「まだ23年、再調査を」原田監督語る(中国新聞)
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「まだ二十三年、再調査やらないと」。日航ジャンボ機墜落事故を取材する記者を描いた映画「クライマーズ・ハイ」の原田真人監督が十二日の追悼の日を前に、共同通信のインタビューに応じ、撮影を通じて事故原因を再調査する必要性を強く感じたことを明らかにした。
映画制作の話が持ち込まれたとき「運命と感じた」と振り返る。一九八五年八月十二日の事故当日、妻子は夏休みで長野県内にいた。「どこに落ちたのかと、心配でずっとニュースを見ていた」。さらに二〇〇一年九月十一日の米中枢同時テロの日、原田監督自身がロサンゼルスに向かう飛行機に乗っていたことも、飛行機事故への思いを強め「自分のやりたいものが来た」と撮影を決意した。
撮影にあたり当時取材した記者やカメラマンら約二十人に取材した。中には当時の防衛庁関係者も。並行して資料を読みあさるうち、地元の上野村の人たちが「墜落して一、二時間後には墜落現場を特定していた」と述懐しているのを知り驚いた。「警察や自衛隊はなぜ現場の特定が遅れたのか。そこは調べるべきだ」と語気を強める。
事故調査にも引っ掛かった。「尾翼が落ちた海域の捜索をきっちりやっていない。今年起きたイージス艦衝突事故のように、やればできたのにやらなかったのはなぜか」。尾翼の大部分は海底に沈んだままとなっているとされる。
膨らむ事故への疑念。この夏公開された映画の最後に「事故原因には、諸説がある。再調査を望む声は、いまだやまない」とテロップを入れた。遺族の高齢化が進むが「まだ二十三年だ。映画を見て再調査を求める世論が出てきてくれれば。主人公の記者のように、愚直なジャーナリストが増えて再検証してほしい」と願っている。
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「クライマーズ・ハイ」公開直前、「君はもちろんこの映画、観るんだよね?」と友人から言われた。もちろん映画は公開直後、妻と2人で観に行った。それも、名物の餃子が食べたいという理由で福島ではなく宇都宮へ。
事故そのものを追うのではなく、事故を取材したマスコミの視点で事故を追うという異色の構成になっており、私は予告編を見たとき、「この映画は『
日航ジャンボ機墜落~朝日新聞の24時』(朝日文庫)のような作品になるだろうな、と思った。そしてその結果は予想通りだった。
これから観に行こうと思っている人々のために詳しい「ネタバレ」は避けるが、この作品を見れば、他人の不幸で飯を食うマスコミがいかにヤクザな商売かがよくわかるというものだ(もちろん当事者たちは使命感を感じてやっているわけだが)。
ただ、原田監督が「事故原因には、諸説がある。再調査を望む声は、いまだやまない」とテロップを入れたことに対しては、私は原田監督の意地と良心を感じた。
当ブログ管理人は、事故調の「圧力隔壁崩壊説」が正しいと思ったことは1度もない。
国土交通省がこの報告書の誤りを認めないなら、私は何度でも主張するが、圧力隔壁が先に壊れたのであれば必ず発生していなければならない「急減圧」は起きなかった。事故調説に従えば急減圧が起きていなければならなかったとき、機内では誰ひとり酸素マスクを装着していなかったのだ。
私は、角田四郎氏が『疑惑~JAL123便墜落事故』(早稲田出版)で指摘した「自衛隊による123便撃墜説」を今は信じない。ボイスレコーダーの音声がテレビ放送されるまでは、角田説を信じた時期もあったが、テレビ放映されたボイスレコーダーの音声には自衛隊機との交信が記録されていなかったからだ。
事故直前のあの状況から見て、123便から視認できる至近距離に自衛隊機がいれば、無線で救助を求めたはずだし、その音声は必ずボイスレコーダーに記録されているはずである。事実がそうではなかったことで、自衛隊機による撃墜説は否定されたと思っている(ただし、無人標的機説についてはこれをもって否定されないと考えている。無人標的機はラジコンのように遠隔地から制御するため、無線交信の有無とは無関係だからである)。
生還した4人の乗客たちが「墜落直後はもっと多くの人が生きていた」と証言したことから、夜のうちに墜落現場を特定できなかった初動体制の遅れが悔やまれる。
上の記事にもあるように、地元の上野村の人たちは、墜落の1~2時間後には墜落現場が「スゲノ沢」だということを知っていた。上野村消防団のメンバーには地元の林業関係者が多く、「スゲノ沢は目をつぶっても歩ける」などと豪語していた者もいたほどである。
そうした地元の人たちの声を聞くことなく、「墜落現場は長野」という誤報を一晩中垂れ流し続けた防衛庁に対しては、未だに「何か隠したいことがあったのではないか」といぶかしむ声が消えていない。23年経った今なお「自衛隊犯人説」が根強い支持を得ているのも、墜落当夜の防衛庁のこうした不可解な行動があったからだろう。
ただ私は、事故現場で子どもの小さな遺体を抱きかかえ、泣きながら救助活動に当たった末端の自衛隊員たちに現場特定の遅れの責任などあるわけがないし、彼らの努力は多とすべきだと考えている。また上述したように、自衛隊撃墜説はボイスレコーダーの公開によって否定されたと考えている。
一方、ボイスレコーダーの公開は事故調報告書に対する私の疑念を決定的にした。123便は、午後6時24分頃、伊豆半島上空を飛行中に「ドカン、ドカン」と大きな爆発音のような音が2度響き、異変が発生するわけだが、事故調が発表したボイスレコーダーの筆記録では、この直後の機長の発言が「なんか爆発したぞ」になっている。だが、
ボイスレコーダーの音声をもう一度良く聞いてほしい。「ドカン、ドカン」に続いてブーブーと警報が鳴り、その後「まずい」という声が聞こえる。そして、注目すべきはその直後…事故調の筆記録が「なんか爆発したぞ」になっている部分である。
「なんかわかったの」と聞こえないだろうか。間違っても「爆発したぞ」には聞こえない。絶対に聞こえないと断言できる。
この部分は、筆記録公開後に強い疑問が出され、最も論議を呼んだ部分である。「異音がした直後で機体に何が起きたかもまだわからず、“スコーク77”(飛行機の「非常事態宣言」。当時のマスコミでは「エマージェンシーコール」と呼ばれた)も発令されていない段階なのに、なぜ爆発とわかるのか」という強い疑問である。そして「圧力隔壁崩壊説」反対派が最もよりどころとした部分でもある。事故調が「初めに隔壁が壊れ、その後に垂直尾翼が破損した」というみずからのストーリーに合わせるために「わかったの」→「爆発したぞ」に改ざんしたのではないか、といわれ続けてきたのだ。
ここで、疑問に思う方はもう一度音声を聞いてほしい。高浜機長は間違っても「爆発」なんて言っていないと断言できる。本当のことを言えば、この部分が「わかったの」か「爆発したぞ」かは直接事故原因を左右する話ではないから、殊更にこだわる部分ではないのかもしれない。しかし、実際に「わかったの」としか聞こえようがない音声を「爆発したぞ」に書き換えた事故調の「真実に対する不誠実さ」こそが、人々をして事故調報告書への疑念に駆り立てるのである。
さて、圧力隔壁でもなく、自衛隊犯人説も根拠薄弱とすれば、この事故の原因はいったいなにか?
23年経った今も私は事故調の報告には納得できないし、だからといって真の事故原因の手がかりもない。原田監督が述べているように、やはりこの事故の原因は再調査されなければならない。