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時代の転換点に起きた新型コロナウィルス大流行~「ポスト・コロナ」後の世界を読む

2020-03-25 23:25:19 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年4月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 年明け早々、中国湖北省武漢市でひっそりと始まった新型コロナウィルス(COVID-19)の大流行は、文字通り一夜にして世界の光景を一変させてしまった。地球上のあらゆる目抜き通りからは人が消え、誰もが自宅に閉じこもり、息を潜めて状況の推移を見守っている。

 世界史的に見ると、1720年代にはペストの大流行があった。1820年前後にはコレラが世界的猛威を振るった。1920年代には「スペイン風邪」が大流行。「職業としての政治」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの著作で知られるドイツの社会学者マックス・ウェーバーは同年、スペイン風邪で没している。そして今回のコロナウィルス大流行だ。未知の伝染病流行は、まるで計ったように正確に100年周期で起きている。

 伝染病流行がなぜこのような周期性を持っているのかは判然としない。地球上で歴史を作る生物は人間だけだが、伝染病の流行はしばしば歴史を作らない他の動物による影響も受けるからだ。生物の進化や退化、生活環境の変化も加味しなければならず、伝染病の流行がなぜ周期性を持つのかの説明は難しいのが実態だ。

 歴史的資料が少なすぎて検証が困難な1720年代の事情や、人間以外の動物の動向も無視して近代以降の人類史だけで見ると、1820年代のコレラ流行時はフランス革命とアメリカ独立から半世紀弱という時代だった。アメリカは次第に国際社会で力を付けつつあったが、1823年、モンロー大統領が自国第一主義を採り、国際社会には積極的に関わらない、とする有名な「モンロー主義」宣言をしている。また、1920年代のスペイン風邪流行当時は第1次大戦が終了した直後で世界は疲弊していた。アメリカは第1次大戦に最終段階になって参戦、ヨーロッパがみずから始めながら終了させられないでいた大戦に終止符を打ったことで国際的な威信を高めたが、100年続いたモンロー主義を転換して積極的に国際社会の秩序づくりに関わるには至っていなかった。そして、今回のコロナウィルス大流行も、EUから英国が離脱、トランプ政権が「自国ファースト」を唱え、国際社会との関わりを縮小させる方向性を強める中で起きている。

 こうしてみると、世界的な伝染病の大流行は、内政、外交ともに国際協調よりも自国優先の内向きの政策を採り、国際社会でリーダーシップを取る意思のない国が大勢を占める時期に起きていることが見えてくる。伝染病の局地的な発生はいつの時代も地球のどこかで起きているが、感染拡大防止に向けた国際協調体制を世界が足並みを揃えて構築できないとき、それが拡散して惨事にまで至るのだと考えるべきだろう。またこれに付随して、国際社会の「覇者」が交代局面を迎えている時期に大流行が起きているという共通点も見逃せない(1820年代はアメリカの発展、1920年代はアメリカ「覇権」の確立、そして今回はアメリカから中国への覇権交代という世界史的事情が背景に見える)。疫病の大流行がしばしば世界史の転換点になったと主張する著作も過去、数多く出されているが、実際には疫病それ自体が歴史の転換点になったというよりも、歴史の転換点に起きた疫病の大流行が後世に生きる人々から見てその象徴として認識されたという側面が大きいように思われる。疫病の世界的大流行に周期性があることも、こうした世界史との関係の中で説明できるのではないだろうか。

 ●<国際社会>世界の覇権はアメリカから中国へ移る

 ほぼ200年にわたって続いてきたアメリカの国際社会における覇権は、経済的にはともかく政治的にはこれで終わることになる。今回の新型コロナウィルスの発生源が中国だったにもかかわらず、中国は早期の「封じ込め演出」に成功し、国際社会での発言力を強める。

 中国は「一人っ子政策」の弊害がこれから表面化し、日本を上回るハイペースで少子高齢化に見舞われる。人口が高齢化する国が発展を続けることはあり得ないので、中国は「一帯一路」構想を通じてEUのような「アジア連合」の結成をもくろみ、その中心をみずからが占めようとするだろう。人口構成の若い東南アジア、中央アジア諸国の取り込みに成功すれば、北京はEU本部のあるブリュッセルのようになる。

 ブリュッセルに首都を置くベルギーも15歳未満の人口比率が世界194カ国中152位、逆に65歳以上の人口比率が23位という少子高齢化国家だが、単に政治的、社会的「司令塔」になるだけなら人口構成が若いこと、経済活動が活発であることは必要条件ではない。

 ●<国際経済>世界は緩やかに「大きな政府」へ向かう

 第2次大戦後、局地的戦争はあったが、世界の何分の一かが巻き込まれるような大きな戦争がなかった。このような平時は行政需要が増大し、官僚機構が膨張する。日本でも世界でも膨張する官僚機構をどのように縮小するかが課題となった。この問題に最も効果的に応えるのが新自由主義の導入だった。行政改革が合い言葉となり、公共サービスはどんどん解体、民営化された。1980年代頃から拡大した新自由主義は、2000年代に入る頃から弱者切り捨て、格差拡大として問題視されるようになった。

 国民皆保険制度を持たないアメリカで、新型コロナウィルスの拡大が止まらないことは、新自由主義の恐ろしさをまざまざと見せつけている。貧困層は検査通院すら困難なアメリカの事情を考えると、実際の感染者数は公式発表よりはるかに多いと見るべきだろう。

 アメリカでは現在、大統領選挙に向け予備選が行われているが、とりわけ民主党の候補者選びにおいて最左派のバーニー・サンダース候補が唱える「国営の皆保険制度創設」に若者の強い支持が集まっている。サンダースが所属する民主党内の最左派グループ、DSA(アメリカ民主的社会主義者)はわずか数年でメンバーを大幅に増やしており、若者を中心とした戸別訪問で支持者と票を発掘し、勢力拡大につなげている。ソ連時代の硬直した官僚的社会主義体制を知らない若い世代によって、社会主義は負のイメージを刷新されつつある。新自由主義の怖さを目の当たりにした世界は、新型コロナウィルスの大流行を機会に、一気に社会主義への移行は無理としても、大きな政府を求める人々の声を背景に、再びその方向に舵を切り始めると予測する。

 ●<日本社会>東京五輪が開催できず韓国、台湾との差が決定的になる

 今年7月に迫った東京五輪までに事態が収束する可能性はほぼゼロに近い。少なくとも東京五輪の予定通りの完全開催の目は消えたと言ってよく、本誌が読者のお手元に届く頃には何らかの重大決定(中止または大幅延期)が行われている可能性もある。仮に中止決定なら、日中戦争拡大により自主返上させられた1940年大会に続き、「開催決定後二度も大会中止に追い込まれた世界唯一の都市」という記録が打ち立てられる。大会招致関係者には耐えがたいかもしれないが、それはそれで意義あることだと本稿筆者は考える。

 2020年夏の五輪招致に当たって、IOC(国際五輪委員会)が2012年5月に実施した世論調査では、候補地となっていたマドリード(スペイン)、イスタンブール(トルコ)、東京の3都市のうち、住民の招致「賛成」はマドリード78%、イスタンブール73%に対し東京は47%。逆に「反対」はマドリード16%、イスタンブール3%に対し東京は23%だった。東京は賛成が圧倒的に少なく、逆に反対は3都市の中で最多であったことを改めて指摘しておきたい。

 この世論調査を受け、IOCは、東京が開催地となった場合に懸念すべき点として、夏の電力不足のほか日本国内の「熱気不足」を指摘している。初めから都民の半分も支持していなかった五輪、福島第1原発からの汚染水流出が止まってもいないのに「アンダーコントロール」とウソまでついて招致した五輪はやはり招致自体が間違っていたのである。

 開催決定後も、エンブレム選定をめぐるゴタゴタや旧国立競技場解体後に浮上した新国立競技場の工法変更などトラブルが続いた。3月20日の聖火到着式では聖火リレー用の聖火がなかなか点火しないばかりか、航空自衛隊「ブルーインパルス」による空への五輪マーク描画も5色の煙があっという間に強風で流され失敗に終わった。東日本大震災被災者を置き去りして「復興五輪」のかけ声だけを空しく響かせてきた東京五輪の前途を暗示するようだ。予定通りの開催が不可能となった今、東京五輪は延期ではなく中止しなければならない。

 新型コロナウィルス対応をめぐって、東アジアの中では日本と韓国・台湾との間に潜在的に存在していた政治的・社会的レベルの差が表面化してきた。医療崩壊を言い訳に、重症患者に対する検査さえ満足に行おうとしない日本政府への不信、批判が拡大しつつある。専門家の間で意見が分裂し、不毛な批判、罵倒合戦が繰り広げられている日本の状況は、福島第1原発事故の頃とそっくりだ。

 韓国ではドライブスルー方式により、自家用車に乗ったまま病院の建物内に入らず新型コロナウィルスのPCR検査が受けられるようになり、感染者の確定を容易にしている。軽症者も含め、感染の全体像を明らかにできれば、致死率が高くないことが科学的に証明され、国民に安心感がもたらされる。

 台湾では国民健康保険証のICチップに入力された個人データを基に、1人当たりマスク購入枚数に上限を設け、健康保険証と引き替えにマスクが確実に購入できるシステムが短時間で構築された。不足するマスク増産のため、受刑者による刑務作業がマスク製造に切り替えられ、効果を上げている。台湾政府がこのような実効性のある政策を次々に打ち出しているのに、日本ではマスクの品不足とネット転売屋とのいたちごっこが繰り返され、トイレットペーパーを買えない市民は政府ではなくドラッグストア店員に無秩序に怒りをぶつけ混乱を拡大させている。

 1955年の保守合同によって自民党が結党して以降、日本ではこれまで65年間で4回しか政権交代をしていないが、韓国では1987年の民主化以降の33年間で3回、台湾でも1996年の民主化以降24年間で3回の政権交代が実現している(韓国は政党が頻繁に変わっているので、ここでは右派・左派間の政権移動を政権交代と定義している)。大統領制の韓国・台湾と議院内閣制の日本を一律に論じられないとしても、日本の政権交代の少なさ、改革への「拒絶反応」の強さは異常だ。政治の「民主化度数」で日本はすでに両国に大きく水をあけられ、今、その背中も見えなくなりつつある。

 そこに追い打ちをかけるように新型コロナウィルス対応の「差」が表面化した。筆者は、東アジアで韓国・台湾が先進国、日本は「衰退途上国」との評価が確定する時期を2020年代末期と予測していたが、日本のこの体たらくを見ていると、その時期は大幅に早まることになろう。

 ●<日本経済>構造転換に失敗した日本経済はますます観光依存を強める

 新型コロナウィルスの影響で、ここ数年、日本経済を支えてきた外国人観光客の客足はぱたりと途絶えた。2012年まで、年間600~800万人台で安定的に推移していた外国人観光客数は、2011年の福島第1原発事故という大きなマイナス要因があったにもかかわらず2013年から爆発的に増え始め、2018年には3000万人を超えた。5年で5倍はあまりに急激であり、当然ながら弊害も出る。最大の観光地の京都では路線バスが外国人観光客に占拠されて市民が乗れないなどの苦情が出始め、ついには「観光公害」という新語さえ登場。市長選では全候補が「観光客の抑制」を公約に掲げざるを得ないほどの異常事態となった。新型コロナウィルス大流行はそんな矢先の出来事だった。

 今、閑古鳥の鳴く観光地では多くの観光施設が経営破たんの危機にあり、早くも収束後を見越した外国人観光客待望論が出始めている。これに対し「中国一辺倒の観光政策」の見直しを求める声も上がる。日本の観光政策は、収束後どちらに向かうだろうか。

 筆者は「結局、外国人観光客は日本に戻る」と予測する。福島第1原発事故という負のイメージにもかかわらず、外国人が日本に押し寄せていたのは、バブル崩壊後「失われた20年」の中でまったく経済成長しなかった結果、日本がアジアでも有数の「安い国」になったことと大きく関係している。外国人観光客にアポなしで「突撃」して密着取材する民放テレビのバラエティ番組が人気を集めているが、先日、筆者が何気なくそれを見ていて率直に驚いたのは、フィリピン人とタイ人の観光客が、日本の100円ショップで「日本は物価が安い。このショップで売られているものの大半は私たちの国では190円くらいする」と述べていたことだ。かつて中国製やマレーシア製なんて「安かろう悪かろう」の代名詞だと多くの日本人は思っていたが、今や事態はすっかり逆転していたのである。

 日本が安い国になったことは、相対的に外国人観光客の経済力が強まったことを意味する。加えて、衰退する製造業に代わってアメリカのGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)のような知的産業中心への産業構造転換にも失敗した結果、日本は観光で稼ぐくらいしか生きる道がなくなりつつある。中国人観光客に批判的な人たちは、観光業が日本のGDP(国内総生産)比5%であることを根拠として「観光客くらい来なくても大した影響はない」とうそぶいているが、パチンコ・パチスロ産業のGDP比が4%、農業に至ってはわずか1%であることを考えるなら、その影響を軽視できないことは明らかだ。今や観光は、農業の5倍、パチンコ・パチスロ産業に匹敵する経済規模となっている。これを失って日本経済が立ち行かないことは明らかであり、日本はギリシャ、イタリア、スペインのような「産業構造転換に失敗後、観光国家転身に成功した国」を今後のモデルとせざるを得ないのではないだろうか。

 以上、新型コロナウィルス大流行の収束後に予想される政治、経済、社会の変化を世界、日本のそれぞれ別に予測してみた。筆者はこの予測にある程度自信を持っており、大きく逸脱することはないと思っている。

(2020年3月22日)

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良薬と猛毒がブレンドされた判決~原発避難者北海道訴訟 3.10札幌地裁レポート

2020-03-12 23:18:15 | 原発問題/一般
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新型コロナウィルス報道にすっかり覆い隠されているが、東日本大震災被災者にとっては忘れ得ぬ9回目の3.11がまためぐってきた。

 何もかも異例ずくめの冬だった。北海道なのに、本州に近い道南地域では雪不足でほとんど営業できないままのスキー場があった。この冬、積雪最深は道北・音威子府村で158cm(3/8現在)。200cmを超える積雪は今季まだ一度もない。このまま道内で1カ所も200cmを超える積雪がないまま終われば22年ぶりの記録になるという。私の住む札幌でもようやく2月中旬になってから雪が平年並みに降ったものの、風が吹けば顔に痛みを感じるような北海道らしい酷寒はこの冬、ついに一度もなかった。

 そんな中、3月10日、原発避難者北海道訴訟の判決の日が来た。記録的暖冬を象徴するように、この日は雪ではなく雨。前日から2日続けて最高気温が10度を超えたが、これは札幌では4月中旬並みの暖かさだ。

 午前10時、開廷。札幌地裁(武藤貴明裁判長)の判決は、不当判決が半分、完全勝訴が半分。「良薬と猛毒が半分ずつブレンドされた判決」との印象だ。

<参考資料>
1.判決要旨

2.弁護団声明

3.原告・弁護団記者会見(音声のみ)

 ●賠償はほぼゼロ回答の不当判決

 賠償部分については完全な「猛毒」といえる。77世帯、253人が求めた42億4千万円に対し、認められた賠償額は89名分のわずか5300万円にとどまった。請求額のわずか1%。統計学の世界なら「誤差の範囲」としてゼロにされてしまうような額でまったく話にもならない。

 国による避難区域の指定範囲を妥当とし、区域外からの自主的避難についても合理性を認めながら、福島第1原発から大量の放射性物質が漏れ続けている状況を無視して、野田佳彦首相(当時)が一方的な「冷温停止宣言」をした2011年12月末までしか賠償を認めなかった。認容額は1人わずか30万円。こんな低額の賠償水準はこれまでの訴訟ではなかったことだ。損害賠償について、判決確定前でも支払いを受けることのできる「仮執行」が認められたが、大半の原告にとっては仮執行する金額もないのが実態である。

 深刻なのは、避難当時の個別事情を考慮して、東京電力からこれを上回る賠償支払いを受けている原告がいることだ。このまま判決が確定した場合、東電から払いすぎた賠償の返納さえ求められかねない。民事訴訟の場合、仮執行は勝訴した側だけが持つ権利だ。「払いすぎた賠償額の返納を求める仮執行」を敗訴した東電が行うことは、さすがに民事訴訟の制度上無理だろう。しかし、このまま判決が確定すればそのようなおそれが現実になってしまう。

 原告・弁護団からは口々に「不当判決」との怒りの声が上がった。原告・弁護団の記者会見は午後1時から始まったが、まだ判決から3時間しか経っていないのに、配られた弁護団声明には早くも「控訴」の文字があった。

 ●北海道訴訟の大きな特徴~「全員一律賠償」の考え方

 福島第1原発事故に伴う避難者の賠償請求集団訴訟は、これまで全国各地で多くの判決が出されてきたが、避難とその後の生活再建に要した実害と精神的苦痛を根拠として、原告ごとに個別に賠償額を算定して積み上げる方式が採られてきた。しかし北海道訴訟では、このような原告ごとの個別事情はあるものの、1人あたり一律1650万円の損害賠償額とすることで全員が足並みを揃えたことに大きな特徴がある。

 空間放射線量や土壌中の放射性物質の量、土地・家屋の広さや資産価値、避難に至る経過、避難先での生活再建に要した経費、精神的苦痛の度合いなど、事情は原告ごとに異なるにもかかわらず、なぜこのような方法としたのか。「原告には様々な避難や生活再建の形がある。避難先で使える家財道具はできる限り買い換えずにそのまま使う人も、極力買い換える人もいる。原告ごとに個別に被害額を算定する従来のやり方では、家財道具の買い換えなどを極力減らして節約努力をした人ほど被害額が減り、賠償請求額も減ってしまう。まじめに節約努力をした人が損をしてしまう従来の損害賠償請求訴訟のあり方に一石を投じたいと考えた」と、原告側の島田度(わたる)弁護士は説明する。

 こうした新しい考え方についても、札幌地裁は、原告ごとに個別に被害額を算定すればすむことだとして原告側の訴えを棄却した。記者会見では、この闘い方について問う質問も出たが、島田弁護士は「原告と弁護団で話し合って決めたもので、原告側の思いも込めたもの。間違いはないと思っている」と胸を張る。

 ●国の「規制権限不行使」を厳しく断罪~長期評価の妥当性も認定

 一方で、今回の判決は東電の責任はもちろん、国の責任も過去の判決以上に踏み込む形で全面的に認めた。政府の地震調査研究推進本部(地震本部)による三陸沖~房総沖地震に関する「長期評価」については、昨年9月の刑事訴訟(東京地裁)がまったく妥当性を認めなかったが、今回の判決では否定的見解を示す専門家が存在することも踏まえつつ、「専門家による十分な議論を経たもの」「一定の信頼性のある知見」として妥当であるとした上で、これを取り込んだ対策を採るべきであったと結論づけた。確たる根拠もないまま津波が福島第1原発の主要建屋の南側からしか襲来しないと決めつけ、南側に防潮堤を設置すれば足りるとした東電の主張を「単なるシミュレーションに過ぎない」とし、南側側面から東側全面を囲う防潮堤を設置していれば事故を回避できたとして、結果回避可能性についても完全に認めた。

 判決は、こうした予見や結果回避が可能な対策を、国が原子炉等規制法に基づく技術基準適合命令を発することで東電に実施させるべきであったにもかかわらず、これを怠ったことは監督官庁としての「許容限度を逸脱」しており、違法と結論づけた。当時の監督官庁であった原子力安全・保安院の不作為、怠慢、規制権限不行使を厳しく断罪したといえる。国の責任をここまで全面的かつ明確に認めたことは、今後に向け大きな弾みになる。

 ●「収束していないものはしていない」「自分の世代で決着つける」

 原告たちはこの判決をどのように受け止めたのか。「自分が福島にとどまることで、福島が安全な場所だと思われると困る」として福島市から避難を決意し、判決直前も「二度と戻らないという覚悟を示すために海を渡ろうと考えた」と避難先に北海道を選んだ理由を語った中手聖一原告団長は「裁判所に気持ちを受け止めてもらったと思うが、賠償水準は不当であり、控訴審で闘う」と決意を述べた。伊達市から避難し、雇用促進住宅で長く避難者の取りまとめ役も務めてきた宍戸隆子原告団事務局長も「この裁判は私たちだけのものではない。声を上げられないでいる人たちにも勇気を与えるような控訴審を闘っていきたい」と早くも今後を見据える。

 「提訴から判決まで長い時間がかかった。その間に他の各地方の判決が先行し、札幌は最後に近くなったが、子どもたちが成長してこの判決、闘いの持つ意味を理解できる年齢になった。長かったが、私たちにとっては必要な時間だったと思っている」(宍戸さん)との思いは、原告に共通のものだろう。「毎年3月のこの時期になると心がふわふわする」と、いまだに続く心の傷の深さを吐露する原告の姿もあった。原告ではないが、3.11を福島県で過ごした私自身、毎年3月になると浮き足立って眠れない夜もある。「心がふわふわする」という気持ちは痛いほど理解できる。福島県外から避難者を今なお支援してくれている、心ある人たちを前にしてはとても心苦しいが、この気持ちは3.11当時福島に住み、あの独特の空気感を体験した人にしかわからないだろう。

 「(事故から9年経ち、関連報道も減っているが)事故による被害は過去の出来事ではない。今も続く被害の実相が裁判所に届かなかった」と中手さんは悔しさをにじませた。「福島第1原発では今も廃炉作業が続いており、いつトラブルがあるかもしれない。政府が事故「収束」を宣言しても、収束していないものはしていないとしか言えない」と宍戸さんは政府による意図的な「事故風化作戦」に釘を刺す。事故はまだ終わっておらず、被害者救済も開始すらされていない。このことはいくら強調してもしすぎることはない。

 「私にも後悔と反省がある。自分たちの世代が造り、増やし、止められなかった原発。将来世代、そして世界の人びとのために、自分たちの世代でつけられる決着はできる限りつけたい」(中手さん)、「子どもたちに『私たち、将来結婚できるのかしら』と心配させるような社会であってはならない」(宍戸さん)--2013年6月の第1次提訴から6年あまり。長く苦しい闘いを支える原動力となったのは「未来世代に対する責任」だ。

 古代ローマの詩人ユウェナリスは、享楽志向を強めるローマを「パンとサーカス」の国と評した。「放射能汚染水はアンダーコントロールされている」と大嘘をついてまで誘致した「東京大サーカス」は新型コロナウィルスのため今や風前の灯火だ。聖火リレーの現地では「福島はオリンピックどころではない」と訴える行動も行われ、海外メディアの注目を集めた。日本をパンとサーカスの政治に貶めた皇帝「安倍3世」による専制政治にふさわしい罰を下し、未来世代に対する責任をきちんと負える政治に転換することこそ、私たちに課せられた喫緊の課題だ。

(文責:黒鉄好)

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「有事のトイレットペーパー不足」が起きるメカニズムを考える

2020-03-04 23:11:44 | その他社会・時事
新型コロナ拡大に伴って「またか」と心底うんざりさせられるのはトイレットペーパー不足のニュースである。東日本大震災のときもトイレットペーパー買い占めが起きたし、古くは石油危機のときも買い占めはトイレットペーパーだった。日本の食糧自給率(カロリーベース)は4割にも満たず、エネルギー自給率に至ってはわずか9.6%(2017年時点)。供給不足の心配をするなら食料や燃料の方が先だろうと私は思ってしまうのだが、なぜか有事に不足するのはいつもトイレットペーパーと決まっている。今日は、なぜ日本で有事に買い占めによる不足が起きるのが食料でもエネルギーでもなくトイレットペーパーなのかについて考えてみる。

1.デマを流す人の心理

「物資不足」デマを流したい人が、どんな物資なら人びとに信用してもらえそうか(=どんな物資なら騙せそうか)を考えるとき、やはり石油危機の記憶は大きいらしい。有事になるとトイレットペーパーが「不足するだろう」→「不足するに違いない」→「不足しなければならない」と考えがエスカレートした結果、「トイレットペーパーが不足する」というストーリーの結論部分が先に決まる。「初めに結論ありき」の典型だ。

そして、この結論が決まったら、多少強引でもいいからそこへストーリーを落とし込む。考えてみれば今回のデマの発端となった「トイレットペーパーとマスクはどちらも原料が同じ(紙)で、主に中国で作られているから、新型コロナで中国のサプライチェーンが動かなくなれば供給に支障が出るに違いない(あるいは、支障が出なければならない)」という論理は飛躍しすぎているし、マスクの原料は不織布であって紙ではない。だが、有事でパニックになると白い物は全部紙が原料と思い込む人が一定割合でいるらしく、こうしたデマに容易に騙される人が出てくる。

考えてみれば、消費期限が短く、余っても腐らせてしまうだけの生鮮食料品では買い占めにつながりそうもないし、例えば乾電池などは災害時には供給が途絶して過去、実際に不足が起きたこともあるとはいえ、小さくて軽トラック1台でも1度にかなりの個数、輸送ができてしまうからやはり簡単に不足は起こせそうもない。これに対し、トイレットペーパーはある程度「かさばる」ためトラック1台で輸送できる量には限りがあるから輸送がパンクしやすい。おまけに備蓄も可能だ。デマを流す側にしてみれば、不足騒ぎを起こすのにこれほど適した物資もない。これからも「トイレットペーパーが不足する」というデマは有事のたびに起き、そして実際に店頭から消える騒ぎは繰り返されるだろう。

2.「物流」の問題

これは、当ブログではJR路線問題と絡んでたびたび取り上げてきており、今さら繰り返すまでもない。現在、日本ではトラックも運転手も不足気味で、有効求人倍率は2倍を超えている。ネット通販の急成長に伴って貨物取扱量は増える一方なのに、運転手の主力は50~60歳代と高齢化している。今や平時でも物流はギリギリ状態なのに、業者から急な発注が入っては運びきれない。しかも1で見たようにトイレットペーパーは「かさばる」ため1度に運べる量が限られているにもかかわらず、生活必需品として頻回な輸送が発生する。単価が安いので利幅も小さく、物流業者にとっては正直「扱いたくないもの」の筆頭といえる。

3.「小売店側」の問題

それでも上記1と2については、まだ業界事情にそれほど詳しくない人でも想像がしやすいかもしれない。だがこれから説明する小売店側の問題は、ある程度この業界の事情に通じていないと理解が難しいだろう。

実は、当ブログ管理人は今の会社に就職する前の学生時代に、地方に基盤を置く総合スーパー(イオンのような形態のスーパー)で5年ほどアルバイトした経験を持つ。当ブログ管理人がバイトしていたのは80年代後半~90年代前半。世はバブルが最後の輝きを放っていた時代だが、当時と今とを比べてみても、ネット通販が登場して、それに押されていることくらいで、基本的な業界構造はそれほど大きくは変わっていない。

今回のように、大きな自然災害に見舞われ物流が途絶したわけでもなく、静岡県富士市の製紙会社「丸富製紙」が天井に届かんばかりの大量のトイレットペーパーの在庫を持っている様子を写真で公開もしている(参考記事:「「トイレットペーパー、倉庫に在庫潤沢 ご安心を」富士・丸富製紙のつぶやきが拡散」(2019/3/3「毎日」)にもかかわらず、買い占め騒ぎが収まらないのは、多くの消費者が「そうは言っても、自分の近くのどの店に行っても実際、置いてない」と感じているからである。メーカーには天井に届くほど在庫があり、物流も途絶していないのに「どの店に行ってもない」原因は実は小売店側にもある。事態を読み解くカギは「倉庫面積」だ。あなたの近くのスーパーや小売店が今回のような有事にどの程度商品を切らさずに持ちこたえられるかのカギを握るのは、売場面積よりもむしろ倉庫面積なのである。

バブルが崩壊した90年代中盤くらいから、スーパーやドラッグストアなどの小売業界では、倉庫面積を減らす動きが相次いだ。売場と違い、倉庫は直接売り上げには結びつかず、逆に面積が広ければ広いほど保管経費や固定資産税などがかかるから、スーパーやドラッグストアにとっては手っ取り早く経費を削減するには倉庫の面積を減らすのがいい。直接的なコスト削減効果があり、しかも顧客には見えない部分だから消費者イメージの低下の心配もしなくてすむ。倉庫面積が減ったぶんは、卸売業者に発注する回数を増やし、少しずつ頻繁に納品してもらえばいい。当時は今と違い、トラックも運転手も余っていたから輸送回数が増えることによるコスト増加はいくらでも卸売業者に転嫁できた。結果として、スーパーやドラッグストア業界はトヨタばりの「ジャスト・イン・タイム」方式的「少量頻回発注納品」体質にすっかり甘えたまま今日まで来てしまった。ところが、急速に進む少子高齢化でトラックも運転手も過剰から不足に転じ、この「少量頻回発注納品」方式が急速な逆回転を始めているのがスーパーやドラッグストア業界の現状なのである。

経費節減のために倉庫の面積を減らす動きは、まず地価や固定資産税の高い都心の一等地の店舗から表面化した。特にコンビニでは倉庫スペースがほとんどないため、納品に来た業者が直接売場に商品を陳列するような極端な例も珍しくない。こうした店舗では、販売力は売場面積を超えられないが、こうした都心一等地の店舗ほど人口密集地でもあるため、今回のような有事には真っ先に買い物客が殺到する。都心で地価も固定資産税も高いため、コストばかりかかり、売り上げにつながらない倉庫面積を極限まで削減した結果、販売力が小さくなった店に、人口密集地で買い物客が殺到するのだから、物がなくなるのは当然だ。そこに、上記の2で説明した事情(生活必需品であるにもかかわらず、かさばるため輸送コストがかかる)が重なった結果、最も早く欠品状態となるのがトイレットペーパーとなるのである。

有事にあって物流が一定期間途絶えたとき、あなたの生活圏にある行きつけのスーパーやドラッグストアが「欠品をできるだけ出さずに持ちこたえられる店か否か」を見極める方法は、売場よりも「十分な面積を持った倉庫があるか」「物資に備蓄があるか」がポイントになる。今度買い物に行ったときでかまわないから、店の周りをぐるりと1周、回ってみて、倉庫の広さとともに、配送のトラックが週に何回程度来ているかも確認してみるといいだろう。十分な倉庫面積を持ち、配送トラックの来店回数も1週間に1~2回程度なら、その店は有事にもある程度持ちこたえるだろう。そうでないなら、その店は持ちこたえられないということになる。かつて小売業界を経験した当ブログ管理人からのアドバイスである。

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「新型コロナ感染予防にマスク着用不要」というWHOの言葉を信じないのはなぜ?

2020-03-02 00:22:06 | その他社会・時事
WHOの言葉を信じないのはなぜ?:「新型コロナ感染予防にマスク着用不要」:私たちとヤフコメ民と情報(碓井真史氏のブログ)

・・・という記事が出ているが、WHOは新型コロナウィルスに対して、専門家集団という建前とは裏腹に、きわめて対応がずさんな上、こう毎日コロコロ言うことが変わる朝令暮改ぶりでは信じてくれといわれても難しい。

マスクが必要か不要かについては専門家の見解も分かれている。「コロナウィルスは小さな微粒子で、マスクの目などすり抜けてしまう。感染防護上は意味がない」との意見がある一方で、「ウィルスは空気感染だけとは限らない。患者の咳などによって飛ぶ飛沫はマスクの目より大きく、引っかかってしまうので、飛沫感染を防ぐ上での予防効果はないわけではない」と効果を認める意見もある。

実際はどちらの意見も医学的には正しいのだと思う。原発事故直後の福島でも、マスクをするかしないかについては激しい論争があった。「事故で直接原子炉から放出された放射性物質の微粒子は細かく、通常のマスクで防ぎきれないので、しても意味がない」という学者が大勢を占める中、「空中を舞い、地上に落下などする途中で空気中のちりやほこりと結びついた放射性物質の微粒子の場合は、ちりやほこりがマスク表面に引っかかるため、付けないより効果があるのは確実」とマスクを推奨する見解もあった。

専門家の意見も割れていることに気づいた当時の福島県民は、結局、最後は自分の信じたいものを信じると決め、マスクを付け続ける人、外す人に分かれていった。マスクをしている人としていない人の間に見えない壁ができ、それが自分にとっての敵味方を見分ける哀しいシンボルとなった時期もあった。同じ空間を共有していても、マスクをしている人としていない人の両方にとって、互いに相手方が「パラレルワールド」に住んでいると感じるような、奇妙かつ痛々しく突き刺さる空気感があった。

あの微妙な「福島」後の世界で2年を生きた当ブログ管理人にとって、「医学的な正解」と「社会的な正解」が必ずしも同一ではないと理解できたことは、今回の新型コロナ問題を背景まで含めて深く理解する上で役立っている。

今回の新型コロナウィルスへの感染を防ぐため、マスクは不要か必要か。「必要であるとともに不要でもある」が正解と当ブログは答えたい。回答になっていない、とお叱りを受けるかもしれないが、これは当ブログなりに考えて出した結論である。

医学的正解だけを追い求めるならば、多くの医療関係者が主張するように非感染者のマスク着用は不要だろう。マスクはすでに感染してしまった人が非感染者に飛沫などを通じて感染を広げないためのものだからである。専門家やWHOの主張は、この意味では何ら間違っていない。

しかし、社会的正解を追い求めるとなると、結論は大きく変わってくる。そもそも、世の中には他人はおろか、自分自身を未知の病気から防護するという意識すら希薄な人たちが一定の割合で存在する。そうした人たちは「意識が低い」ため、今回のような未知のウィルスがまん延し始めた場合、まん延初期で他の誰よりも早く感染してしまう。そのような、自分自身を守る意識すら持てない人びとに対し、他人に未知の病気をうつさないようにするためのマスク着用の期待が果たしてできるだろうか? 当ブログの答えは断じて「否」である。

となると、周囲の「まだ感染していない、意識のそれなりに高い人たち」が自分自身を感染から守る手段はひとつしかない。「自分自身の防護さえしようとしない意識の低い人たち」からの巻き添えで感染させられるのを防ぐには、結局は自分自身がマスクをするしかない、という結論になる。一般市民のこの感覚が理解できない専門家が「未感染の健康な人たちがマスクを買い占めるのは重傷者を救うためにならない」といくら訴えても、「明日自分が重傷者になるかもしれない」という心理が市民に働いている限り、マスクを買いたいと思う行動を止めることは不可能に近いのである。

もう少し、わかりやすく説明したほうがいいかもしれない。例えば、何度検挙されても酒気帯び運転がやめられず、「今回だけは大丈夫。事故は起こさないし、捕まることもない」という根拠のない自信に衝き動かされ、車を運転してしまう。あるいは、不倫が道徳的にも法的にも許されないとわかっていても、発覚した場合にリスクがいかに大きいか頭では理解できても、「今、ここにある快楽」につい身をゆだねてしまう。

何度も酔っ払い運転や不倫などの問題行動を起こす人はだいたい決まっており、そうした特定少数の人たちをどう矯正するかが長らく社会政策上の課題だった。だが、最近はあまり上手くいっておらず、同じ人によって同じことが何度も繰り返されているように思われる。周囲の人たちも、そうした問題行動を繰り返す特定少数への対応に疲れ果てているように見える。

曲がりなりにも民主主義のルールの下で、汚染された都市を丸ごと封鎖する中国、入国禁止を破った市民から永住権を剥奪するシンガポールのような独裁国家と同じような強権発動を日本ができない以上、もはや善良な不特定多数が「君子危うきに近寄らず」的対応を取るしかない状況に追い込まれつつある。車の鍵を預かり、運転代行が来るまで渡さない飲食店が増えたことや、既婚者でありながら不倫に身をやつしている本人よりも、既婚者と知りつつ交際相手となった人物のほうにバッシングが集中するような最近の新たな事態を見ていると、「問題行動を起こす本人を矯正するのはもう無理。周りが気をつけないと」というムードになりつつあるのだ。問題行動を繰り返す特定少数に対処する社会的コストが日本ではあまりに高くつき過ぎ、善良な不特定多数が対処する社会的コストのほうが安くてすむ場合、社会がそのような解決策を受け入れる、ということが往々にしてある。

今回の新型コロナウィルスもこのケースに該当するものと思われる。「連日、コロナ、コロナと報道で言っているのに、マスクもせずに咳をしているバカに何を言っても仕方ない。自分が巻き添えにならないようにマスクをすればいいことだ」とみんなが考え、そのように行動する。問題行動を繰り返す特定少数への対処コストが高すぎるため、善良な不特定多数が対処を強いられるが、このような場合、必ずどこかに社会的しわ寄せが行く。今回はそれがたまたまマスク業界となったのである。

本当の意味で危機管理を成功させたければ、人びとの心理面にまで踏み込み、きちんと分析した上での対策が必要になる。テレビに出演し「医学的な正解」だけを繰り返す専門家は、カルテは読めても世論=人びとの心理面は読めない人たちなのだろう。そこまできちんと読めてこその専門家だと当ブログは思うが、当の本人たちは「それは心理学者かせいぜい官僚の仕事であって、自分たちの守備範囲ではない」と考えているのかもしれない。もし本当にそうだとしたら、それこそが日本の危機管理を混乱に陥れている元凶であることに、いい加減気づくべきだろう。彼ら自称「専門家」たちは今後も事務系官僚に使われるだけで、重要な政策決定の舞台に立つことはできないと思う。

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【管理人よりお知らせ】ブログ名を「人生チャレンジ20000km」に戻しました

2020-03-01 23:20:29 | 運営方針・お知らせ
管理人よりお知らせです。

当ブログの名称を「安全問題研究会」から当分の間、昔の名称「人生チャレンジ20000km」に戻すことにしました。

管理人は「安全問題研究会」サイトと当ブログを事実上、一体で運営していますが、今年は昨年までと異なり、公共交通と原子力問題に絞らず、もっと幅広く思いを吐露するブログとして運営したいと考えていて、すでに新年からそのように方針を変えています。

2020年代に入り、はっきり時代の転換点に来たという思いがあり、公共交通と原子力問題にこだわっていては時代の小さな変化の兆候を見落としてしまうおそれもあります。ここしばらくは、安全問題研究会としての立場にこだわらず、気楽に書いてみたいと思っています。

併せて、3月に入ったことに伴い、少し早いかとも思いましたが、テンプレートを春仕様に変えました(スマホ、タブレットでは表示されません)。札幌でも今年は記録的な暖冬で、雪はそれなりに降ったものの、風が吹くと顔が痛くなるような冬らしい気候は、ついに一度も経験しないまま終わってしまいそうです。本州と比べれば寒いですが、札幌の例年と比べると全然寒くもなく、このまま春を迎える気配が濃厚なので、変えることにしました。

新型コロナウィルスに関し、「緊急事態宣言」が出されている北海道の状況について、在北海道ブログとしてお伝えしておきます。確かにマスクや消毒用アルコールの不足などは起きていますが、そうした事態は全国共通であり、北海道だけが緊急事態宣言を出さなければならないような状況とはまったく思っていません。当ブログ管理人の職場でも、関わっている各種市民団体等でも感染者は1人も出ていません。季節性インフルエンザと同様の対策を徹底すれば十分、乗り越えられる事態であり、鈴木直道道知事の反応は明らかに過剰です。緊急事態条項を盛り込んだ改憲をめざす自民党の路線に沿ったある種の「予行演習」ではないかと勘ぐりたくもなるし、そうでなければ、突如として東京から札幌に変更となったオリンピック・マラソンを強行できるようにするための「浄化作戦」だと当ブログは考えています。

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