安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

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●管理人の寄稿
月刊『住民と自治』 2022年8月号 住民の足を守ろう―権利としての地域公共交通
核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集(緑風出版)

●安全問題研究会が、JRグループ再国有化をめざし日本鉄道公団法案を決定!

●安全問題研究会政策ビラ・パンフレット
こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

今年1年お世話になりました

2014-12-31 17:54:09 | 日記
今年も残り数時間となりました。当ブログ管理人は携帯回線を使ってインターネットにアクセスしており、年越し前後は回線が混雑するおそれもありますので、少し早いですがここでご挨拶を申し上げます。

内外ともに激動の2014年も終わろうとしています。厳しい1年でしたが、その厳しさの中にも、原発問題やJR問題で講師の要請を受けるなど、当ブログと安全問題研究会のこれまでの活動が評価され、またそれをしっかりと未来に向け、つなげる一歩を記すことのできた充実の1年でした。

来年も引き続き厳しい年であり、そして内外ともに先行きの見通せない不安定な情勢が続くと思います。国内政治は「低空飛行で奇妙な安定」が来年を表すキーワードだと思います。

当ブログ管理人は、北海道内の某温泉観光地で年越しを迎えます。旅行先で迎える新年というのは、長い人生でも初めてです。来年に備え、心も身体もしっかり休んでおきたいと思っています。

では、みなさま、よいお年をお迎えください。

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2014年 当ブログ・安全問題研究会10大ニュース

2014-12-30 21:11:55 | その他社会・時事
さて、2014年も残すところあとわずかとなった。そこで、昨年に引き続き今年も「当ブログ・安全問題研究会2014年10大ニュース」を発表する。選考基準は、2014年中に起きた出来事であること。当ブログで取り上げていないニュースも含むが、「原稿アーカイブ」「書評・本の紹介」「日記」「福島原発事故に伴う放射能測定値」「運営方針・お知らせ」カテゴリからは原則として選定しないものとする。なお、ニュースタイトルの後の< >内はカテゴリを示す。

1位  JR北海道の安全問題で国交省がJR北海道を刑事告発、道警が強制捜査。JR北海道に史上初の監督命令<鉄道・公共交通安全問題>

2位  リニア中央新幹線事業認可、着工へ<鉄道・公共交通政策>

3位  福島第1原発事故をめぐり、東京第5検察審査会が勝俣恒久・元東京電力会長ら元経営陣3人を「起訴相当」と議決<原発問題>

4位  衆院解散・総選挙で自公与党が3分の2維持。次世代の党壊滅、共産党が政権批判票集め躍進<社会・時事>

5位  安倍政権が安全保障政策に関する従来の憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定。反対運動も高揚<社会・時事>

6位  マレーシア航空「失踪」「撃墜」やエアアジア機墜落、韓国でのセウォル号沈没など海外で公共交通の事故相次ぐ<鉄道・公共交通安全問題>

7位  御嶽山の大規模噴火で57人死亡、戦後最大の噴火災害に。阿蘇山でも火口が立入規制となるなど噴火災害が相次ぐ<気象・地震>

8位  水樹奈々さん、芸術選奨(文部科学大臣新人賞)受賞<芸能・スポーツ>

9位  レイルウェイ・ライター種村直樹さん死去<鉄道趣味>

10位  ソチ五輪開催、ロシアによるウクライナ・クリミア半島併合などロシアが注目を集める<社会・時事>

【番外編】
・安全問題研究会がJR北海道問題、リニア問題を巡る質問主意書提出、国土交通省交渉の実施、ノーモア尼崎キャンペーンをはじめ3回の講演を行うなど活発に活動

・当ブログ管理人、札幌市をはじめ原発問題で5回の講演を行うなど、原発事故後の福島県内の状況に関する情報発信に努める

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改めて今年を振り返ってみると、海外で航空機事故が相次ぎ、セウォル号沈没事故も起きるなど公共交通の事故が目立った年だった。この10大ニュースには入らなかったが、海上自衛艦「おおすみ」事故なども今年発生した事故に含まれる。

また、ロシアによるクリミア半島併合、「イスラム国」の支配地拡大など、国際社会がはっきりと「新・帝国主義」とでもいうべき不安定な時代に入ったことが浮き彫りにされた1年だった。このような不安定な国際情勢が、集団的自衛権を巡る国内の議論にも微妙な影を落とした年だったといえる。こうした不安定化は来年以降も続くことは確実で、日本の将来に重大な影響を与える可能性がある。

また、来年はJR福知山線脱線事故から10年、日航機墜落事故から30年の節目を迎えることから、公共交通の安全問題が大きくクローズアップされる年になることは間違いない。

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2014年 鉄道全線完乗達成状況まとめ

2014-12-29 21:00:36 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
年の瀬を迎え、年内に新たな鉄道乗車予定もないので、ここで例年通り今年の鉄道全線完乗達成状況をまとめる。

1)完乗達成路線
【2月】札幌市交通局(札幌市電)
【5月】留萌本線
【9月】東北新幹線(奪還)、大湊線、津軽海峡線、室蘭本線

2)完乗記録を喪失した路線
【10月】吾妻線(線路付け替えに伴う営業キロ変更のため)

以上、合計3社6線となった。内訳は、JR5、公営1。廃止(予定)線、新規開業路線の乗車はなかった。室蘭本線は、未乗車だった枝線区間(東室蘭~室蘭)の乗車により達成。津軽海峡線、大湊線は当ブログにまだ報告を書けていないが、廃止間近と思われる急行「はまなす」の乗車を兼ねた9月13~14日の旅行で達成している。

2014年の新年目標では、JR5線、その他5線の計10線区乗車を目指していたが、とりあえずJRに関しては目標達成となった。その他については未達成に終わった。

東北新幹線は八戸開業後、いったん八戸まで全線完乗。八戸~新青森間が延長開業したことに伴い記録喪失となっていたが、今回、同区間を乗車したことに伴い、記録奪還となった。一方、吾妻線は、1999年7月20日に全線完乗を達成していたが、今回、八ツ場ダム本体工事の開始に伴い、新線付け替えが行われた結果、川原湯温泉駅が移転、営業キロが変更となった。

当ブログの乗り潰しルールでは、大規模な線路付け替えにより営業キロが変更となった場合、または建築限界測定車による建築限界の再測定が行われた場合は該当区間を乗り直すよう決めており、岩島~長野原草津口間は記録喪失、乗り直しとなる。乗り直しはこの区間だけで構わないが、吾妻線は盲腸線であり、実際には渋川~長野原草津口間を乗り直さざるを得ない。

この結果、全国のJR線で未乗車の区間は、以下の通りとなった。

【北海道】函館本線(桑園~長万部、森~大沼(渡島沼尻経由))、石北本線、釧網本線、根室本線(帯広~根室)
【東日本】吾妻線(岩島~長野原草津口)、中央本線(岡谷~塩尻(みどり湖経由))
【四国】鳴門線、徳島線、内子線、予讃線(向井原~内子、新谷~伊予大洲)
【九州】肥薩線(人吉~隼人)、吉都線、日南線、指宿枕崎線

計14線。吾妻線に見られるように、最近は一進一退が続いており、なかなか進展していない。特に、1998年4月に九州の実家を離れ、横浜に転勤して以降、6年間の名古屋勤務を除けばすべて東日本・北海道エリアの勤務になっており、西日本に全く縁がない。今後も四国・九州は腰を据えて取り組まないと、かなり厳しい。北海道は来年にも終わらせたいと考えているが、どうなることやら。

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レイバーコラム「時事寸評」第21回 追悼・種村直樹さん~日本最初のレイルウェイ・ライター

2014-12-24 22:24:02 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人がレイバーネット日本に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 すでに1か月以上前のことになるが、11月6日、種村直樹さんが転移性肺がんのため死去した。78歳。葬儀・告別式はすでに11月12日、都内で執り行われた。謹んで哀悼の意を表する。

 この間、追悼記事を書かなければと思いながら、総選挙・原発問題の講演などの政治的日程が立て込み、この時期にずれ込んでしまった。だが、種村さんは単なる趣味的鉄道ライターとしての枠にとどまらず、広く鉄道を取り巻く社会情勢も含めて世に問うことのできた貴重な社会派ライターでもあった。あまり知られていないが、旧国鉄労使双方に深く食い込み、JR不採用問題=国鉄闘争にも関心を抱いていた人だった。長く国鉄闘争を追ってきた者のひとりとして、種村さんのそうした一面をぜひ、記録に残しておかなければならない(そして当然のことながら、趣味的鉄道ライターとしての種村さんの追悼記事はすでにいくつか見られるが、労使問題まで食い込んで発言した社会派ライターとしての種村さんの追悼記事は今のところ見当たらない)。

 ●新聞記者からの転身

 種村直樹さんは、1936年、滋賀県大津市生まれ。地元の県立高校から京都大学法学部に入学し、1959年3月の卒業後は毎日新聞社入社。新人記者の宿命でもある警察での事件取材(いわゆる「サツ回り」)を経て、転勤先の名古屋で1966年8月から交通担当となった。国鉄中部支社、名古屋鉄道管理局、名鉄、近鉄などを担当。同時に郵政、電電公社、労働担当も兼務したため、労働問題にも一定の知見を持つようになった。毎日新聞中部本社版に「お盆列車は走る~急行「阿蘇」同乗記」が掲載され、事実上の鉄道記事デビュー。同年12月、テレビ出演して通勤列車の問題点や名鉄事故などについて論評したのがきっかけに、鉄道に知見を持つ記者として知られることになった。

 1973年3月、交通担当から国会担当への異動を打診されたことに対し、「自分はこれからも鉄道を見ていたい」として毎日新聞社を退社。日本初の鉄道専門のフリーライターである「レイルウェイ・ライター」として新たな一歩を踏み出した。

 日本の論壇・文壇において「レイルウェイ・ライター」の肩書を名乗る人は、この時点では種村さんが初めてであり、前人未到の分野だった。作家・小説家として鉄道「も」書くというスタイルの人であれば、それまでにも存在した。古くは、明治生まれで夏目漱石の門下生であった内田百もそうだし、阿川弘之や宮脇俊三もそうしたスタイルの作家だった。だが、鉄道ファンにおなじみだった宮脇俊三も、作家となる以前は「中央公論」編集部で仕事をしており、作家ではあってもライターやジャーナリストには分類できない人だった。当コラム筆者と同世代か、それより上の世代の鉄道ファンにはおなじみの宮脇・種村の「両雄」は、活動分野が重なっていなかったからこそ並び立つことができたといえる。

 種村さんは、その後、現在でも著名な鉄道趣味雑誌のひとつである「鉄道ジャーナル」誌の竹島紀元編集長の目に留まり、同誌と専属契約を結んで本格的にレイルウェイ・ライターの仕事に乗り出す。「鉄道ジャーナル」誌の発行元・鉄道ジャーナル社はかつて鉄道記録映画社を名乗り、鉄道の記録映画を制作販売する地味な企業だったが、鉄道雑誌の編集発行が本業となった結果、鉄道ジャーナル社に社名を変更。季刊としてスタートした同誌はやがて月刊誌化した。特に、ひとつの列車に乗車して徹底的にルポする「列車追跡」シリーズは鉄道ジャーナルの看板企画として読者の好評を博した。この過程で種村さんが果たした功績は計り知れない。

 新聞記者出身だけあって、種村さんは筆まめな人でもあった。鉄道ジャーナル読者から寄せられた手紙にはほとんど返信するなど、読者との交流を大切にした。鉄道ジャーナルの姉妹誌「旅と鉄道」誌上での連載「種村直樹の汽車旅相談室」は乗車券など切符のルールに関する質問を読者から受け付け、答える誌上問答形式で読者には好評だった。国鉄~JRの切符のルールである「旅客営業規則」と、その運用通達に当たる「旅客営業取扱基準規程」を読者にとって身近な存在にしたのも種村さんだ。この他、郵便局の窓口で貯金をし、貯金通帳に郵便局長名の印(取扱主務者印)を押してもらう「旅行貯金」をメジャーな存在にするなどの功績もあった。

 このような、読者との交流を大切にする種村さんのスタイルは「信者」と呼ばれるほど熱烈な種村ファンを生み出したが、一方で、大勢の「信者」を伴っての旅先での集団行動や、「~である由」「ぞっとしない」「~に対して苦言を呈しておく」など、新聞記者出身とは思えない独特な文体・表現には鉄道ファンからの批判もついて回った。

 2000年11月、くも膜下出血で倒れ入院。奇跡的に一命をとりとめた後は、好きだった煙草も絶ち、レイルウェイ・ライター業にも復帰したが、退院後の文章が以前と比べて精彩を欠いていることは種村さん本人も認めていた。2010年12月に再び脳出血で倒れ、公の場から姿を消して以降は完全な療養生活だった。

 種村さんがレイルウェイ・ライター業に踏み出した1970年代は、日本の鉄道、とりわけ在来線にとって最後の黄金時代であり、この頃を境目として自動車に旅客・貨物を奪われた鉄道は衰退期に入っていった。種村さんの鉄道人生は、そのまま戦後日本の鉄道の衰退史でもあった。だが、鉄道の現場取材という意味では最後の良き時代といえた。運転士が乗務中に煙草を吸ったり携帯電話を使用したりするだけで不祥事として乗客に通報され、やれ解雇だ処分だと大騒ぎになる現在からは想像ができないが、当時は鉄道雑誌の記者・カメラマンらが運転士とともに運転席に乗車して取材を行う「添乗取材」が広く行われていた。添乗取材は、国鉄本社に許可を求めなくても地元の国鉄支社・鉄道管理局レベルでの許可で可能だったし、当局が許可を渋り、なかなか出さないときは国労・動労などの労働組合に相談し、当局に働きかけてもらえば許可が下りることが多かったとする証言もある。先頭に機関車が連結されているため、今日の常識では撮影不可能であるはずの寝台特急列車(ブルートレイン)や貨物列車の「前面展望」写真などは、この添乗取材の賜物である。

 当時は、国鉄の労使関係もまだ悪くなかった。鉄道雑誌の記者やカメラマンも添乗取材などで国鉄の労使双方に世話になっていたし、現場の国鉄職員も鉄道ファンに優しかった。当コラム筆者が中継信号機や車両称号の意味などを教えてもらったのも現場の駅員からである。現在であれば「癒着」と批判されかねないが、当時は鉄道雑誌の記者・カメラマンや鉄道ファンまでもが自分自身を「鉄道ムラ」の一員と認識していた時代だった。

 原子力ムラに象徴されるように、現在では「ムラ」は閉鎖的な地域社会や利権集団に対する否定的な意味でしか用いられないが、そうした「ムラ」の是非はともかく、国鉄分割民営化により「鉄道ムラ」の解体が進んだ結果、従来では考えられないようなお粗末な事故やトラブルが多発するようになったことは指摘しておく必要がある(国鉄時代も事故・トラブルは起きていたから、「ムラ」解体の結果、それまでのように過去の事故から学び、類似の事故を起こさないようにしようとする職業意識が失われたと表現するほうがより正確かもしれない)。現在でも、40~50歳代より上の古い鉄道ファンの中には、鉄道の現場の職員に食い込んでいることを自慢する者が時折、見受けられるが、これはこうした「ムラ」時代の名残である。

 ●国鉄の栄光と挫折の中で

 1980年代に入ると、累積赤字の拡大する国鉄の再建が重要な政治日程に上ってきた。80年には日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)が成立。国鉄運賃を幹線・地方交通線の2本立てとした上で、地方交通線運賃を1割増しとすること、輸送密度(1日1キロメートル当たり輸送人員)4000人未満の路線は特定地方交通線として、原則廃止かバス転換することが決まった。

 赤字ローカル線問題が急速に政治問題化するのに伴い、種村さんにも国鉄再建に関する発言が次第に増える。ただ、種村さんは商業メディアが繰り広げた国鉄の「ヤミ・カラ攻撃」「労働者悪玉論」とは明確に距離を置き、日ごろ現場取材などで国鉄の労使双方に世話になっている自身の立ち位置を踏まえた公平な論調を貫いた。

 労働組合への言及が増えたのもこの時期の特徴だ。『国労のとり組みをみて』と題した「鉄道ジャーナル」1983年11月号「レイルウェイ・レビュー」では『二〇年近く国鉄とかかわりのある仕事をしているうち、国鉄当局はもとより、労働組合の国労にも親しみをもつようになっている』と、自身が国労に好感を持っていることを隠そうともしていない。種村さんの論調に対し、読者投稿欄で『当局べったり』と批判した読者に対しては『はなはだしい誤解』であり『鉄道が好きだから日本全国に路線網をのばしている国鉄に親近感を覚えるのは自然なこと』と反論している。

 このコラムでは、国労が全面バックアップする形で83年11月27日に開催された「国鉄を考える会」主催の「国民の足“国鉄”を考える」集会を取り上げ、国鉄建て直しのため「思い切った合理化」が必要なことは認めつつも、『目先の数字だけを尺度にした画一的な切り捨て策には反対』と、ローカル線廃止反対を明確にしている。『秋山謙祐企画部長は、「内側だけでものを言っているだけではダメだ、なんとか利用者に直接話しかけたい。それも朝日、毎日、読売の読者というより、スポーツ紙好みの人と接触したいと思ったのだが、具体的にどうやっていいか分からない。まず試みにプロダクションにまかせてみたが…」と、成りゆきが気がかりな様子』と、国労本部役員のコメントを取っているのは、毎日新聞時代から国鉄労使双方に食い込んでいた種村さんならではだ。世間の評価を気にする一方、一般市民に広く訴えなければ局面は打開できないと焦る当時の国労本部の様子が生々しく伝わってくる。その上で、『外へ出て語りかけるという姿勢は評価すべきだ。今後は「国鉄を考える会」などという名前より、堂々と国労を前面に押し出して語りかけ、対話の雰囲気を盛りあげるようつとめればよかろう。…そして外へ出る姿勢は、国鉄当局も大いに見習うべきであろう』と、国労の取り組みに一定の評価を与えている。

 『国労の国鉄再建提案』と題した「鉄道ジャーナル」1981年1月号「レイルウェイ・レビュー」では、81年1月27日、国労が当局に申し入れた「国民の国鉄をめざす国鉄の民主的再建に関する提言」を取り上げている。この提言は、(1)総合交通政策について縦割り行政を排するため運輸省を「総合交通省」に再編すること、(2)「総合交通政策審議会」の創設、(3)国鉄の組織について理事会を執行機関とし、意思決定機関を別に作る、(4)有識者、利用者、労働者代表からなる「国鉄経営委員会」の設置――などを提案している。

 それから30年後の今日、(1)は国土交通省として実現、(2)については審議会こそ設置されていないが、2013年に交通政策基本法が成立、その基礎が整えられた。(3)(4)に関しては、有識者、利用者、労働者代表こそ入っていないが、GHQ(連合国軍総司令部)の助言を受けた戦後の改革の中で、国に依存せず自主的に経営方針を決められるよう、意思決定機関として「管理委員会」を設けた帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京メトロ)にそのモデルがある。対して、当時の国鉄は意思決定をすべて政府・運輸省に委ね、また運賃は国有鉄道運賃法に基づき国会で決められていた。国鉄本社は、決定権のない執行機関として政府と労働組合の板挟みになり、何も決められず、拱手傍観しているうちに国鉄解体を招いた。

 「提言」はさらに、割引切符の拡大、新幹線での夜行列車の運転や小荷物輸送なども提案している。国労がそれまでの労働強化反対一辺倒ではなく、利用者の利便性向上につながるなら労働強化も受け入れる内容といえる。種村さんは『国鉄再建法と来年度政府予算案には反対の立場を貫きながら再建策を見直し、具体的な施策を盛り込んでいるところに耳を傾けさすものがある。これまでの国労の主張、当局施策の拡大、様々な国鉄部外からの意見などを集大成したようにみえ、それだけに直ちに実施できるものも多い』とこの提言にも一定の評価を与えている。

 この時の「提言」に含まれている新幹線の小荷物輸送が、後に「レールゴー・サービス」「ひかり直行便」として実現し、一部は現在まで続いている実態を見ると、この提言には先見性があったといえる。このコラムを書いている2014年12月23日の時点で、寝台特急は「カシオペア」「北斗星」「トワイライトエクスプレス」の3列車だけになっているが、朝晩の最も需要の多い時間帯が通勤ラッシュと重なるため、その時間帯を始発・終着とする列車を設定できないことも寝台特急の衰退理由であることは多くの識者が指摘していた。新幹線での夜行列車が実現していれば、通勤ラッシュ時間を気にせず、観光客やビジネスパーソンにとって最も便利な時間帯に列車を設定できたであろう。また、ダイヤに余裕のある新幹線では、途中駅で夜行列車を長時間停車させ、明け方に再び走り出すダイヤとすれば保線時間も確保できるばかりか、乗客もぐっすり眠れ、評判になったに違いなく、「提言」が実現しなかったのは残念だ。

 「提言」の中で、1975年の「スト権スト」に関する当局から国労への損害賠償請求訴訟について、国労が取り下げを要求したことに、当時、自民党の他、同盟・鉄労が反対を表明したことに対しても『自民党はともかく、同盟・鉄労が真正面から反対することになれば、労働者全体にとって好ましい結果を生むとは思えない』として、御用組合に「苦言を呈して」いる。

 当コラム筆者が、皆さんに最もお伝えしておかなければならないのは、「鉄道ジャーナル」1982年5月号「レイルウェイ・レビュー」掲載の「ある国鉄マンの手紙」であろう。国鉄を「分割民営化すべき」とした臨調第4部会報告を受け、種村さんあてに送られてきたある鉄道マンの手紙を紹介している。「ある鉄道マン」は次のように述べている。『(報告には)具体的な内容がまるでなく、…なによりも分割すれば、どのように、なぜ良くなるのかが分からないし、我々職員から見て、本当に臨調案で再建できるのかと疑わしくなります』。

 そして、飲酒運転などの悪慣行が臨調報告でようやく是正される国鉄内の状況を嘆かわしいとしながら、能力のない人をコネで次々と採用してきた当局の採用方針を批判。『ただし、組合の役員などは皆まじめで仕事好きな人ばかりです。ですから、国鉄をダメにしているのは国労ではなく組合運動にも参加せず、できるだけ仕事もせずに適当にしている人間だと思うのです』と綴られている。わけも分からず、突然のように始まった国労攻撃に対する、偽らざる現場の思いを代弁している。

 種村さんは、この鉄道マンに対しても丁寧に返信をしたためている。『当局、労働組合を問わず、組織の中にいる人たちが、第三者機関の半年ちょっとの審議で解体だ民営だと言われては反発するのが当然で、「はい、そうですか」と小さくなっているようでは、いよいよ国鉄はダメだと思っていましたから、(異論噴出の状況を見て)安心しました』と国鉄労働者の誇りをたたえている。

 『臨調部会の調査、審議の過程で、分割・民営という結論が最初からあり、とにかく一度国鉄をつぶしてから考え直せばいいという姿勢のように感じられ、加藤寛部会長のはしゃぎぶりも鼻につき、好感が持てません』。そこでは、私信という安心感もあってか、日ごろ新聞や雑誌の記事を書くときには決して見られないような強い表現も使われており、種村さんが国鉄「解体」に向けてうごめく者たちにいかがわしさを感じている様子が窺える。

 結局、国鉄は各界各層の反対運動にもかかわらず、解体が強行された。「鉄道の将来を考える専門情報誌」を標榜、政府の交通政策に批判的な意見を含め、自由な議論を認めていた「鉄道ジャーナル」も「今後は、国鉄改革の精神を活かした誌面作りをしていきます」と表明、事実上政府に「屈服」した。種村さんからも政治的発言はいつしか消えた。

 だが、種村さんの政治的発言は、突如「復活」する。屈辱的な「四党合意」が国労闘争団員などの奮闘で破たんした後の2004年3月のことだ。「今こそ政治解決を」と題する「レイルウェイ・レビュー」では「種村節」が久しぶりに聞かれた。『JRグループ各社は、東日本が完全民営化を果たしたのをはじめ、長年の不況と、他交通機関との競争にめげず、立派な輸送実績を残してきた。多角的な事業も軌道に乗りつつあるようにみえる。これから、日本を代表する企業として、ひとまわりもふたまわりも大きくなるには、この人の問題を、きちんと解決せねばならない』『JRグループは、いつまでも国鉄とは別法人で関わりはございません、国労等に対する不当労働行為はありませんでしたなどと、きれいごとを言わない方がいい。国鉄-公共企業体日本国有鉄道がなければJRグループが存在していないことは子供でもわかる』と、被解雇者の職場復帰に応じないJR各社を痛烈に批判したのだ。当時、種村さんはすでに一度、くも膜下出血で倒れ「職場復帰」した後だったが、復帰後の文章について、みずから「精彩を欠いている」と認めていたとは思えないほどの鋭い舌鋒だった。

 ●鉄道が好きだからこそ

 自慢するわけではないが、当コラム筆者は一度だけ、種村さんと旅先で出くわしたことがある。2002年7月1日、高知県の第三セクター・土佐くろしお鉄道阿佐線(通称「ごめん・なはり線」)に出かけたときのことだ。阿佐線は、国鉄時代に計画線だったころの路線名称で、ごめん・なはり線の愛称はこの路線が御免~奈半利間であることから付けられた。ちょうどこの日が開業初日。地元出身の漫画家・やなせたかし氏が描いた「アンパンマン」のキャラクターがデザインされた展望車が運転されるとあって沿線には多くの人が詰めかけており、乗客の乗降が困難で定時運行ができないほどの大混雑に見舞われていた。そんな中、種村さんは、事前に鉄道ジャーナル誌上で「ごめん・なはり線開業初日には僕も現地に立ちたいと考えている」と“予告”。種村さんは有言実行の人であり、本気でなければこんなことは書かない。必ず来るという予感があった。

 種村さんも私も、ここへの来訪目的は同じだった。阿佐線が、国鉄再建法施行に伴う旧国鉄「建設中止」路線の復活開業組としては事実上最後の新規開業路線だったからだ。国鉄再建法は、法施行時点で建設途中のものは建設中止、計画段階のものも計画中止としたが、鉄道を求める地元住民に配慮して、私鉄や第三セクターなど、国鉄以外の事業体が開業後の運営を引き受ける場合に限って工事再開を認めていた。阿佐線は、旧国鉄中村線を継承した土佐くろしお鉄道が引き受けを表明、着工された。建設は日本鉄道建設公団が行い、完成後、運行する事業体に引き渡す方式だった。

 梅雨明け間近の蒸し暑い、すし詰めの展望車で、何とか外の見える窓側の位置を確保し、外の景色を見ていた私の目に、途中の和食(わじき)駅でおなじみの顔が飛び込んできた。種村さんだった。ホームから列車を見ながらニコニコ笑い、コンパクトカメラを向けて写真を撮っている。この笑顔――やはり、生まれながらの鉄道好きなのだ。レイルウェイ・ライターは種村さんにとって天職だと改めて思った。本当は鉄道ジャーナルの読者として話がしたかったが、この笑顔を邪魔するのも忍びなく、なによりもすし詰めの列車から降りるとそのまま車内に戻れなくなる恐れもあって断念した。列車は私を乗せたまま、種村さんをホームに残して和食駅を発車した。私が種村さんを生で見た、まさに最初で最後だった。

 レイルウェイ・ライター晩年の種村さんは気の毒としか言いようがなかった。長年の「職場」だった鉄道ジャーナル誌で連載記事を次々と休載に追い込まれるなど、追放同然で同誌を追われた。創刊初期の鉄道ジャーナルにおける固定読者の獲得、拡大は種村さんを抜きにしてはあり得ず、まさに鉄道ジャーナル最大の功労者であった。その功労者に対する晩年のこの仕打ちはいったい何だったのだろうか? 私は種村「信者」ではなかったが、多くの鉄道ジャーナル読者と同様、今なおその仕打ちに全く納得していない。

 もともと鉄道記録映画社は竹島氏が創業した企業で、多くの創業者社長がそうであるような前近代的ワンマン経営だった。1926年の生まれで昭和ひとケタ世代の竹島氏は、80歳を過ぎるころから、朝鮮半島の鉄道を巡る記事で日本軍による慰安婦の強制連行について「その事実はない」と発言するなどして、読者からの厳しい批判を浴びるようになった。明らかに鉄道と無関係なところでの騒動は、鉄道ジャーナルの私物化であり、竹島氏の衰えを感じさせた。鉄道雑誌全体がインターネットの普及によってこの頃から加速度的に衰退していたが、種村さんのいなくなった鉄道ジャーナルの誌面を見て、離れる読者も相次いだ。2006年12月をもって、竹島氏は高齢を理由に編集長を退いたが、時すでに遅かった。2010年には鉄道ジャーナル社は雑誌の販売業務を成美堂出版に委託。ついに販売から手を引いた。今もインターネット上では時折、鉄道ジャーナル社の経営危機が噂されることがある。それがたとえ事実であったとしても、私に同情する気は全くない。編集長の独善的経営と不見識が招いた自業自得だからである。

 私自身、今年6月から1年間、鉄道ジャーナルの「抗議不買」を続けると決めており、今まさに不買運動期間中である。事故が多発するJR北海道の安全問題について、常連執筆者の佐藤信之・亜細亜大学講師が「私鉄ではこれくらい人員が少ないのは当たり前」と放言したからである。貨物列車など、私鉄にはない多くの種類の列車が走っているJRを私鉄と同列に論じてはならないことは、もう20年以上前に、私の「師」でもある立山学さんが「JRの光と影」で明らかにしており、手垢のついた合理化万能論にすぎない。

 佐藤氏がなぜこのような不見識極まりない論調を展開したか、その理由は多言を要しない。彼が教鞭を執る亜細亜大学の学長を、死去するまであの瀬島龍三氏が務めていたと指摘するだけで十分だろう。国労をすり潰し、地獄に送った張本人のもとで長年教鞭を執った佐藤氏に国鉄分割民営化に対する批判的見解を求めることは、八百屋で魚を求めるに等しい。

 ●今後の鉄道趣味界は?

 鉄道ファンに愛された宮脇俊三さんに続き、種村さんも鬼籍に入った。種村さんが初めて名乗ったレイルウェイ・ライターの肩書を持つ人は、岸田法眼さんなど何名か存在する。だがやはり種村さんに比肩する人はいない。かつて鉄道ファン仲間と数名で集まり、「宮脇、種村両氏がこの世を去る時が来たら、自分たちの時代にしたいよね」と居酒屋談義で話したことはある。好きなことを対象に、物書きで生計を立てた種村さんをうらやましく思う半面、自分の意思と無関係に「筆を折られた」晩年の種村さんの悔しさを思うと、同じ物書きとして胸が苦しくなる。新幹線を除いて鉄道自体にいい話題がない今、かつてのような輝きをもって鉄道ライターが迎えられる日はもう二度と来ないのではないか。そんな思いにもとらわれる。

 私が鉄道ファンとして日常的に交流している人も、気づけば片手の指で足りるほどの人数に減ってしまった。最近、自分は本当に鉄道ファンなのだろうか、と思うことがある。このコラムにしても、明らかに読者として意識しているのはファンではなく一般の人であり、一般の人に向けて鉄道を巡る様々な問題を解説するのが使命と思っている。

 先日、東京駅で起きた「限定スイカ」騒ぎを見ても、鉄道会社が作り出したブームに資本主義的に乗っかるような「ファン」とは何なのだろう、という感想以外のものは持ち得なかった。少なくとも、私たちの時代の鉄道ファンは、企業の作り出す一過性のブームなど見向きもせず、一般人が目を向けない機関車の部品の形に違いを見つけて楽しむような人たちだった。楽しみは自分で見つける。自分の頭で考え、自分の足で歩き、「発掘」する。その喜びを忘れ、鉄道会社に与えられた偽物の喜びに有頂天になっているような連中は真のファンにあらず、と今こそ「苦言を呈して」おきたい。

<参考文献・資料>
 本稿執筆に当たっては、「きしゃ汽車記者の30年―レイルウェイ・ライター種村直樹の軌跡―」(2003年、SiGnal)及び「種村直樹のレイルウェイ・レビュー~国鉄激動の15年」(1986年、中央書院)を参考にした。

(黒鉄好・2014年12月23日)

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レイバーコラム「時事寸評」第20回 何もかも史上最低の総選挙が意味するもの

2014-12-15 20:10:39 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人がレイバーネット日本に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 第47回衆院総選挙が終わった。この選挙が史上最低だったことに異論のある人は少ないだろう。選挙の持つ政治的意義、事前のメディア報道量、話題性、市民の関心、投票率……そのすべてが戦後最低レベルの盛り上がりに欠ける選挙だった。正直なところ、棄権しようかと何度も思ったし、選挙後の論評もやめておこうかと何度も思った。だが、こんなつまらない選挙でも、戦後日本政治史の中に位置づけてみると見えてくるものがある。中には、論評もせず看過してしまうにはあまりにも重大すぎるものもあり、あえてこのコラムを書くことにした。

 ●ノスタルジー感じた選挙

 「衆院選 与野党伯仲望む47.9% 本社世論調査」(12/9付け「産経」)――選挙運動期間中、いくつかのメディアにこのような記事が載った。当コラム筆者の住む北海道でも、地元紙「北海道新聞」に同様の記事が掲載された(ただし、北海道新聞では伯仲を望む人はもう少し多く、50%を超えている)。

 この記事を読んで、私はある種の懐かしさとともに感慨を抱いた。総選挙をめぐって新聞紙上に「伯仲」という用語が登場したのはいつ以来だろうか。この10年ほど、総選挙の際にメディアが行う世論調査は「あなたは、どのような形での政権を望みますか(自公中心の政権か、民主党中心の政権か)」という形のものがほとんどだったからだ。

 当コラム筆者(現在、40代)より上の世代にとって、「伯仲」はなじみのある用語であるとともに、ある種の懐かしさを感じる用語でもあるだろう。55年体制下では、総選挙のたびに「自民安定多数と与野党伯仲のどちらを望むか」という形式の質問が行われていたからである。「安定」と「伯仲」のどちらが多数となるかはその時々の政治情勢に左右され、与野党の馴れ合い政治に有権者が飽きたら「安定」へ、自民党政権の暴走が目に余り始めたら「伯仲」へと、世論の針が振れるのが常だった。

 だが、30歳代以下の若い世代にとっては、そもそも伯仲は「はくちゅう」と読む、というところから説明しなければならないのではないだろうか。それほど長い間、この言葉は新聞紙上に登場しなかった。今回、おそらく十数年ぶりに伯仲という言葉が――55年体制当時と同じように――新聞紙上を賑わせるのを見て、私は懐かしさとともに感慨を抱いたのである。「日本は再び、政権交代のできない時代に戻ったのだ」と。私より上の世代に対しては言うまでもないが、「安定か伯仲か」は政権交代がないことを前提にした質問なのだ。

 ●「大義」を問うことに意味はあるか

 安倍政権による「大義なき」衆院解散の時点では、私は、実は野党にもかなり勝機(政権奪取ではなく、与党の勢力を減少させるという意味での勝機)があったと思っている。政権運営は強引で、アベノミクスにもさしたる効果はなく、閣僚の相次ぐ金銭スキャンダルも表に出た。解散の時点では自民党だけで294議席を持ち、公明党と合わせれば改憲の発議も参院の否決を覆す再可決もできる3分の2以上を占めていた。その圧倒的多数を安倍首相が自分たちの都合だけで一方的に手放してくれるというのだ。普通の感覚を持った人間だったら、これをチャンスだと思うはずだし、仮に選挙後も引き続き与党に過半数を占められるのは変わらないとしても、自公が3分の2を割ってくれれば再可決は不可能になる。さらに、2016年の参院選で自公が過半数割れを起こし「ねじれ国会」が再来すれば、政府提出法案は軒並み成立しなくなり、安倍政権は死に体と化す――私にふと、そんなシナリオが思い浮かんだ。しかも、解散直前の世論調査で安倍政権の「支持」がついに「不支持」を上回るというオマケまでついたのだから。

 だが私、そして多くの日本国民にとって想定外だったのは、その程度のこともわからないほど野党が腰抜けでしかも思考停止に陥っていたことだ。彼らはいっせいに「解散に大義がない」などと批判し始めた。だが、解散は首相の専権事項であり、これまでも政権与党の党利党略のために使われてきた。そんな解散に大義など求める方が間違っている。大義とはあるかないかと問うものでもなければないと批判するものでもない。強いて言えば私たちひとりひとりが自分で見いだすものなのだ。

 ●だらしない野党が復活させた一党優位政党制

 今回の選挙を戦後日本政治史にいかに位置づけるべきか。その課題に向き合うなかで、私にひとつの仮説が浮かんだ。今回の総選挙がいわば「第2次55年体制」の始まりを告げる位置にあるのではないか、というものだ。

 もっとも、55年体制とは何かを定義づけしないままこのような議論をするのはいささか無責任であろう。多くの日本人にとって、55年体制とは「資本家階級を代表する自民党が国会議席の過半数を占め、労働者階級の代表、社会党が自民党のほぼ半分の議席数をもって対峙する体制」というのが一般的認識だと思う。この意味での55年体制は、今日、まるで存在しておらず、社会党を引き継いだ社民党は風前の灯火だ。

 だが、55年体制を「自民党が万年与党として政権を半永久的に維持し続ける一党優位政党制」のことだと定義するならば、この意味での55年体制は全く崩壊していないどころか、前回、2012年総選挙で復活の種がまかれ、今回の総選挙で完全に復活したと言うべきだろう。私が今回の選挙について「第2次55年体制」の幕開けとの仮説を提示したのは、このような意味からである。

 少なくとも20世紀では最も顕著な功績を残した政治学者であり、政党制の類型化に新たな世界を切り開いたイタリア人、ジョヴァンニ・サルトーリは、旧ソ連のような完全一党制でもなく、支配政党が支配的地位を制度によって保障されているヘゲモニー政党制(中国共産党やインドネシア・スハルト時代の与党ゴルカルなどがここに分類される)でもなく、完全な政党間の自由競争が保障されていながら、特定政党が万年与党として半永久的に政権を維持し続ける政党制のことを「一党優位政党制」と名付け、インドの国民会議派、メキシコの制度的革命党、高福祉国家を建設したスウェーデンの社会民主労働党などと並んで自民党をここに分類した。また、ある国の政治体制を一党優位政党制と判定するための基準は「第1党と第2党との得票・議席の差が大きく、かつその第1党が連続して3~4期、政権を担当すること」であるとしている(注1)。

 サルトーリは、一党優位政党制と類似したシステムである分極的多党制(各政党間の左右のイデオロギー差が大きく、右の反体制政党から左の反体制政党までが議会に進出しているようなシステム)についても論及している。彼は、このどちらも「用語本来の意味での政権交代のないシステム」として論じており、万年与党から見て左右両方に「レリヴァント(有意)な野党」があるものを分極的多党制であるとする一方、左右どちらか一方にしかレリヴァントな野党が存在しないものを一党優位政党制であるとしている。






 日本の現状がこのどちらに該当するかは、自民党より右に位置する維新の党、次世代の党をレリヴァントな野党と見ることができるかどうかにかかっている。当コラムでそこまで詳しく論述する余裕はないが、サルトーリが示している基準では「レリヴァントな野党」には該当しないから、自民党の右側に野党は存在せず、日本の現状は依然として一党優位政党制といえるだろう。



 一党優位政党制と分極的多党制は、万年与党から見てレリヴァントな野党が左右両側に存在するか、どちらか片側にしか存在しないかを除けば共通特徴を持っているから、分極的多党制に当てはまる特徴はそのまま一党優位政党制にも当てはまる。その上で、サルトーリはその共通特徴を次のように分析している。

 ≪分極的多党制の……特徴は≪無責任野党≫の存在である。……中間政党(ないしは中間勢力の指導的な政党)は政権担当地位を失なう不安にさらされていない。要の位置にあるし、どのような組合せの過半数政権でもバックボーンとして期待されるので、常に政権政党になる宿命を背負っている。他方、極端な政党、つまり、現存システムに反対している政党は常に政権交代の機会から排除されている。平常の状況では、このような政党は政権担当の機会に恵まれない。それ故、このような状況の下では連合政権代案はない。≫

 ≪政権担当の機会が特定の政党に限られているという事実を踏まえれば、分極的多党制に重要な責任野党が欠如している理由、半責任野党、典型的な無責任野党が存在する理由が判ろう。国民に「対応」しなければならないと考える時、すなわち、約束したことを実行に移さなければならないと考える時、野党は責任ある行動をとるであろう。逆に、政権担当を考えなければ、それだけ無責任になるであろう。ところで、分極化した政治システムでは中間勢力の指導的な政党を中心にその同盟軍間で政権交代劇が演じられているのであるが、この政権交代劇には思想的制約が大きく作用する。さらに、中道左派政党、中道右派政党は第二次的な政治責任だけを分有しようとする傾向がある。最後に、政府が不安定であったり、次々とけんか好きな連合政権が交代劇を続けたりすると、誰が何に対して責任があるのか判らなくなってしまう。

 以上の諸点を考慮に入れると、分極的多党制では政権指向政党ですら、責任野党の役割を演じる気にはならないであろう。半責任野党が生み出される。そして、反体制政党は無責任になるよう動機づけられる。いわば永遠の野党であり、政治システムとの一体化を拒絶する≫

 そして、これらの特徴から、分極的多党制(もちろん共通特徴を持つ一党優位政党制にも当てはまる)について、サルトーリは「政治的不公正競争市場」であると結論づけている。与党も野党も固定化した政治システムでは与党も野党も政治的自由競争にさらされていない。それゆえ与党は政権転落の不安を感じることもないから怠惰で不誠実になり、一方の野党には、国民に対して責任を持とうという気概が育たず、自分たちが政権に就いた時のことを想定する必要もないから連合政権代案もなくなる。サルトーリ「現代政党学」の日本語版が刊行されたのは1979年のことであり、彼は、現在の日本の絶望的状況をもう30年以上前に「予言」していたことになる。

 野党がだらしないから一党優位政党制になるのか。それとも逆に一党優位政党制が長期にわたって続くことが野党を堕落させ、政権への意欲を失わせるのか。サルトーリは深く検証していないが私は両方だと思う。野党がだらしないことは、一党優位政党制の結果であるとともに原因でもある。

 付け加えておくと、サルトーリは、分極的多党制や一党優位政党制は政党間のイデオロギー距離が大きい社会で発生し、政策よりもイデオロギーが与野党の対決軸になっているような社会における特に顕著な傾向であると指摘している。イタリアの政治状況については詳しくないので当コラムは論評を差し控えるが、確かに日本に関しては、冷静な政策ごとの議論が成立せず、何を議論していても最後は「反日!」「ネトウヨ!」の罵り合いになっている現状がある。この状況に当分の間、変化はなさそうに思える。

注1)サルトーリ自身も認めているが、この基準も完全なものではない。たとえば英国は二党制に分類されているが、サッチャー政権時代には保守党が連続して3期、18年間政権を担当しており、一党優位政党制の基準を満たすまであと一歩だった。仮にこのような政治体制まで一党優位政党制に含めれば、二党制、多党制がその意味を失ってしまう。

 ●公然と登場した「反議会制民主主義」勢力

 そして、このような不毛な政治的麻痺状態に嫌気がさしたのか、今回の総選挙に関して、日本政治の今後を占う上から見過ごすことのできない出来事があった。ひとつは、イラク戦争に反対し、時の小泉政権によってレバノン大使を解任され外務省を追われた元外交官、天木直人氏がインターネット上で公然と投票ボイコットを訴えたこと(注2)。もうひとつは、「日本未来ネットワーク」なる謎の団体が、政治への不満を表明する方法として白票投票を呼びかけたことである(注3)。注目しなければならないのは、議会制民主主義制度からの「退出」を主張する勢力が、選挙公示期間中に公然と登場したことである。少なくともこうした主張は、これまで居酒屋談義ではあり得ても、公の場で行うべき道徳あるものとはみなされていなかった。ついに来るべきものが来たか、という思いにとらわれる。

 日本未来ネットワークなる団体の正体は、多くの人が突き止めようと動いているが未だに判然としない。投票率が上がると不利になる与党関係者に雇われたIT企業によるステルス作戦という見方や、右翼系宗教団体による「人工芝運動」(草の根の「市民」が担っているものに見せかけた組織による運動)との見方もある。

 当事者としては「うまくやった」つもりかもしれないが、日本未来ネットワークのサイトをよく見ると、白票運動を展開してもなお、10年後に同じ政治家が当選し続けており、彼らの運動が現実政治に何の影響も与えていないことを自分で暴露してしまっている。「問うに落ちず、語るに落ちる」とはまさにこのことだ。

 投票ボイコットはともかく、白票運動が遠くない将来、政治的効果を持つことがあるとしたら、公選法改正によって例えば「第1位の候補者よりも白票のほうが多かった場合、その選挙区では当選者なしとする」というような規定ができたときだろう。その選挙区で当選させるに値する候補者がいないとき、全員を落選させたいとき、いつまでも議員定数削減に取り組まない国会に対し、有権者の力で強制的に議員定数を削減させたいときなどに白票投票が役立つことになるだろう。一票の格差を放置したまま当選した議員に「国民の代表」「選良」などと名乗ってほしくないときに、全選挙区で一定の有権者が「意思表示」して選挙区の全当選を無効にすることもできる(注4)。しかし、そのような法律のない現状では、投票ボイコットも白票も有効投票数を減らし、堅い組織票を持つ自民・公明両党を利するだけである。

注2)安倍解散・総選挙に対する最強の反撃は選挙のボイコットだ(天木直人ブログ)
注3)黙ってないでNOと言おう!(日本未来ネットワーク)
注4)余談だが、選挙区の全当選が無効になっても、衆参ともに、比例区選出議員だけで日本国憲法56条の規定による定足数(3分の1)を上回っているから、国会を開催し議事を行うことができる。このことを考えるなら、いわゆる「一票の格差」を巡る裁判で、最高裁が「国会の混乱」を避けるための「事情判決」として選挙無効の判断を避け続けていることはただの怠慢でしかない。

 ●野党に何を求めるか、そしてどのような野党を育てるべきか

 さて、これまでの論考で、30年以上も前に書かれたサルトーリ「現代政党学」なども参考にしながら、日本政治の特質を見てきた。その中で、一党優位政党制が主に「政策よりもイデオロギー」の政治的土壌と、その原因でもあり結果でもある≪無責任野党≫によって発生していることを突き止めた。こんな言い方をしてはなんだが、自民党は55年体制当時からほとんど何も変わっておらず、昔からこの程度の政党である(せいぜい、昔は今ほど右翼イデオロギー的でも、やり方が露骨でもなかったという程度の話だ)。だとすると、戦後最悪の安倍ファシスト政権をのさばらせてきた原因は、やはり自民党ではなく野党にあるといえる。

 思えば、私たちは自民党や、左翼運動がその考察対象(そしてあるときは連携相手や打倒対象)としてきた日本共産党以外の野党に関心を払ってきただろうか。ほとんど関心を払ってこなかったのではないだろうか。私たちは今こそ「野党とは何か、そして野党に何を求めるべきか」を真剣に議論すべきときだ。関心も持たれず、期待もされず、それでいて「自民党へのチェック機能も果たさず、政権も奪えず、けしからん」と言われても、野党各党にしてみれば「だったら、どうすればいいんだよ」と叫びたい気持ちだろう。

 とはいえ、今、日本の選挙制度は1選挙区から1人しか当選できない小選挙区制だ。分極的多党制と共通特徴を持つ一党優位政党制が政党間のイデオロギー偏差の大きさに由来していることを考慮すると、イデオロギー偏差を埋めないまま、政治的立場が大きく隔たる野党同士が統一候補を擁立すれば「野合」批判を受け、各政党がバラバラに党勢拡大を目指せば共倒れして自民党に負けてしまう。このような八方塞がりの状況で、私たちは野党に何を求めればいいのだろうか。

 政治学者の吉田徹によれば、二大政党制発祥の地、英国では野党は“Her Majesty's official opposition”と呼ばれているそうだ。直訳すれば「女王陛下の公認反対党」の意味であり「王立野党」とでも訳しておけばいいだろう。ジャーナリストのウォルター・バジョットが「『陛下の野党』という言葉を発明した(略)イギリスは、政治の批判を政治そのものにするとともに、政治体制の一部にした最初の国家である」と述べていることを吉田は指摘している(注5)。政権構想とか代案などという前に、まず与党にしっかり反対することが野党の第一の役割である。

 同じ英国の17世紀の政治哲学者、ジェームズ・ハリントンは別の興味深い考察をしている。部屋の中には少女が2人だけいて、他に調停者もなく、2人の間にはケーキがひとつだけ置かれている。2人の少女は犬猿の仲で、とてもではないがケーキを公平に切り分けることなどできそうもない。さて、この2人の少女にケーキを均等に分けさせるにはどうしたらいいか?

 ハリントンはこの問いに対し、こう回答している――「ひとりの少女には自分の好きなようにケーキを切る権限を与えてもよいが、その代わり、もうひとりの少女には、ケーキが切られた後、先にどちらでも好きな方を選び取ってよいことにするのだ」。なるほど、ケーキを切る側の少女は、不公平な切り方をすれば、相手に先に大きい方を取られてしまう。自分の取り分を最大にするには2分の1ずつ均等にするしかないと理解するであろう。権力はきちんと監視され、批判され、チェックされたとき初めて適切に行使されることをケーキに例えたのである。

 権力の行使は、なにも国家だけが行うのではない。2人の少女の例にあるように、人間が2人いればそこには権力関係が生まれ、「政治」が生まれる。ケーキを切ることは、議題を設定したり、議長として議事を進行させたり、議事録を作成したりするのと同じく権力でありその行使である。ケーキを切る側の少女が、もし何者によっても監視されず、批判されず、チェックも受けないとしたら、彼女は自分の取り分が最大になるように切るであろう。もしかすると、もうひとりの少女にはひと切れも渡さず、全部自分が食べてしまうかもしれないのだ。権力を与えたら何をするかわからない者を監視し、批判し、チェックし、ケーキを公平に切らせる――ここに野党の役割がある。

 民主党政権時代の政権運営は、確かに目も当てられないほどのひどさだった。サルトーリが分極的多党制に関して指摘した≪政府が不安定であったり、次々とけんか好きな連合政権が交代劇を続けたりすると、誰が何に対して責任があるのか判らなくなってしまう≫という言葉は、民主党政権に向けられているかのようだ。しかし、そんな民主党でも、反対野党、抵抗野党としてなら、まだまだ存在価値があるのではないだろうか。

 今こそ私たちは、野党に対して「きちんと政権与党をチェックし暴走を止めてほしい。あなたたちにその役割を期待している」という明確なメッセージを発しなければならない。野党各党が自分たちの役割を見失い迷走しているなら、私たちが期待と役割を与えることが必要だ。そして私たち有権者にも、野党を育てる粘り強い覚悟が求められる。

注5)「分裂」と「統一」のジレンマを克服する――野党勢の「オープン・プライマリ」という選択 (吉田徹)

 ●55年体制は再評価できるのでは?

 読者の皆さんに当コラムから問題を出したいと思う。次の2つの選択肢のうちから1つを選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを選ぶだろうか。

 (1)ケーキを切る相手側が自由な権力を持ち、どのような切り方をされてもあなたは文句を言えない立場にあるが、いつか自分も切る側に回れるかもしれない(が、なかなかそのときがやってこない)

 (2)自分がケーキを切る側に回ることは永遠にできないが、その代わり、切る側を監視し、チェックする権限を手に入れることで、毎回必ずケーキを半分食べることができる

 それでも私は(1)がいい、という人もいるだろう。しかし(2)を選ぶ人も多くいるのではないかと思う。(1)は現状の日本政治の例えであり、(2)は55年体制当時の例えである。政権交代の可能性が全くなかった55年体制当時のほうが、今よりも豊かで幸せな暮らしをできた理由を、このように説明すれば納得していただけるだろう。

 与野党馴れ合いと国対政治がはびこり、唾棄すべき存在として一度は完全に破壊された55年体制だが、最近私は再評価すべきではないかと考えるようになった。現在の日本政治がイデオロギー偏差の大きさを基盤とし、責任野党が育ちにくいシステムであること、責任野党が存在しない中で再び55年体制時代を思わせる一党優位政党制が完全復活を遂げつつあること、そして55年体制に代わる政治体制が過去20年以上にわたって模索されながら、未だその輪郭さえ現さないことを考えるならば、自民党政権をしっかりと監視し、チェックできる健全野党の育成を通じて「ケーキを半分に切らせること」が私たちの果たすべき課題である(この課題さえ実現できれば、政権交代など別になくてもかまわない)。

 ●暗闇に一筋の光明~日本共産党躍進と沖縄

 苦しいことばかりの総選挙だったが、暗闇に一筋の光明を見たのは日本共産党の躍進と沖縄(全4選挙区)での自民全滅だ。日本共産党は、改選前8議席から倍増以上の大躍進を見せ、当コラム執筆時点(15日午前0時)では20議席をもうかがう勢いだ。先の参院選で11議席に躍進した共産党は、衆参あわせて30人近い議員を抱えることになる。政権選択が叫ばれていた当時の低迷を思えば信じられないほどだが、安倍政権批判票を一手に引き受けての勝利である。質問主意書の数など、無所属議員が頑張っているのに比べれば、共産党議員はいま一歩の水準だ。今後は国民の期待を背に、もっと自民党政権と対峙し、活発に論戦を挑んでほしい。

 沖縄では自民党は1~4区の全区で基地反対派の統一候補に敗北した。統一候補の所属も共産、社民、生活、元自民(翁長派)と多岐にわたり、まさにオール沖縄の多様性を示している。

 2007年6月、沖縄戦における「集団自決」を巡って、「日本軍が関与した」とする教科書の記述に文部科学省から削除を求める検定意見が付けられたことをきっかけに、沖縄で抗議運動が活発化。同年6月22日、沖縄県議会で検定意見の撤回を求める意見書が全会一致で採択されるが、このとき、採択に向けて重要な役割を果たしたのが、今回、沖縄4区で自民党候補を破って当選した仲里利信氏だ。仲里沖縄県議会議長(自民、当時)は、沖縄戦当時8歳。「ガマの中に隠れていたら日本兵が来て、自決用に毒おにぎりを渡された」と証言したことが決め手となって、自民党も賛成して決議案が採択された。仲里議長の証言を聞いた共産党県議は涙を流したという。今思えば、この頃からオール沖縄の種は地道に、しかし確実にまかれていたのだ。

 集団自決を歴史から抹殺し、なかったことにしようとしたのは当時の第1次安倍政権だ。その第1次安倍政権の前に立ちはだかったのが仲里さんである。その仲里さんが、今また第2次安倍政権による基地押しつけの前に立ちはだかっている。沖縄の、保守勢力も巻き込んだ反基地の流れが後退することはもはやない。

 ●戦後日本政治史の中で

 今回の総選挙の結果を一言で要約すれば、離合集散ばかりが華やかだった「第三極」が最終的に崩壊したこと、そして55年体制崩壊以降の20年にわたって繰り広げられてきた「政権交代可能な保守2大政党体制」に向けての壮大な実験に「失敗」の最終結論が出されたという点にある。その意味では、どんなに盛り上がりに欠けたとしてもやはり歴史的な選挙だったと思う。「二大政党制定着せず」「55年体制の再建が日本政治にとってベストではないとしても、ベターの選択」というのが当コラムの最終結論であったことにほろ苦さを感じる。しかし、私たちが自民党と対峙する道はそこからしか開かれないことも事実なのだ。

 最後に、大勝した自民党とどのように対峙すべきかについて述べ、当コラムを締めくくろう。サルトーリが述べたように、一党優位政党制や分極的多党制は「政治的不公正競争市場」の産物なのだから、自民が大勝したからといって気落ちする必要はない。選んだ覚えもないのに独占市場の中で勝手に使わせられている電力会社と同じであり、使わせられている以上、私たちには批判する権利がある。

 オリンピックやワールドカップのように、4年に1度の選挙のときだけお祭り騒ぎをし、負けたら「やっぱりダメだったね」とあきらめ、日常生活に帰って行くという態度では未来を切り開くことはできない。「お前など選んだ覚えもないし、独占市場での勝利は真の勝利ではないのだから調子に乗るな」とせいぜい批判し、監視し、チェックに努めよう。私たちの敵、安倍晋三は、2012年の選挙が史上最低の投票率となる中で首相になった男だ。「史上最も少ない国民からしか選ばれなかった男」が、今また政治的不公正競争市場の中で「選ばれた」からといって何を恐れる必要があろう。大義は私たちの側にある。恐れず、しかし侮らず、堂々と天下の大道を進もう。

 <参考文献>
 本稿執筆に当たっては、「現代政党学~政党システム論の分析枠組み」(ジョヴァンニ・サルトーリ著、岡沢憲芙・川野秀之訳、早稲田大学出版部、1979年)を参考にした。

(黒鉄好・2014年12月15日)

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「大義なき」(?)解散総選挙に思う

2014-12-08 22:15:38 | その他社会・時事
大義がないと散々批判された衆院総選挙もいよいよ後半戦に入った。すっかり安倍政権の「応援団」と化したメディアは自民大勝、300議席とうるさくて仕方ない。2012年の解散総選挙も確かこんな感じだったな、と強烈なデジャヴ(既視感)に襲われる。

メディア報道が有権者の投票行動に実際に影響を与える、いわゆる「アナウンス効果」には、有利と報道された方がさらに有利になるバンドワゴン(勝ち馬乗り)効果と、その逆に不利と言われた方が巻き返すアンダードッグ(判官びいき)効果があると言われる。だが、アンダードッグ効果が国政選挙で確認されたのは98年、橋本龍太郎政権下で自民党が有利と言われながら敗北したのが最後だと思う。当時は小選挙区制が導入されてまだ2年で、日本社会にまだ中選挙区制の残り香が漂っていた時代だった。テカテカに塗りたくったポマードベッチョリの髪を光らせながら眼鏡を外す動作をしている橋本首相の横に「首相辞任を示唆 「すべて私の責任」」と大書された新聞の見出しは、今なお鮮烈に記憶の中にある。

だが、小選挙区制が人々の意識の中に定着して以降、国政レベルの選挙でアンダードッグ効果が確認された例はなく、ここ10年ほどはバンドワゴン効果ばかりが確認されている。メディアのほうもそれをわかっていて、あえて「自民大勝」報道で世論を誘導しているとしか思えない。安倍首相とメディアが毎週会食している「買収効果」は抜群のようだ。政党機関紙を除く、一般商業紙での選挙予測報道は、そろそろ禁止を含めて検討すべき時ではないか。

もっとも、そんなことを書きながら、予測報道禁止くらいではすでにどうしようもできないほど「自民1強」時代はしばらく続くのではないかとの思いも私にはある。職場などで雑談をしていても、自民がいいなどと言っている人はなく、聞こえてくるのは「入れるところがない」「どこに投票したらいいかわからない」の声ばかり。要するに野党がダメすぎるのだ。

野党がダメすぎるのは何も今に始まったことではなく、古くは55年体制当時も同じだった。メディアが世論調査で「西側先進国の中で日本だけ政権交代がない理由は何だと思いますか」との質問をすると、いつも「野党がだらしがないから」が不動の1位だった。イタリアの政治学者、サルトーリは日本の政治を「一党優位政党制」に分類し、イタリアは「分極的多党制」に分類しているが、一党優位政党制と分極的多党制はどちらも用語本来の意味での政権交代のない政治体制だ(ただし、分極的多党制の場合、常に政権を追われることのない「要の政党」にとって連立相手である周辺政党にはしばしば交代がある。イタリアの場合「要の政党」は長くキリスト教民主党であったが、同党の連立相手はしばしば交代した。なお、キリスト教民主党はすでに解党している)。

野党がだらしないから一党優位政党制になるのか。それとも逆に一党優位政党制が長期にわたって続くことが野党を堕落させ、政権への意欲を失わせるのか。サルトーリは深く検証していないが私は両方だと思う。野党がだらしないことは、一党優位政党制の結果であるとともに原因でもある。サルトーリは、政権交代のないことが常態化すると、与党は緊張感を欠いて平気で公約を反故にし、野党は政権を意識しなくてよいから「満期になっても果たされることのない空手形」を平気で切る(別の言い方をすれば、実現不可能な理想的な公約を平気で掲げる)ようになる、としている。つまり与党サイドからも野党サイドからも「守られる公約」が出てこなくなる。公約の価値が低下する「公約のインフレ」が起きるのである。サルトーリはこのような状態を「金色と偽って黄色のペンキを売りつける詐欺市場」に例え、政治における「不公正競争市場」「非競争市場」と呼んだ。

サルトーリが「現代政党学」の日本語版を発表したのは1977年。つまり彼は、「選択肢がない」と言われる現在の日本の政治状況を、40年近くも前に予言していたのである。私が最近、サルトーリに傾倒し、彼を慧眼だと思うのは、こうした未来を予測する確かな眼を持っているからである。

そして、一党優位政党制や分極的多党制は、与野党が政策ではなくイデオロギーで対決するような政治状況のある国に発生する、とサルトーリは指摘する。日本やイタリアは与野党の対決軸が政策ではなくイデオロギーになっている、ということができる。

イタリアの政治状況については当ブログは詳しくないが、日本の場合、確かに政治を巡って個別の政策ごとの議論が成立せず、何を議論していても最後は「反日!」「ネトウヨ!」の罵りあいになっている状況を見ると、政策ではなくイデオロギーが対決軸になっていることは間違いない。東西冷戦はヨーロッパではもう四半世紀も前に終わり、今さらイデオロギーでもないはずなのに、ネット時代になってむしろ日本国内の政治状況は以前より一層イデオロギー的になったようにすら見える。そして、国民の政治意識が左右対立しかない以上、現実の政党配置もそれを反映したものにしかなりようがない。

サルトーリは、左右両極が伸長し、中道勢力が没落することを「遠心化」と呼ぶ一方、その逆を「求心化」と呼んだが、日本におけるここ数回の選挙で示されているのは明らかな「遠心化」である。民主党が左右両極から攻撃され選挙のたびに勢力を減らす一方、自民党と共産党が伸長するここ数年の状況がそれを示している。サルトーリは、遠心化は民主主義にとって好ましいことではなく、いずれはワイマール体制末期のドイツやアジェンデ民主政権末期のチリのような状況に陥ると不気味な警告を発している。ナチスと共産党しか選択肢がなかったワイマール末期のドイツ、アジェンデ左翼政権がピノチェト将軍の軍事クーデターで暴力的に倒される直前のチリ…これが日本の将来の暗示だとしたら、遠心化は確かにまずい兆候だ。

ワイマール末期のドイツとアジェンデ左翼政権末期のチリ。今の日本がどちらに似ているかと問われればドイツだろう。第1次大戦後、ドイツに生まれたワイマール憲法は、当時、ヨーロッパで最も民主的と言われた。だが、あまりにも重すぎる第1次大戦の賠償のため、ドイツは財政赤字とインフレが制御不能の状態に陥る。その社会不安が、ナチスと共産党を伸長させる「遠心化」を生み出し、やがてナチスの政権奪取につながった。政権奪取すると、ナチスはワイマール憲法を停止し、ユダヤ人を虐殺、第2次大戦に入っていく。ドイツ国民による「正当な、民主主義的選挙」の結果である。

安倍政権がこのまま長期政権となった場合、同じことが起きないと誰が言えるだろうか。自民党と共産党しか選択肢がなく、仕方なく国民が自民党を選ぶ「正当な、民主主義的選挙」の結果、改憲され、「三国人」はガス室へと送られる――そんな未来を拒否するためには、選択肢がなくても投票に行くしかない。選択肢がないならば、ないなりに拒否の意思表示をしなければならない。

こんな絶望的な事態にいったい誰がしたのか。こんな言い方をしてはなんだが、自民党は昔から何も変わっていない。55年体制当時からこの程度の政党である――ただ、昔はやり方が今ほど露骨でなかっただけだ。そうすると、やはり責任は野党にある。繰り返すが、一党優位政党制は、だらしない野党が存在することの結果であるとともに原因でもあるのだ。

当ブログは、「大義なき」衆院解散の時点では、野党にかなり勝機があったと思う。政権運営は強引で、アベノミクスにもさしたる効果はなく、閣僚の相次ぐ金銭スキャンダルも表に出た。解散の時点では自民党だけで294議席を持ち、公明党と合わせれば衆院の3分の2以上を占め、改憲の発議も参院の否決を覆す再可決も可能な圧倒的多数を安倍首相が自分たちの都合で一方的に手放してくれるというのだ。普通の感覚を持った人間だったら、これをチャンスだと思うはずだし、仮に引き続き過半数を占められるのは変わらないとしても、自公が3分の2を割ってくれれば再可決は不可能になり、2016年の参院選で自公が過半数割れでも起こそうものなら、政府提出法案は軒並み成立しなくなり、安倍政権は死に体と化す――当ブログに、ふと、そんなシナリオが思い浮かんだ。これをチャンスと言わずしてなんと言うのだろう。しかも、解散直前の世論調査で安倍政権の「支持」がついに「不支持」を上回るというオマケまでついたのだから。

だが、当ブログにとって(そして多くの日本国民にとっても同じだろう)想定外だったのは、その程度のこともわからないほど野党が腰抜けでしかも思考停止に陥っていたことだ。彼らはいっせいに「解散に大義がない」などと批判し始めた。だが、解散は首相の専権事項であり、これまでも政権与党の党利党略のために使われてきた。そんな「解散」に大義など求める方が間違っている。「大義」とはあるかないかと問うものでもなければないと批判するものでもない。強いて言えば自分たちで見いだすものなのだ。

選挙には与党にも野党にも争点にしたいこととされたくないことがある。自分たちにとって有利な争点を争点として認識させる一方、争点にされたくないことを巧みに争点から外す力を仮に「争点設定権」と呼ぶならば、それを自由自在に行使できる方が勝利するということになる。沖縄県知事選で、基地反対派の翁長雄志氏が勝利することができたのは、選挙時における最大の「権力」である「争点設定権」を基地に反対する市民が自由に行使できる状況が生まれたからである。自民党が最も争点にされたくなかった「基地」が争点になり、自民党が最も争点にしたかった「復興」は雲散霧消してしまった。「みなさまのNHK」改め「安倍さまの犬HK」と化した公共放送ですら、最大の争点が「基地」であり「県民が普天間基地の辺野古への移設を拒否」したと認めざるを得ないほど、沖縄県民は争点設定権という権力を自由自在に行使したのである。

先月の沖縄県知事選が画期的だったのは、単に「オール沖縄」が成立し、保革の枠組みを超えた共闘が成立したことだけではない。県民の側が自由自在に争点設定権を行使できる状況を作り出した点こそ最も画期的なのだ。逆に、福島県知事選で敗北したのは、既成政党側にいいように争点設定権を行使され、「復興」を争点にされてしまったからである。他の争点すべてを金の力で雲散霧消させてしまう「復興」は権力者・支配者にとって便利な言葉だとつくづく思う(加害者がすべての被害を雲散霧消させ、責任転嫁できる「風評被害」という言葉に匹敵する便利さだ)。

首相の衆院解散権が党利党略で行使されるという当たり前の現実すら、野党は理解できなかった。ほかでもない、まさにこれこそ当ブログにとって最大の誤算だった。政権を担当したことがなく、解散権を自由自在に使いこなしたこともないから理解できなかった、などというのは言い訳にならない。そのせいで野党は何度も痛い目に遭ってきたはずだからだ。少なくとも、与党である自民党は、いつ解散がやってきてもいいように「常在戦場」の心構えを持っている。自民党が、自分たちに最大限有利な議席構成を自分から手放すなんてあり得ない――確かにそうかもしれない。しかし小泉元首相が在任中にいみじくも語ったように、政界には「まさかの坂」がある。解散なんてあるわけがないと見くびり、常在戦場の心構えを持たず、日々を漫然と過ごしてきた民主党、そして「第三極」の各党は、戦わずして敗北が決定づけられようとしている。

もうひとつ、自民党と共産党が有利な闘いを繰り広げているのは、選挙がないときでも市民の中に入り、日常的に活動をしているからである。業界団体と握手する自民党、ブラック企業と戦う労働組合を助け、労使交渉で未払い賃金をもぎ取る共産党――戦う相手も手法も異なるが、この両党は選挙があってもなくても日常的に活動し、人々の認知を得ようとしてきた。結局のところ、最後に笑うのはそのような政党なのだ。日頃は漫然と過ごして何もせず、離合集散ばかり繰り返した挙げ句、選挙が近づくと「ご支援をお願いします」などという政党にいったい誰が期待するだろうか。

共産党以外の野党には、もう当ブログは用はない。それでは自民の一党独裁だという人もいるかもしれないが、自民一党独裁なんて今に始まったことではなく、55年体制の頃から見慣れた光景だ。それに、改憲発議と再可決のできる3分の2を超えてしまえば、後はもう8割でも9割でもたいした違いはない。自民党はせいぜいがんばって400議席でも勝手に取ればいい。仮に国会で与党が1000議席持っていたとしても、首相官邸前で100万人のデモが起きれば政権は倒れるだろう。政治とはそういうものだ。

当ブログは、民意の全く反映しない国会を当てにせず、100万人のデモを目指して引き続き闘っていく。そして、自民が1000議席になろうが恐れることはないと思っている。サルトーリが指摘したように、一党優位政党制は非競争市場の産物なのだから、自民党は正当な自由競争の結果として選ばれたわけではない。選んだ覚えもないのに勝手に使わせられている電力会社のようなものだ。選んだ覚えはなくても、電力会社と同様、使わせられている以上、使っている私たちは不満があれば批判する権利がある。せいぜい批判し、監視し、チェックしながら自民党をすり切れるまで使い倒し、そのうち沖縄のように奪い取る。政権交代が不可能な日本で政治を変えるにはその方法しかなく、自民党を弱体化させ、奪い取る長期戦略を描く。私たち日本の市民に課せられた2015年の課題である。

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