ほしちゃんの「続・なるようにしか、ならん」。

安くてウマいもんと料理と旅行と音楽と競馬が好きなサラリーマンの暮らしを、ありのままに綴ります。

ファン歴の長さって、偉いのか?

2016-06-08 21:00:11 | 思うこと

このところ立て続けに、表題のような事を考えさせられる。

今朝のNHK関西ローカル。
ビートルズのコアなファンが出演していたが、オレは武道館公演に行った、オレが誰よりビートルズを愛しているという事を延々と語るので、ムナクソが悪くなってスイッチを切った。
申し訳ないが、ビートルズの武道館なんて私が生まれる前の話なのだよ。行きたくても、行けるワケないやないか。
我々以下の世代は不幸だ、ファンとして下等だとでも言うのか?

最近よく見る、スバルのCM。結婚式か、何かのパーティの帰りと思われる夫婦。
我が音楽の父・大滝詠一の「カナリア諸島にて」がカーステに流れる。
そこで妻が夫に、
「大滝詠一?マキノくんよく聴いてたわね」
とポツリ。
ハァ?私は今でも普通に聴くけど、それがどうした?
それでなくても、とにかく大滝さんや山下達郎の曲はよくCMに使われる。
書くまでもないが、CM制作者の中に
「オレがエラくなって、自分でCMを作れるようになったら大滝さんの曲を流したい」
という輩がとにかく多いのだろう。
当然の思いだろうが、上記のやり取りはこの曲を懐メロ扱いしていないか?
「よく聴いてたわね」
と、過去形で言われて嬉しいナイアガラーは、決して多くないと想像する。
我々以上の世代に共感を得ようとしたこのCM制作者は、結果的にナイアガラーの感性に土足で上がりこみ反感を買っているのである。迷惑な話だ。

私の友人も、スタレビ・ミスチル・ドリカム・小田和正・ナオト…と、とかくファン歴の長さを自慢するヤツが居て困っているらしい。
私も大滝さんや達郎のファンになって35年。スタレビのファンになって30年が経過した。
しかしそれは、たまたま私が中学生時代に彼らの音楽に遭遇し、以来その音楽が色褪せる事なく歌い継がれ、特に達郎やスタレビは今も第一線でライブをこなし、驚異的な動員を誇っているからである。
云わば、偉いのはミュージシャンそのものであり、彼らが長く活躍してくれている事はすべからく彼らの価値。
楽曲との遭遇なんて、例えは悪いが交通事故のようなものだ。ラジオから流れてきたあの曲に一瞬にして心を奪われた、という経験は誰にもあろうが、それが何歳の時だったかだけの違いである。
ゆえに、ファン歴の長さはそのファンの人間的価値基準とはなり得ないのだ。
ファン歴の長さが自らの価値だ、という思い込みが、上記のビートルズファンやCM制作者から垣間見える。

ファンとしての思いの深さも、確固たるモノサシはないし、その存在すら必要はないと思っている。
コンサートに行った回数や、買ったグッズの数の多さを自慢するヤツがいるが、これまた迷惑な話だ。
その人のそのミュージシャンへの思いと、その人の境遇は千差万別だ。
独身で稼ぎを全てコンサートやCD購入にブチ込める人と、シングルマザーで日々の生活が苦しく、子どもを預ける先もない人とでは当然コンサートへ行く頻度は異なる。
しかしその独身とシングルマザーの、どちらがそのミュージシャンに思いが強いかなど比べられるだろうか。
比べる事に、果たして意味があろうか。

音楽とは、極めて個人的なものである。
私も長年ファンでいさせてくれるミュージシャンの皆様に最大限の敬意を払いつつ、ファンとして謙虚に振舞わねば、と思う次第である…