党の左派支配に不満を持った右派の一部が民主社会党(後、民社党に改称)を結成したことで、60年代終わりには4野党体制が固まる。この「与党1、野党4」の体制は、宮沢内閣不信任案に賛成した自民党議員の一部が離党、新生党を結成して細川非自民連立政権を誕生させる93年まで、実に四半世紀にわたって続くのである。

元気会、日本のこころ、改革の右派3党は影響力を失いつつあり、今後は自民復党の流れが強まって徐々に「溶けて」いくと思われる。民進党発足以降の日本の政治状況は、与党側の自民・公明をひとつの塊と見ると、「与党1、野党4」となり、最も政局が安定していた55年体制後期とそっくりだ。この時代、政権交代はおろか、野党間でも、わずかに共産党と民社党の順位が時折、総選挙により入れ替わる程度でほとんど変化がなく、政局は長期にわたって安定していた。こうしたことから考えると、四半世紀にわたって繰り広げられ、なにひとつ成果を生み出さなかった93年以降の野党の「離合集散」はこれで一段落し、ここしばらくは安定期に入りそうに思われるのだ。

日本の政局が安定するために必要な「反対野党」の数は、なぜ4なのか。3や5ではなぜダメなのか。当ブログにも明確な答えはない。ただ、長年、日本政治をウォッチし、労働運動や市民活動の現場に身を置いてきたひとりとして、これもやはり皮膚感覚で説明できるような気がする。

来る参院選に向けて、4野党がすべての1人区で統一候補を立てることに合意したが、ここに至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。産経新聞など「ご都合主義丸出し」の右派メディア(そして自民党も)は、野党がまとまると「野合」と批判し、バラバラに別れて戦うと「自民1強体制は、バラバラの野党に責任がある」などと批判する。立っても座っても寝ていても、悪いのは常に野党で、自民党は常に正しいという、産経のような「便所の落書きメディア」は放置するとしよう。

労働運動や市民活動などの現場で、「自民党政治を変えたいと思っているなら、意見の違いは脇に置いて、とにかくまとまらなければ勝てない」と、まとまることを訴える人がいる一方、「意見が違うのになぜまとまらなければならないのか」「自分を曲げてまで勝たなくていい。政治的に正しくあることの方が重要だ」と主張する人もいる。

当ブログの考えは後者に近い。意見の違う者を寄せ集めてできた民主党政権が「党内抗争」であっけなく崩壊した経験から見ても、意見が違う者は別々に闘うのが本来のあり方だ。勝ち負けのために誰かが妥協を強いられなければならないのはおかしいし、日本では左翼・リベラルには敗北の歴史しかないから、(さすがに「負けてもいい」とまでは思わないが)勝つこと自体は最優先目標でなくていい。正しいことをどれだけ真摯に主張できるかが大事であり、自分を曲げてまで勝たなくてもいいと思っている。

ちなみに、当ブログ管理人は、20歳で選挙権を得て以来、選挙は一度も棄権したことがなく、総務省・中央選挙管理会からは表彰されてもいいくらいだが、一方で、「自分の投票した候補者がこれまで一度も当選したことがない」という、輝かしい敗北の歴史を持っている。

小異を捨ててもまとまるべきか、それぞれが切磋琢磨しながら競い合い、己の力量を磨くことに努めるべきかは古くて新しい問題だ。本来ならこんな弱小ブログの手には余るし、この問題を徹底的に突き詰めていくなら、おそらく本が1冊(場合によっては数冊)書ける。「まとまらなければ自民党には勝てない」は文句なく正しいし、「意見が違うからこそ別の政党に別れているのであり、意見の違う者は別々にやるべきだ」というのもおそらく正しい。その時の政治状況によりどちらが優勢になるかが決まるのだ。

その「政治状況」で言えば、今は反自民の全勢力が、小異はとりあえず脇に置いてまとまるときだろう。改憲勢力の3分の2確保を阻止しなければ、日本国憲法施行以来積み上げてきたすべてのものが一瞬にして壊される、政治的自由がなくなれば自分たちの闘いどころではなくなる、という危機感で全分野の運動団体が一致しており、そうした共通認識が野党共闘を生み出したと言える(その意味で、今回の野党共闘は、自民党や、「自民党機関紙」産経が言うほどの野合には当たらない)。

ただ、こうした日本の政治状況から考えると、野党共闘はおそらく「一夜限りの夢」だろう。改憲阻止という目標が達成されたら、また各運動団体はそれぞれ自分の「持ち場」に戻っていき、バラバラになる。「自民党を倒すために、まとまらなくていいのか」「自分を曲げてまで勝たなくていい。政治的に正しくあることの方が重要だ」――2つの勢力の闘いは今後も続くだろう。

「自民党を倒すために、まとまらなければならない」と考える勢力がいる。「自分に嘘をつき、誰かに妥協してまで勝つよりも、政治的に正しくあることの方が重要」と考える勢力もいる。前者は民進党などを選ぶことができるし、後者も遠慮なく日本共産党を選ぶことができる。

そして、これら2つの勢力が、平時はそれぞれ別々に活動し、今回のような「危機」に陥ったときは、立場の違いを超えて共闘する。2つの勢力のどちらも納得させることができる、ベストのあり方だろう。2つの勢力が反自民という目標を共有しながら、共倒れに陥らず、うまく棲み分けできるために、最も適切な野党の数――それがおそらく、日本では4なのだと考えると、納得がいく。

かくして、離合集散を繰り返してきた野党は4つに収斂した。収まるところに収まったといえる。当ブログの皮膚感覚が正しければ、ここで野党の離合集散の動きは止まり、安定局面に入るだろう。ただしそれは、かつてと同じ形での安定である。万年与党と万年野党。強行採決する与党に、「反対、反対」と叫ぶ野党――第2次55年体制は完全に確立した。

「与党1、野党4」体制が四半世紀続き、それが崩壊した後の「離合集散の時代」も四半世紀続いた。概ね四半世紀が日本政界の変化のフェーズだとすれば、次に政権交代が起こるのは、早くても四半世紀後だろう(安倍政権が発足した2012年を起点とすれば、2037年頃になる)。自民党という「優位政党」がソ連共産党のような形で自壊しない限り、もしかすると永遠に自民1党支配が続くかもしれない。

ちなみに、ソ連共産党の支配期間は1917~1991年までの74年間だった。自民党は、55年に結党され、昨年が60周年だった。その間、政権を手放したのは、細川・羽田政権の1年と、民主党政権の3年3ヶ月間だけ。その支配期間は56年間に及んでおり、あと18年、自民党政権が続いたら、自民党の支配期間はソ連共産党より長くなる。そんなことがあるわけがないと思っていたが、昨年あたりから、もしかすると……という可能性が頭をかすめるようになった。もちろん、先進国でこれだけの長期1党支配は例がないが、そんなことを言っても仕方ないと、最近は達観している。どうせ自民1党支配が今後も避けられないのなら、できるだけ自民党の力を削ぐとともに、できるだけ自民党をうまく使い、自分たちの要求を実現するにはどうするべきかを真剣に考えるときだろう。

当ブログは、公共交通問題を巡っては、もう国交省は完全に当事者能力を失っていると思っている。今後は政治対策に本腰を入れなければならないが、その時、自民党は有力な選択肢になる。そもそも自民党議員らは口を開けば「民主主義は多数決なのだから、決まった以上、反対していた人たちも従うべきだ」と意味のない恫喝をしてくる。それならこちらにも言い分がある。自民党議員たちは、当選した以上、国民全体の代表であり、自民党支持者の代表ではないのだから、自分に投票しなかった人たちの意見も聴くべきである。政策立案~討議の段階で、「投票してくれた人たち以外の意見も含めて真摯に聴き、いい提案があれば取り入れる」という過程が保障されたとき、初めて「多数決に従え」と言う権利が生まれる。それが権利と義務が表裏一体の近代国家の原則である。自分には甘く、他人の権利は踏みにじって恥じないような連中に「国民全体の奉仕者」たる資格はない――こういうときだからこそ、正論を主張して本エントリの結びに代えたい。

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