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ゾルゲ事件・総合研究

2002-09-29 23:35:54 | その他社会・時事
去る2002年9月7日(土)、管理人は講演会「激動の20世紀とゾルゲ事件~いま明かされるゾルゲ事件の新事実」(於・文京区民センター)に参加してきた。ここでは、早速その内容についてレポートするとともに、これまでの研究の進展状況、過去のシンポジウムの内容なども合わせてご紹介することにしたい。

1.ゾルゲ事件とは~発生から摘発まで

太平洋戦争前夜の日本を揺るがせた国際スパイ事件。歴史上数多いスパイ事件の中でもその影響力の大きさは空前絶後であり、世界の歴史を変えたスパイ事件であるとの評価は現在でも不動のものである。

当時日本の陸海軍内部では、太平洋戦争の方針を巡って「北方進出論」(注1)を唱える陸軍と、「南方進出論」(注2)を唱える海軍とが対立していた。この問題に決断を下すため、政府は御前会議(注3)を開催、陸軍の反対を抑え、最終的に南方進出の道を選んだ。

一方、イギリスを除くヨーロッパ全土を支配下に収めたナチス・ドイツは、その余勢を駆ってソ連へも侵略を開始、ヨーロッパでは独ソ戦に突入する。この戦争で、ソ連はウラル山脈西部のほとんどの地域を失い、ドイツ軍は首都モスクワに迫っていた。スターリンは、三国同盟を結び強固な関係にあった枢軸国・・・ドイツと日本に、東西から挟み撃ちされる恐怖に怯えるようになる。

その時、スターリンの元に、リヒアルト・ゾルゲからの電報が届く。ゾルゲは、ソ連に指導されたコミンテルン(注4)の密命により、ドイツの新聞「フランクフルター・ツァイトゥンク」紙の記者を装って日本に潜入したスパイだった。

「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」・・・ゾルゲはこの情報を、親しくしていた満鉄(南満州鉄道)調査部嘱託・尾崎秀実(おざき・ほつみ、注5)から入手したのである。それは、超一級の情報だった。

ウラル山脈に舞台を移した独ソ戦で、当時絶望的な戦いを強いられていたソ連はこの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた兵力をウラル戦線に移動させることができた。やがて1942年、冬の訪れとともにソ連はウラル山脈の麓、スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させる。これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたとされている。

一方、日本では特高警察当局によりゾルゲ・尾崎のスパイ行為の全容が解明され、昭和16(1941)年10月、2人は逮捕。開戦前夜ゆえに「国民の士気に影響する」との理由で逮捕の情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表。2人は日本の敗色が濃くなる中、昭和19(1944)年11月7日--ソ連にとって記念すべきロシア革命の日--処刑台の露と消えた。

これが、ゾルゲ事件の全容である。

2.これまでの経過~伊藤律「端緒説」の登場とその影響

この事件の摘発にあたっては、当初有力な説として提示されたのが伊藤律端緒説であった。伊藤律は、戦前からの日本共産党活動家であったが、治安維持法違反で特高警察に逮捕される。この際、伊藤律が特高警察官・伊藤猛虎の取り調べに対し「アメリカ帰りのおばさん」(注6)について自供、ついで「アメリカ帰りのおばさん」こと北林トモの自供で沖縄出身の画家・宮城与徳が逮捕され、宮城の自供からゾルゲ・尾崎グループの摘発に至った、というのがこの説の骨子である。尾崎秀樹(おざき・ほつき、注5参照)によって唱えられ、松本清張もまた「革命を売る男・伊藤律」の中で補強、長年にわたってゾルゲ事件の「定説」として信じられてきた。

この「伊藤律端緒説」は戦後に入ってから意外なところに影響を与えていく。敗戦に伴う治安維持法廃止により合法となった日本共産党は直ちに組織再建を図るが、この中で伊藤律も釈放、その豊かな能力を戦後すぐ書記長となった徳田球一に認められ、戦前「転向」歴があるにもかかわらず一気に政治局員(注7)まで駆け上る。ところが、朝鮮戦争~中国革命を経て日本に共産主義浸透の危険が迫ると、GHQ当局は占領政策を180度逆転させる。いったん公職追放した旧軍国主義者らの復帰を認める一方、「レッド・パージ」に出たのである。一方共産党は、コミンフォルム(注8)が出した「野坂批判」をめぐって所感派と国際派に分裂する(注9)。

GHQの共産党に対する弾圧は強められ、所感派幹部に逮捕命令が出ると、所感派幹部は極秘に日本を脱出、既に革命で共産化していた中国へ渡り、そこから日本国内の仲間・シンパに活動の指示を出すための「司令部」(俗に「北京機関」と呼ばれた)を作るのだが、後にこの北京機関内部で権力闘争が発生する。それは、毛沢東・・・徳田球一・・・伊藤律を結ぶ一派と李初梨(注10)・・・野坂参三を結ぶ一派によって政治局内部で行われ、徳田球一が北京で客死すると一気に対立は激化する。李-野坂ラインは伊藤律を政治局から排除するために伊藤律の「隔離査問」に踏み切るが、この時に「伊藤律端緒説」が利用されるのだ。この辺の事情は、「伊藤律 回想録」(伊藤律・著、文芸春秋社)に詳しいが、李初梨が出席して行われた日本共産党の幹部会議で、野坂が「伊藤律は節操のない人間であり、政治局はその証拠を持っているはずである。直ちに(伊藤を)一切の職務から切り離し、問題を処理せよ」との内容のスターリンの指令書を読み上げる。この「節操のない人間」云々が、戦前のゾルゲ事件での伊藤律の「転向」を指していることは明白であろう。

こうして、李-野坂ラインの思惑通り、伊藤は政治局から追放され、後に党からも除名となる。そして、伊藤律は中国当局による釈放~帰国まで27年間にわたって中国の監獄に幽閉されるという残酷な結果をもたらすのである。

本稿は、共産党内部の権力闘争と伊藤律の幽閉問題が主題ではないので、この問題に関してこれ以上論及することは避けるが、反対意見の存在を認めない「革命党」の非人間的体質と、「国際共産主義運動」「人間解放」の美名の下で行われた人間に対するこれら革命党の深い敵対に関しては、今後あらゆる方面から研究されるべきだろう。
3.ついにはぎ取られた「偽りの烙印」~崩壊した伊藤律端緒説


伊藤律端緒説は、終戦直後の混乱期に情報の閉ざされた外国で起こった特異な出来事に関するものであるにもかかわらずこれまで真剣な検討が行われたことがなかった。それには、この説がもと特高警察官・宮下弘の「回想」に端を発していること、尾崎秀樹、松本清張といった文壇に大きな影響を持つ作家によって唱導されてきたこと、また日本共産党も伊藤律に対し除名という厳しい処分で臨んだ手前、この説を意識的に巷間に流布してきたこと等の事情はあろう。また、帰国後に伊藤律から書簡を託された荒川亘氏(元日本共産党多摩地区委員長)がいみじくも語っていたように、東西冷戦時代には裏切り者の復権につながるような事実が隠されているかもしれない事柄であっても、それをあえて隠してまで守らなければならなかった社会主義の祖国(ソ連)が存在していたという現実もあった。ようやくゾルゲ事件の研究が日本でも行われるようになったのは、ソ連崩壊によって旧ソ連時代の文書の公開が進みはじめたことが背景にある。

中でも、社会運動資料センター代表・渡部富哉氏によるゾルゲ事件研究は、その質の高さで群を抜いていると思う。彼は、日露両国でさまざまな文献を調査し、ついに「伊藤律逮捕前から特高警察によって北林トモが既にマークされていた」事実を突き止めるのである。

このことは、「伊藤の供述によって北林が逮捕された」というこれまでの通説を根底から覆すものになった。このあたりの事情は「偽りの烙印」(渡部富哉・著、五月書房)に詳しいが、最初は北林トモについて日系米共党員「某女」としか記載されていなかった特高警察の捜査関係文書が、伊藤の逮捕と時を同じくして「アメリカ帰りのおばさん」に表現を変えた事情について、渡部氏は、伊藤律が端緒である「ことに装う」ため、伊藤に「アメリカ帰りのおばさん」に会った、との供述をさせ、それに合わせる形で「某女」→「アメリカ帰りのおばさん」への記述変更が行われたと結論づけたのである。もちろん、仮にそうでなかったとしても「某女」が北林である事実に変わりはなく、その「某女」のマークや身辺捜査は伊藤の逮捕より1年も前に始まっていたのであるから、伊藤の供述がゾルゲ・尾崎グループ摘発の端緒でないことは明白になったといわなければならないのである。

伊藤律が着せられていた「濡れ衣」は、こうしてついに剥ぎ取られた。伊藤律端緒説は崩壊したのである。では、北林トモ・宮城与徳を警察に「売った」のは果たして誰なのか?

結論は今後の研究を待つしかないが、渡部氏は今回の講演会で、ある人物の「疑惑」に目を向ける。これについては後述する。

4.1998年「第1回ゾルゲ事件シンポ」に参加して

渡部氏の衝撃的な研究を受け、今から4年前の98年11月7日、第1回「20世紀とゾルゲ事件国際シンポジウム」が開催された(於:飯田橋・東京シニアワーク)。筆者はこのシンポジウムにも出席したが、国際シンポジウムの名にふさわしく、世界的に有名な日本共産党研究者ユーリー・ゲオルギエフ氏、今は鬼籍に入られたトロツキー研究者・石堂清倫(いしどう・きよとも)氏がパネリストとして出席、パネリストではないが「闇の男・野坂参三の百年」著者の小林峻一氏も参加した極めてレベルの高いシンポジウムだった。

渡部氏が「伊藤律端緒説」を覆す研究成果を発表したのは(自著「偽りの烙印」を除けば)この時が最初である。筆者は、この時のシンポジウムの全内容を録音テープに記録しているが、残念ながら限られたスペースで全内容をご紹介することはできない(なお、このシンポジウムで筆者がパネリストとの間で行った質疑応答の内容についてはこちらをご覧いただきたい)。

なお、その後、ゾルゲ事件国際シンポジウムは2000年に第2回がロシアで行われ、今年11月には第3回がドイツで開催される予定になっている。これは、ドイツ人とロシア人を親に持つゾルゲが日本で活動したことにちなんでいる。ゾルゲにとって2つの祖国であるドイツとロシア、そしてスパイとして活動し、愛した日本・・・第3回まででゾルゲにゆかりのある3ヶ国を回り終わった後、第4回目のシンポはゾルゲの生まれた町、バクー(旧ソ連・アゼルバイジャン共和国=現在は独立=の首都)で開きたいと主催者は述べている。

5.講演会・報告

さて、いよいよ講演会の内容に入ろう。今回の講演会は、2ヶ月後に迫った第3回シンポ(ドイツ)に先立って、前回ロシアで開かれた第2回までのシンポの報告を行う「報告会」という位置付けになっている。会場を一瞥したところ、入場者は約200人といったところ。4年前の第1回シンポの際にはほとんどいなかったマスコミ関係者やミーハー(?)な客層が目立つことに不思議さを感じたが、その理由は後述する。

講演会は13時開会。まず最初に、来年(2003年)、篠田正浩監督の手になる映画「スパイ・ゾルゲ」が制作され東宝から配給されること、また篠田監督がこの映画を最後に映画制作から引退することが発表された(マスコミ関係者が会場に多かったのは多分このせいだろう)。続いて「スパイ・ゾルゲ」のごく一部のシーンだけだが先行上映が行われる(主題歌にはジョン・レノンの「イマジン」が使われるらしい)。

上映の後は、「第2回ゾルゲ事件国際シンポジウムの概要報告」と題して日露歴史研究センターの白井久也代表が講演。第1回シンポ以降のゾルゲ事件研究の進展状況、第2回ロシアシンポの概要、また渡部氏の業績の大きさ、世界で最もゾルゲ事件の資料が豊富で、研究も進んでいるのが日本であるということ、第3回シンポをドイツで開催予定であること、第4回シンポはバクーで開きたいこと・・・についても述べられた。

白井氏の後は渡部氏が「ロシアで新発掘された『特高褒賞上申書』について」と題して講演。日本の特高警察文書がなぜかロシアに渡っていて、その中に伊藤猛虎(既出。伊藤律の取り調べを担当)の表彰に関する文書があったという。表彰の理由について「ゾルゲ事件捜査で多大な功績を上げた」と書かれているこの警察文書、それよりも重大なことはこの文書がゾルゲ事件の捜査開始を「1940年6月27日」としていることである・・・と渡部氏の講演は続く。

「伊藤律端緒説」論者が拠り所にしてきたのは、結局は元特高警察官・宮下弘の「回想」であり、そこでは伊藤律の取り調べが「1941年6月上旬」に行われ、その供述を元にして同年「6月下旬」に北林トモの逮捕にこぎつけた・・・と述べられていたから、今回ロシアで発見された文書の意味するところは宮下発言の否定であり、したがって伊藤律端緒説の完全崩壊を意味する・・・と渡部氏はさらに続ける。

さて、3の項の最後で述べた「ある人物」の疑惑であるが、これは講演の終盤になって登場した。同じ特高警察の表彰に関する文書の中に河野啓なる警部補についても記載があり、そこには「宮城与徳の個人的な知人を取り調べて宮城を自供に追い込んだ」との表彰上申理由が述べられているという。個人的な知人とは誰なのか・・・それは解明されていないが、渡部氏は疑惑の人物として松本三益という名前を挙げている(もちろん、現時点ではこれはあくまで推測にすぎないからご注意いただきたい)。

いずれにしても、伊藤律端緒説の根拠となってきたのが一特高警察官の個人的「回想」であるのに対し、警察内部から公文書の形を取ってそれと異なる事実が出てきたわけである。渡部氏の主張はさらに補強される一方、伊藤律端緒説の根拠が崩壊したことは確実であろう。

休憩を挟んで後半からは、篠田監督が「2・26事件とゾルゲ」と題して講演。「スパイ・ゾルゲ」制作にいたった動機について次のように述べる。「・・・昭和20年8月15日を境に日本人の価値観は大きく変わった。それ以前は、三島由紀夫の最期に見られるように、『いかに天皇に殉じるか』『いかによく死ぬか』がテーマだったが、戦後は『自由と民主主義のためにいかによく生きるか』がテーマとなった。(中略)(共産主義という思想を信じ、そのためにソ連のスパイとして生きる道を選び、最後は日本の警察当局によって摘発され処刑された)ゾルゲの生涯は『夢があるから生きられる、理想があるから死ねる』・・・そういう生涯であったと思う。『よく死ぬ』、そして『よく生きる』・・・昭和時代、日本人を貫いた2つの死生観を体現したゾルゲの興味深い生涯を描くことこそ、映画人としての自分が果たすべき最後の仕事だと思っている」。

篠田監督の講演も終了し、いよいよ最後は私にとってはオマケでしかないのだが、大部分のミーハーな観客層にとっては今日のメイン(?)であるトークショーである。実は、「スパイ・ゾルゲ」には篠田監督の夫人である女優の岩下志麻さんが出演することが決まっており(近衛文麿・元首相の夫人役)、そのトークショーなのだ。篠田・岩下ご夫妻を出演させ、最初の講演を行った白井氏が司会として茶々を入れつつトークショーは進んでいく。

司会者(白井氏)「製作現場での篠田監督ってどんな風ですか?」

岩下「時間の制約がないときは穏やかですが、時間や撮影条件の制約があるときは怒鳴りまくってます」

司会「岩下さん、出演者の目で見てゾルゲという男はどうです? 本物のゾルゲは日本で愛人作ったり、ものすごくスケベだったんですが」(会場、笑い)

岩下「愛人って言っても、ひとりひとりに対するゾルゲの愛し方ってものすごく真剣なんです。女としては自分が真剣に愛されていると感じられるならむしろ好感が持てます。後は、(自分の夫の)篠田(監督)がまじめな人間でよかったかなぁと」(会場、笑い)

司会「篠田監督、女優という職業を離れた家庭内の"篠田志麻"はどんな女性ですか?」

篠田「私、実は自分の嫁さんのすることには興味ないんですよ」(会場爆笑)

司会「でも、一緒に住んでる以上普段の姿っていうのは当然あるわけじゃないですか?」

篠田「今度、スパイ・ゾルゲには岩下志麻が出演することになるんですが、こうなるともう彼女を自分の嫁さんとして見ないことに決心しないとうまくいかないワケでして」

まだまだ色々なことが語られたトークショー。岩下さんが出演した代表作「極道の妻たち」制作現場のエピソードなんかもあって面白かったんだけど、ゾルゲと関係ないので割愛させていただく。

こういう経過をたどって、16時45分、4時間弱にわたった講演会は終了。

・2つの祖国のはざまで
20世紀を駆け抜けた類まれなるスパイ・・・リヒアルト・ゾルゲは、ドイツ人の父とロシア人の母の間に生まれ、2つの祖国に抱かれて育った。やがて共産主義を深く信じ、理想の実現のためソ連共産党員となったゾルゲ。母の祖国で理想を実現した「偉大な党」に命じられ赴いた日本で、情報提供者の日本人を安心させるため、日本の同盟国の国民としてナチス党に偽装入党。2つの祖国に続いて2つの党を持つにいたったゾルゲの生涯は、ますます深く謎のベールに包まれていく。そして、2つの祖国が敵味方に分かれ、徹底的に戦った第二次世界大戦の荒波の中でも変わることなく生きたゾルゲ。信じる理想のため、与えられた神聖な任務のため、母の祖国に自ら通報した情報によって父の祖国が打ち負かされていく・・・。

まさに「事実はドラマよりも奇なり」である。数奇な運命という言葉は、ゾルゲのような人間にこそ良く当てはまると思う。ドラマ性に満ちたゾルゲの人生を、篠田監督ならずとも映画にしたいと思うのは当然のことだろう。

「スパイ・ゾルゲ」は篠田監督が10年間暖めてきた構想だという。映画人としての最後の情熱を振り絞り、篠田監督はきっとスパイ・ゾルゲの生涯を忘れられない作品に仕上げてくれるだろう。そして有終の美を飾ってくれると思う。
来年6月の公開が今から待ち遠しくて仕方がない。私は、もちろん見に行くつもりでいる。

(この稿終わり、ただし研究は未完)

〔注解〕
注1)北方進出論・・・日本の敵である共産主義国、ソ連を討つべしとする意見。

注2)南方進出論・・・資源小国の日本は多種多様な資源の供給路を確保するために南洋諸島へ進出すべしとする意見。

注3)御前会議・・・帝国憲法下で陸海軍の統帥権を持つ天皇の出席を仰いでの最高意志決定会議。

注4)コミンテルン・・・共産主義インターナショナル、国際共産党とも呼ばれる。国際共産主義運動のための組織で、名目上はその「司令部」として加盟各国の共産党を指導するとされていたが、スターリン時代以降、事実上ボルシェヴィキ党(ロシア共産党)の下部組織となり、同党の他国の共産党に対する介入の道具となった。最後はスターリンにより解散させられる。

注5)尾崎秀実・・・尾崎は、共産主義のために自ら進んでゾルゲの諜報活動に協力したエージェント(協力者)だった。日本ペンクラブ会長などを歴任した作家の尾崎秀樹(1999年死去)は異母弟にあたる。なお詳しくは、「愛情はふる星のごとく」(尾崎秀実・著)を参照されたい。

注6)「アメリカ帰りのおばさん」・・・当時、コミンテルン指導下にあったアメリカ共産党の日系人党員として活動していた北林トモのこと。治安維持法違反で逮捕された後、1945年、病気のため仮釈放されたが死去。

注7)日本共産党政治局は、その後の組織改正で現在、常任幹部会となっている。

注8)コミンフォルム・・・全欧州共産党、労働者党情報局。ソ連・東欧の社会主義国で構成された。

注9)コミンフォルムの野坂批判とは、日本共産党が当時唱えていた「議会主義革命」「愛される共産党」などの穏健路線に対し、スターリンが日和見主義と罵倒したことを指す(実際には、コミンテルン勤務時代に日和見主義的言動が目に付いた野坂参三(日本共産党幹部)に対するスターリンからの個人的批判の側面をも併せ持つものであったことが最近の小林峻一・加藤昭・立花隆らの研究で明らかになっている)。この批判を契機に日本共産党は大混乱に陥り、「米軍占領下にある共産党は弾圧を招かないように注意しつつ慎重に闘わなければならない」という内容の「政治局所感」を発表する。この「所感」に賛成した主流派が「所感派」と呼ばれ、一方スターリンに理解を示した反主流派が「国際派」と呼ばれた。

注10)李初梨・・・北京機関が存在していた当時、中国共産党中央対外連絡部(中連部)副部長で日本担当者。野坂参三と懇意で毛沢東・徳田球一を煙たがっていたといわれる。後、文化大革命で失脚。

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