成長するばかりが人生ではないと気づいた日本(フィナンシャル・タイムズ) - goo ニュース
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(フィナンシャル・タイムズ 2011年1月5日初出 翻訳gooニュース) デビッド・ピリング
日本は世界で最も成功した社会なのだろうか? こんな問いかけはもうそれだけで馬鹿にされるだろうし、朝食をとりながらこれを読んでいる皆さんはププッと吹き出してしまうのだろう(まあ最初からそのつもりで聞くわけだが)。日本の社会は成功例なのか、だって? そんなのは、日本の経済停滞や財政赤字や企業の衰退について散々聞かされてきたことの正反対じゃないか。
日本をどう思うか、韓国や香港やアメリカのビジネスマンに尋ねてみれば、10人中9人が悲しげに首を振るだろう。ふだんならバングラデシュの洪水被災者に向けるような、痛ましい表情を浮かべて。
「あの国は本当に悲しいことになっている。完全に方向を失ってしまっている」 これはシンガポールのとある高名な外交官が最近、筆者に語った言葉だ。
日本の衰退を主張するのは簡単なことだ。名目国内総生産(GDP)はおよそ1991年レベルにあるのだから。日本が失ったのは10年はおろか、おそらく20年にはなるのだろうと思い知らされる、厳粛な事実だ。JPモルガンによると、1994年時点で全世界のGDPに対して日本が占めた割合は17.9%。それが昨年は8.76%に半減していた。ほぼ同じ期間に日本が世界の貿易高に占めた割合はさらに急落し、4%にまで減っていた。そして株式市場は未だに1990年水準の約4分の1でジタバタしている。デフレはアニマル・スピリットを奪うものだ。日本は「魔法」がとけてしまったのだとよく言われるし、投資家たちは、日本企業がいつの日かは株主を最優先するようになるという幻想をついに諦めた。
こういう一連の事実はもちろん何がしかのことを語っているのだが、それは実は部分的な話に過ぎない。日本について悲しげに首を振る人たちの思いの裏には、前提となる思い込みが二つある。うまく行っている経済というのは、外国企業が金儲けし易い環境のことだ——という思い込みがひとつ。その尺度で計れば確かに日本は失敗例で、戦後イラクは輝かしい成功例だ。そしてもう一つ、国家経済の目的とはほかの国との競争に勝つことだ、という思い込みもある。
別の観点に立つなら、つまり国家の役割とは自国民に奉仕することだという立場に立つなら、かなり違う光景が見えてくる。たとえ最も狭義の経済的視点から眺めたとしても。日本の本当の業績はデフレや人口停滞の裏に隠れてしまっているのだが、一人当たりの実質国民所得を見れば(国民が本当に気にしているのはここだ)、事態はそれほど暗いものではなくなる。
野村証券のチーフエコノミスト、ポール・シアード氏がまとめたデータによると、一人当たりの実質所得で計った日本は過去5年の間に年率0.3%で成長しているのだ。大した数字には聞こえないかもしれないが、アメリカの数字はもっと悪い。同期間の一人当たり実質国民所得は0.0%しか伸びていないのだ。過去10年間の日米の一人当たり成長率は共に年0.7%でずっと同じだ。アメリカの方が良かった時期を探すには20年前に遡らなくてはならない。20年前はアメリカの一人当たり成長率1.4%に対して日本は0.8%だった。日本が約20年にわたって苦しんでいる間、アメリカは富の創出においては日本を上回ったが、その差はさほどではなかった。
GDPだけが豊かさの物差しではないと、日本人もよく言いたがる。たとえば日本がどれだけ安全で清潔で、世界でも一流の料理が食べられる、社会的対立の少ない国かを、日本人自身が言うのだ。そんなことにこだわる日本人(と筆者)は、ぐずぐず煮え切らないだけだと言われないためにも、かっちりした確かなデータをいくつかお教えしよう。日本人はほかのどの大きな国の国民よりも長く生きる。平均寿命は実に82.17歳で、アメリカ人の78歳よりずっと長い。失業率5%というのは日本の水準からすると高いが、多くの欧米諸国の半分だ。日本が刑務所に収監する人数は相対的に比較するとアメリカの20分の1でしかないが、それでも日本は世界でもきわめて犯罪の少ない国だ。
昨年の『ニューヨーク・タイムズ』に文芸評論家の加藤典洋教授が興味深い記事を寄稿していた。加藤氏は日本が「ポスト成長期」に入ったのだと提案する。ポスト成長期の日本では無限の拡大という幻想は消え去り、代わりにもっと深遠で大事な価値観がもたらされたのだと言うのだ。消費行動をとらない日本の若者たちは「ダウンサイズ運動の先頭に立っている」のだと。加藤氏の主張は、ジョナサン・フランゼンの小説『Freedom(自由)』に登場する変人の物言いに少し似ている。ウォルター・バーグランドという勇気ある変人は、成熟した経済における成長 (growth)とは成熟した生命体における腫瘍(growth)と同じで、それは健康なものではなくガンなのだと主張するのだ。「日本は世界2位でなくてもいい。5位でなくても15位でなくてもいい。もっと大事なことに目を向ける時だ」と加藤教授は書いている。
日本は出遅れた国というよりはむしろモデルケースなのだという意見に、アジア専門家のパトリック・スミス氏も賛成する。「近代化のためには必然的に、急激に欧米化しなくてはならないという衝動を、日本は克服した。中国はまだこの点で遅れているので、追いつかなくてはならない」。スミス氏は、非西洋の先進国の中で独自の文化や生活習慣をもっとも守って来たのは日本だとも言う。
ただし、強弁は禁物だ。日本は自殺率が高く、女性の役割が限られている国なのだから。加えて、日本人が自分たちの幸福についてアンケートされて返す答えは、21世紀を迎えてすっかり安穏としている国民のものでは決してない。日本はもしかすると、残り少ない時間を削って過ごしている国なのかもしれない。公的債務は世界最高レベルなのだし(ただし外国への借財がほとんどないのは大事なことだが)。今の日本は巨額な預貯金の上でぐーぐー居眠りをしているのだが、給料の安い今の若者世代がそれだけの金を貯めるには、さぞ苦労することだろう。
経済の活力を内外に示すことが国家の仕事だというなら、日本国家の仕事ぶりはお粗末きわまりない。しかし、仕事がある、安全に暮らせる、経済的にもそれなりで長生きができる——という状態を国民に与えるのが国家の仕事だというならば、日本はそれほどひどいことにはなっていないのだ。
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最近、英フィナンシャル・タイムズは本当にいい記事を書くようになったと思う。傍目八目という諺もあるが、自国を客観的に評価できない日本人よりも、外国人特派員のほうがはるかに客観的に日本を見ているのではないだろうか。
「うまく行っている経済というのは、外国企業が金儲けし易い環境のことだ」「国家経済の目的とはほかの国との競争に勝つこと」を思いこみとし、日本を衰退する国だと考えているのはそうした思いこみにとらわれている連中だ、と看破する論調は多くの日本人にとって新鮮に映るかもしれない(当ブログ管理人は昔から反グローバリズム、反成長主義なので今さら新鮮とは思わないが)。確かに、新自由主義的グローバリズムの立場から見れば日本はもはや魅力を失った反成長国家といえるが、そのグローバリズムとやらで恩恵など受けることのない労働者・農民・社会的弱者の立場から見れば、それが一体どうしたというのだ?
日本の若者が「ダウンサイズ運動の先頭に立っている」という表現は別に誇張でも何でもないと思う。日本国内でも、まだ数は少ないが
若者の「嫌消費」を分析した記事も出始めている。ただ、日本の若者が消費を悪と考えているかどうかはわからないとしても、モノが売れない責任を一方的に若者に押しつけ、嫌消費だなんだと論評するのはかなり違うんじゃないの?という思いが、当ブログにはある。
当ブログ管理人も最近、買い物をしていて感じることだが、本当の意味で欲しいと思うモノにもう何年も巡り会っていないような気がする。スマートフォンにしても、今のケータイが壊れたら欲しいという程度の欲求でしかないし、「ガラパゴス」を初めとした電子書籍端末にしても、A端末で読める本が別メーカーのB端末では読めないと知り、なんだ、結局また互換性問題か(ブルーレイレコーダー以来常について回る問題)と思って買う気がしなくなってしまった。
若者がモノを買わなくなったのには、嫌消費などという薄っぺらな分析からはわからない、もっと深刻で本質的な問題が潜んでいるのではないか。早く言えば、日本の資本主義体制が国民のニーズにあったモノ作りをできなくなっているのではないかということである。車にしても家電にしても、「大量に売って、手早く儲かる」という売り手の自己都合だけで造られ、「何が消費者ニーズか」という最も大切な部分を置き去りにした製品ばかりになっている気がするのである。
2009年の年末、タブロイド夕刊紙「日刊ゲンダイ」が「世界は社会主義に向かう」という予測記事を書いて世間を驚かせた。当ブログ筆者は、仮にそのような時代が来るとしても、自分の目の黒いうちにはあり得ないだろうと思っていたが、最近の若者たちを見ていると、あながちそうとばかりも言いきれない気がしてきた。ことによると、私の目の黒いうち(多分20年後くらい)に日本は若者や女性の力で社会主義社会の入口に立ち、30年後には部分的に社会主義経済の導入に成功するのではないか、という気がしてきたのである。現在の若者世代が社会の中核を担う世代になったときに導入される部分的な社会主義経済は、ソ連型社会主義とは似ても似つかない新しい形態を取るであろうし、初めはどう考えてもビジネスになりようがない医療・福祉・教育などの分野で、その次はおそらく高齢化で真っ先に立ち行かなくなりそうな小売りや飲食といった産業で実現するのではないかという気がする。
いずれにしても、今の若者の意識はそれくらい劇的に変わってきているし、大量生産・大量消費の資本主義的スタイルしか知らない団塊世代・バブル世代から見ると別人種にすら見えるだろう。彼らの世代が本格的な社会変革の担い手として立ち現れる20~30年後の社会が、本当に楽しみである。