東京電力旧経営陣の刑事訴訟のきっかけとなった告訴・告発団体「福島原発告訴団」及び強制起訴後の刑事訴訟支援団体「福島原発刑事訴訟支援団」の最重要支援者である福島県郡山市のフリーライター人見やよいさんが、かねてよりがん闘病中のところ、薬石効なく、逝去されました。電話連絡を受けたのは27日早朝のことです。
人見さんは、福島県民のみに対象を絞った東京電力の第1次告訴から福島原発告訴団運動に関わりました。この間、全世界に対象を広げた第2次告訴から検察審査会による2度の起訴相当判決、強制起訴を経て東京地裁での裁判傍聴に至るまで、多大な貢献をしていただきました。
福島原発刑事訴訟支援団ホームページに掲載されている「
東電刑事裁判傍聴handbook」も人見さんが作成されたものです。イラストを交え、東電刑事裁判のポイントがわかりやすく整理されたハンドブックは関係者に大変好評でした。
福島で原発事故後、反原発運動に取り組む女性同士で集まる場では、「やいちゃん」と呼ばれ、親しまれました。ご本人のブログ「やいちゃんの毎日」は最近ではツイート自動投稿ブログ状態になっていましたが、地元・郡山市のタウン情報誌など多くの媒体に寄稿するなどによりライターとして生活してきました。得意の文章力・イラスト力を活かし、命の尽きる最後の瞬間まで情報発信を続けたことに、当ブログからも改めて謝意を表するとともに、お疲れ様と申し上げたいと思います。
東電刑事裁判の2019年9月の判決は、勝俣恒久・元東電会長ら3経営陣全員を無罪とする不当なものでした。検察官役の指定弁護士が、この判決がそのまま確定してしまうことは著しく正義に反する、との控訴趣意書をもって東京高裁に控訴。この11月2日に、控訴審の初公判が開かれるタイミングでの逝去となりました。東京地裁前で、集会の司会を元気に務める「やいちゃん」の姿がもう二度と見られないのだと思うと、改めて大きな悲しみが襲ってくるのを感じます。
「やいちゃん」との出会いは原発事故直後のことだったと記憶します。ファッションセンスがよく、お洒落で元気。当初、当ブログ管理人は自分より年下だと思っていたほどです。後に、自分より10歳も年上と聞いたとき、あまりの衝撃に思わず力が抜け、その場に座り込んでしまったのが、昨日のことのように思い出されます。
福島の反原発運動界隈でも一番の「元気印」だった「やいちゃん」に病魔が忍び寄っていることを知ったのは、2018年頃のことだったと思います。当ブログ管理人自身も2016年に胃がんが発覚、胃を全摘出する中でお互い気をつけようね、と言い合ったことも思い出されます。胃の摘出後、体調にほぼ問題なく推移してきた当ブログ管理人と裏腹に、「やいちゃん」の病状はどんどん重くなっていきました。抗がん剤がまったく効かず、放射線治療に切り替えましたが、「原発事故による放射線被曝に反対してきた私が何で放射線治療を受けなければならないの」と抵抗したと聞いています。そんな彼女を励ますために、「がんを克服し、長生きして、みんなで日本の原発最後の日を見届けようね」と言うと「そうだね」と言って笑った「やいちゃん」。約束は結局、果たされないまま終わりました。
「やいちゃん」が生きた原発事故後の郡山市は、チェルノブイリ並みの汚染が全域にわたって広がる厳しい状況でした。当ブログ管理人は、当然、チェルノブイリでの前例に倣い、福島市や郡山市は強制避難になるものと思っていました。しかし実際には日本政府は避難政策をどんなに進言されても頑なに拒み、汚染地に人を残す政策にこだわり続けました。その結果がこれです。日本政府の非人道的棄民政策は、多くの福島県民を死に追いやっているのです。
それでも、福島に残って反原発運動を続ける多くの人々にとって「やいちゃん」が元気であることがある種の希望になっていました。彼女だけはどんなことがあっても生き延びるだろう、という根拠がないけれど淡い希望が当ブログ管理人にもあったことは事実です。原発災害と放射能被害に対する意識も高く、知識量も豊富な彼女がもし生き延びられないとしたら、他の郡山市民の誰も生き延びられないのではないかという思いがありました。彼女「でさえ」生き延びられないのが福島、そして郡山市の現実だとするなら、今後、残された福島県民、郡山市民にはおそらく、もっと厳しい未来が待ち受けていると思います。
「がんを克服し、長生きして、みんなで日本の原発最後の日を見届けようね」という約束を果たせないまま旅立った「やいちゃん」。当ブログ管理人は、「やいちゃん」の遺志を受け継いで、必ず自分の命あるうちに原発を1基残らず滅ぼし去る決意です。
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以下の文章は、当ブログ管理人にとって反原発運動の戦友だった「やいちゃん」の死を受けて、原発避難者が参加している某メーリングリスト向けに投稿したものです。以下、再掲します。
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福島事故から早いもので10年ですが、このひとつの「節目」(と私たちはまったく思っていませんが)を象徴するかのように、10年間、思いをひとつに福島現地にとどまって闘ってきた方の訃報を耳にする機会が最近、増えました。
私が見知っている方だけでも、すでに今年に入り3人。
そして今朝早く、4人目の方の訃報に接しました。
福島原発告訴団、福島原発刑事訴訟支援団の最重要支援者で、郡山市在住のフリーライター人見やよいさん。ご存じの方もいると思います。
がんで闘病生活が続いていましたが、今年まだ還暦を迎えたばかりの、あまりに早すぎる別れです。
恐るべきことに、今年に入って訃報に接した4名の方は、全員が70歳に達せず、60歳代でのご逝去です。全員、あまりにも早すぎます。
過去、私は原発問題で何度も講演会の講師などを務めてきました。
その中で「避難生活が経済的に苦しくて疲れた。もう福島に戻りたい」とか、逆に「もう●年経っていますが、今からの避難でも意味があると思いますか」という質問を何度も受けてきました。
そのたびに私は「今ははっきりとはわからないけれど、事故から10年くらい経てば、避難した人のほうが正しかったとわかる日がはっきり来る。それも悪夢のような恐ろしい形で。だから、避難生活がどんなに経済的に苦しくても福島には絶対に帰ってはならないし、放射線被曝量は生涯累計なので、避難は時間が経ってからでもできるならしたほうがいい」と答えてきました。
この点は過去10年、まったくぶれていないし、考えがほんの一瞬といえども揺らいだことはありません。なぜならそれは、チェルノブイリで事故後に起きたことを見れば明らかだからです。
ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態(イワン・ゴドレフスキー/ウクライナ科学アカデミー)
私は、過去の講演会でこの資料を基に話をしたことがあります。
福島では事故の影響がはっきりしていない時期だったので、「先行事例」であるチェルノブイリの例を基に話すのがいいと考えてきたからです。
この資料を作成したイワン・ゴドレフスキー氏はウクライナ科学アカデミーの研究者です。ウクライナのような旧共産圏では、科学アカデミーは政府系研究機関で、どんなに成績優秀でも、共産党員の資格がなければ門も叩けないと言われてきました。
そのような権威ある政府系研究機関の研究報告書が、このような形で警鐘を乱打している事実があります。
この資料の終わりから3ページ目、「図9 1000人当り死亡率の年齢別グループ内訳(チェルノブイリ事故の前と後)」を見ると、チェルノブイリ事故(1986年)前の1984-1985年と事故5~10年後の1991-1996年では、60歳以下の若年層では死亡率はあまり変わらないものの、60歳以上では大きな差があり、特に65-69歳の年齢層では2倍もの差があります。
原発事故の被害では、若年層の甲状腺がんばかりが騒がれており、日本政府は意図的に人々の意識をそこに引きつけようとしていますが、本当の被害はむしろ高齢者の超過死亡という形で起きていることがはっきり示されています。
「高齢者は避難なんてしても仕方がない。それより早く避難解除して、ふるさとに帰らせてやったほうがいい」などという言説がまったくのデタラメであることがわかります。高齢者でも汚染地に帰る選択などしてはならないのです。
人見やよいさんを初め、今も福島に残って活動をしているみなさんは、それを自分の人生だと見定め、自分の意思で残った方がほとんどです。その人の人生であり、部外者がそれに口を挟める余地は最近ではほとんどないことから、私も事故後5年目くらいからは、避難を呼びかけるのは「要らぬお節介」になりかねないと、本人の意思を(仕方なく)尊重してきました。
しかし、10年目を迎えた今年あたりから、事故の影響がはっきり目に見える形になってきたな、と身震いする思いです。「逃げるは恥だが役に立つ」は真実です。
今、公務員宿舎から2倍家賃を請求され困難に直面している人を支える活動をしている人も、このMLにはいると思います。どんなに経済的に苦しくとも、困難に直面していても、命より大切にすべき価値観などありません。やはり避難はすべきだし、継続すべきです。
もうひとつお伝えしたいのは、郡山市の汚染状況です。
私は2013年3月まで、事故後の2年間を福島県西郷村で過ごしました。
外出時は常にマスク着用、水道水は飲まず、地元産のものは食べないという生活を続けてきました。
郡山市の汚染状況については「ほぼ全域がチェルノブイリ並み」という厳しい認識を持ち、不要不急の理由で郡山市に立ち寄ることは避けてきました。福島市は、事故直後3度出かけ、3回とも後日体調不良に見舞われたことから、「もはや人間の住む場所ではない」と判断し、その後一度も立ち入っていません。
一方、郡山市では「行くたびに体調不良」という極端な状況でなかったため、福島市に立ち入るのを避けるようになってからもやむを得ない事情で何度か足を運びました。汚染状況については、福島市渡利、大波などの極端な地域(避難指示区域と実質ほとんど変わらず)を見てきたせいか、福島市のほうが数倍、激しいという認識でいました。
しかし、福島市は実際には渡利や大波などの地域がある一方で、西部の土湯温泉など、子どもたちを数週間から1か月スパンで短期保養に出そうと思えば出せる程度には汚染の少ない地域も存在します。汚染状況はかなり「まだら状態」というのが実際のところです。
しかし郡山市はほぼ全域が高濃度汚染され、ほとんど逃げ場がないという状況で事故直後の数年間を過ごしました。この状況は現在もほとんど変わっていません。郡山市の汚染状態は、福島時代に私が認識していたよりもはるかに厳しい状態だったのかもしれないと、最近の相次ぐ訃報に接して、改めて感じています。
10年経った今、すでにほとんどの人が生き方を固めている中で、避難の呼びかけなどしてももう意味がない時期に来ていると私は思っていました。しかし、人見やよいさんのような意識、知識量いずれも高い方ですら生き延びられないという現実を前にして、いかに放射能の前に人間は無力かを改めて思い知らされ、打ちのめされています。
改めてみなさんにお知らせします。
1.いま避難をしている方は、絶対に継続すべきです。
2.今から避難を考えている方は、いまからでも遅くないので実行すべきです。
3.いま帰還を考えている方は、絶対に中止すべきです。
当たり前すぎるほど当たり前のことですが、最も心強い戦友を失ったいま、この原点に改めて立ち返るときだと思い、お知らせすることにしました。私がこんな当たり前すぎることをここで再度訴えなければならないほど、10年経っても福島現地の状況が深刻だという認識を、みなさんが改めて持っていただけることを望みます。