経産省前テントひろば
2012.2.26 第169日目 天気・曇(東京:最高気温9.2度/最低気温4.6度)
今年2度目のテント訪問。前回は、日誌を書けなかったが中野勇人さんのマラソン、佐久間忠夫さんハンスト支援と国土交通省要請の傍ら訪れた2月9日だった。あれから半月しか経っていないが、季節は明らかに春に向かっている。今日の最低気温4.6度は、福島の最高気温よりも高い。
一昨日、テントの経産省側に何もないのは寂しいということで「福島の母と子の声を聞け」との横断幕がかけられることになったそうだ。横断幕は確かにあり、経産省に対するアピール効果は抜群である。
今回の上京目的は「原発を問う民衆法廷」だ。市民が模擬法廷を作り、原発犯罪を引き起こした関係者の罪を明らかにする試みだ。権力法廷と違い、関係者の強制召喚も刑事罰を科することもできない。そのため「裁判ごっこ」などという批判が常につきまとってきたが、民衆法廷は、そうしたみずからの限界を理解した上で取り組むものだ。「民衆法廷では、裁くとは裁かれることである」との一文が資料にある。市民法廷である民衆法廷は、原発を許してきた市民もみずからを裁くのである。その意味ではきわめて哲学的・内省的な側面も持っている。
ただし、ここでご注意いただきたいことがある。「原発を許してきた市民もまたみずからを裁く」ということはとても意味あることだ。しかし、先の侵略戦争を引き起こした者たちが「一億総懺悔」と称して国民に罪を押しつけ、結局戦争犯罪の追及を逃れたように、「権力も悪いけど市民も悪い」が前面に出すぎると真の敵を免罪にしてしまう恐れがある。彼らを裁けないまま、欺瞞という名の衣を来て出発した戦後体制が結局はこの事態を招いたのだ。市民が自発的に己の罪を問うことはいい。しかしその崇高な目的が「総懺悔」などというたわごとで真の犯罪者に利用されないよう、細心の注意を払わなければならない。
福島で毎日被曝させられている身としては、もうどんなウソやごまかしもたくさんだ。2月9日の訪問時、テントにはわずか30分程度の短い滞在だったが、椎名千恵子さんがいらっしゃった。「私が一番恐れているのは、この大人たちの醜態を見て、子どもたちが、大人になったらウソをついてでも勝てばいいのだ、と思ってしまうことです」と椎名さんに申し上げると、その思いはストレートにご理解いただいた。…正直なところ、もう手遅れかもしれないけれど。
民衆法廷に話を戻す。筆者は、かつて名古屋時代、アフガン・イラク戦争での民衆法廷にスタッフとして関わった。その時も「模擬裁判ごっこ」に何の意味があるのか、という批判はあったようだ。だが、別の市民団体が起こした「イラク派兵差し止め訴訟」には、民衆法廷で集めた証拠が数多く提出・採用され、名古屋高裁でイラクでの自衛隊の活動が「違憲状態」にあった、とする勝訴判決につながった。一見、無駄なように思える模擬法廷でも、目的意識を持ち、散逸しがちな証拠を集積・保存して体系的に整理する作業が、現実の裁判を市民優位に導くことがある。このときのささやかな「成功体験」も私の原動力のひとつになっている。
一方、権力法廷が機能しないからこそ民衆法廷の出番なのだという厳しい現実も踏まえる必要がある。悪があまりに巨大すぎて国家の手にも負えないほどの状況だからこその市民法廷ということを考えるならば、その道のりはおのずから厳しい。
福島県在住者を中心とした申立人からは、行政から切り捨てられた自主避難者の苦労や、自然と共生し、自給自足をしながら生きてきた福島県民の生活が原発で破壊された苦悩が語られた。それらは福島県民のひとりとしてどれも共感できるものだ。東京都民からは想像もできないかもしれないが、地方での生活は、自然と対話し、その恵みに感謝することで成り立ってきた。原発事故から1年。事故が家族や地域の人間関係を破壊したということはようやく語られるようになってきた。しかし、もうひとつ大切なことは、事故が人間と自然との共生関係をも破壊したということである。
テントに立ち寄る。「男子みだりに立ち入るべからず」という不文律のある女性テントだが、今日は連れ合いと一緒ということで割合に気兼ねなく入る。実は、2月9日の訪問時、ここにマフラーを置き忘れてきてしまった。「忘れ物」の棚を見ると保管されている。女性テントの方にお礼を言い、マフラーを回収する。なにしろこのマフラーは、知る人ぞ知るあの「人らしくタオルマフラー」である(中央本部の闘争終結方針に反対し独自の闘いを始めたばかりの国労闘争団員が、一時、一生懸命売っていたものだ。今でも愛用している人が多く、私にとっても綿100%で皮膚に優しいこのマフラーは冬の必需品である)。
きょうは2月26日。右翼が集会をしているらしく、終了後、ここに来るかもしれないという情報が入り、緊張する。夕方、在特会を自称する差別主義者たちが相も変わらずのたわごとを喚き散らす。京都での朝鮮学校事件で有罪判決を受けて以降、彼らの街宣もパワーダウンした。自立した市民である我々に向かって「乞食」と喚こうが、私は哀れみしか感じないが、在日韓国・朝鮮人やロシア人を侮蔑する差別語を使うのは絶対に許せない。
民衆法廷の証人のひとりでもあり、長く靖国神社問題にも関わってこられた高橋哲哉さんが「犠牲のシステム 福島・沖縄」(集英社新書)という著書を出版された。大都市と地方、地方内部における行政と住民、「名士」である高齢男性と女性・子どもたち、正社員と請負などの非正規労働者…原発や基地は、何重もの差別構造の中で正当化されてきた。原発廃止の闘いは、最も鋭い差別との対決点でなければならない。差別の最底辺に置かれている福島・沖縄が、排外主義者たちの繰り広げる別の差別は認める、ということには決してならない。
もうひとつ。右翼が今日、集会を開いた理由は「2.26事件の日だからではないか」というのがテントに集うメンバーの一致した意見だった。侵略国家・日本を破滅的戦争に引きずり込む「歴史暗転」の引き金を引いた皇道派「青年将校」らの決起のスローガンは「昭和維新」だった。21世紀の今また、「維新」を名乗る勢力が右から政治的クーデターを引き起こそうとしている。閉塞感を強める社会、国民のうっ積した不満、右から「維新」を掲げる反動派の登場…。歴史が繰り返されようとしているように見える。私たち市民にとってここが頑張りどころだと思う。歴史は進歩している、あのときの歴史の繰り返しは許さないと、内外に強いメッセージを発することが求められている。
午後6時、喚き散らしていた右翼らが去った。テントから少し外れるが、在特会の名前が出たのを機会に重要なことを指摘しておかなければならない。中野勇人さんらのマラソンについては冒頭に少し述べたが、彼ら国鉄労働者1047名を解雇に追い込んだ元国鉄本社職員局長の葛西敬之氏(元JR東海社長)は、2006年2月から5年間にわたり国家公安委員会委員を務めた。その在任期間中の2010年9月2日、国家公安委員会定例会で、彼は、在特会を「適正に評価すべき」などと持ち上げる発言を行っている。葛西氏の発言内容は、国家公安委員会サイトに掲載されている
議事録によれば以下のとおりである。
「このグループの出現は、非常に象徴的で、これまでは組織化された意見だけが強くアピールされ、また、マスコミによる国民の知る権利の事実上の統制御が行われていた。…特に、日本は、この65年間において、国家というものが国際社会において占める役割や、あるいは国内において果たすべき役割といったものを軽視・否定する方向での報道ばかりがなされてきた…このグループについては、『極右』と呼ぶべきものではないと思う。事前に、よく実態を知り、適正に評価することが大事なのではないかと思う」
国策に反対する労働組合に所属していたというだけで職員が解雇された戦後最大の「採用差別」事件。その「直接実行犯」が、差別排外主義を最も醜悪な形で表現している在特会を「適正に評価すべき」などと発言した事実をぜひ知っておいていただきたいと思う。一見、何のつながりもないように見える「悪」は全てつながっているのだ!
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お堅い話ばかりしてきたので、最後に読者の皆さんに肩の力を抜いていただく意味で無駄話をひとつ、しておこう。東京駅に、最近「日本食堂」の経営するレストランがオープンした。日本食堂とは、国鉄時代、駅の食堂や食堂車の営業を担当していた企業である。テント訪問を終え福島に戻る新幹線の待ち時間に夕食を摂りに入り、カウンター席に案内されると、古い時代の鉄道路線図が貼っている。店員に聞いてみると「詳しいことはわかりませんが、1930(昭5)年頃のものと聞いています」とのこと。
だが、路線図をよく見ると、1930年だとした場合、明らかに矛盾する点があった。東海道本線が現在と同じ熱海回りになっていたことである。丹那トンネルが開通し、東海道本線が現在のルートになったのは1934年で、それまでは現在の御殿場線が東海道本線と呼ばれていた。東海道本線が現在と同じルートで描かれているこの鉄道路線図が1934年以前ということはあり得ない。
またよく見ると、関門トンネルは未開通の状態で路線図が描かれていた。関門鉄道トンネルが開通したのは1942(昭17)年だから、先の東海道本線と併せて考えると、この鉄道路線図は1934年~1942年の間のものということになる。
店を出るとき、店員にその旨を伝えておいた。どうでもよいことだが、今後は少しでも正しい案内が行われるようになれば、と思っている。